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消えたいとか、そうじゃないとか

消えたいとか、死んでしまいたいとか、そういう言葉って自分からは絶対に出てこないものだと思っていた。
出しちゃいけないっていうのもそうだけど、何不自由なく生まれてきた私は、特段悪い環境に身を置くこともなく、ごく普通に生活を送ってきたから。少なくとも幼少期、中学、高校と、そりゃ色んなことがあったし辛いこともあったけれど、そういう言葉が頭に浮かぶことはなかったのだ。
だけど、離人感を感じるようになってから、ふと気を緩めた時に自分自身を「落とす」ことが容易に出来るようになっていったと思う。何せ体感するものに現実味を感じないわけだから、必然的に生活における危機管理能力は落ちているし、階段を踏み外しやすいとか、自転車で車と接触しやすいとか、そういうリスクが多いわけで。ぼーっとするなんて日常茶飯事だから、とにかく「集中」を意識的にやらないと、いつ何が起こるかなんてわからない。(こういう、リスクに対して過度に集中しなくてはならないというものも、離人症の疲れるところかも)
それに加えて、自分以外の誰かと(特に大人数で)話している最中に感じる孤立感や哀しさが、「消えたい」という感情の材料になっていると思う。みんなはこの世界に対して何も違和感を持っていなくて、ごく当然のように自分がそこにいると認識できていて、それなのに私はそう思えない。馬鹿みたいに「非現実」というものに囚われて、ずっとガラス越しに皆んなを見ていて、悲しくて辛くてたまらない。「誰にもわかってもらえない」という感情が心を支配すると、ふとした時に「あれ、私なんで生きてるんだろう。消えたとしても、自分でも気づかないんじゃない?」なんてことを考えていた。初めてそれを考えた時、自分の変貌にゾッとした。そんな思考をすんなりと生み出してしまったことが恐ろしかった。内面的な症状って、こんなにも人を落とせるのかと。

それじゃあ、実際に消えてみたいのかと言われると違うのだ。私が望んでいるのは多分、というか絶対、「普通の生活を送ること」なんだと思う。辛いことも悲しいことも嬉しいことも楽しいことも、全部をちゃんと以前のように「自分」だと思って過ごしたいだけ。そんな素朴な願いなんだけど、なかなか難しいみたいで。気長に待つしかなさそうだし、本当ににそんな日が訪れるのかわからない。そんな漠然とした不安を抱えて、毎日生きているよ。「消えないで欲しい」っていう大切な人の言葉と、美味しい食べ物と、優しい音楽と、希望を求めた文学と、全部抱えて生きてくよ。だから、未来の私はこの記事を振り返った時、「それで正解だ」と普通に笑ってね。



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