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日常

目が覚める。遅刻しないようにと大音量で15分ごとにスヌーズ設定にした目覚ましを止めてから、今日もあまり良い夢ではなかったなとため息をつく。仰向けに寝そべって天井を見て、今日がまた始まったのだと考えて、少しお腹が痛くなる。コンタクトを付けて、ぼやけていた視界がはっきりとする。ベッドから降りた足がひんやりと冷たい。洋服を着ようとクローゼットに向かう。服を選びながら、これも私の手なんだなぁなんてことを考え始める。ロボットのように、一つ一つの動作を的確に作業しながらふと、自分が立っている場所がどこなのかわからなくなる。自分の部屋、クローゼットの前、そんなことはわかっている。でもどこか、奇妙で仕方がない。夢の続きを見ているような。また今日も。

朝ごはんと身支度を終えて、家の外に出る。階段を、転ばないようにゆっくり降りる。電動自転車に跨って、坂道を登る。パノラマみたいに、色づいてはいるけどどこかモノクロな景色が流れていく。横断歩道を渡る小学生を見て、羨ましくなる。あの頃の私はどんな風に世界を見て、それを実感していたのだろうと。何にも意識なんてしていなくても、「現実」という当たり前を味方につけていたあの頃の私。当時の私もやっぱり弱虫で、人の目が気になって、自分の言葉で誰かを傷つけたくなくて、人と話すのは好きだけどちょっと疲れてしまったりもして。だけどそれでも、そこに自分がいるという感覚は確かにあったんだから、羨ましい。

駅に着いて、電車を待つ。朝のラッシュは人が多くて嫌になる。バイト代を貯金して買ったAirPods Proを両耳に付けて、充電が満タンであることに安堵して、ノイズキャンセリングをして、外の音を塞ぐ。私の世界に音を取り込む。最近のお気に入りはドラマsilentのサウンドトラック。フィルムみたいに淡々と流れていく、私の目に映る景色にはサウンドトラックがよく似合う。これを聞いているうちは、現実との間に距離を感じても比較的辛くはならない。私も物語の主人公みたいに、日常を生きていると錯覚できるから。

誰よりも大切な人に会う。目の前にいるこの人が、本当に好きだと思う。いくら離人症でも、心だけは私の中にしっかりと残存している。手を繋ぐ。体温が伝わってきて、私がここにいるという証明ができる。美味しい食べ物のお店に入る。スプーンを口に運ぶ。私の手じゃない、口じゃない、そんな考えがポンポンと浮かんできて、また悲しくなる。それを紛らわせたくて、私は「美味しい」と言いながら満面の笑みではしゃぐ。それを聞いて貴方は嬉しそうに笑う。貴方が笑うと私はとても嬉しいけれど、いつもどこか淋しい。「普通」だった頃の私で貴方と出逢えていたら、どんなに良かっただろう。

友達に会う。相手から見て、私の言動に違和感はないことを感じ取って安堵する。大人数で会話するとき、私は必死で集中して、笑う。皆んなが楽しそうに戯れている中、私は1人でガラス越しに皆んなを見ている。どこか他人事で、頭の中に霞がかかったような、そこにいるのに中身だけがどこか遠くに行ってしまったような、奇妙な感覚が強まる。叫び出したくなる。皆んなと別れて、家に帰ってから静かに泣く。

私を生きていると証明してくれるのは人なのに、生ける屍という感覚を突きつけてくるのもまた、人だったりする。
現実の中へと戻れる手がかりを探しながら私は今日も息をする。挫けるものかと奮い立つ日もあれば、無気力で生気を失う日もある。自分で自分の体を傷つけて、申し訳なさと悲しさでいっぱいになったりもする。

夜になって布団に入る。温かい。夜の部屋は静かで好きだ。暗くすると、物も景色も見えなくなって、「自分」の存在位置が不安定になることは無いから安心する。
眠る前、明日が今日よりも良い日であることを願う。
おやすみなさい。また夢の中へ。



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