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同性愛者への司牧的ケアについて【教皇庁教理省】

1986年、教皇庁教理省は全世界のカトリック教会の司教に向けて、同性愛者への司牧的ケアに関する書簡を発表しました。同性愛の"傾向"と"行為"の違い、正しい聖書理解、同性愛者への司牧で気をつけるべきことなどが具体的に書かれています。

著者は、後に教皇ベネディクト16世となった、当時、教理省長官のヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿です。本文書は、神のみことばとキリスト教的人間論という視点からこの課題に取り組んでいます。深い洞察力と先見の明に長けた重要な文書といえるでしょう(以下、試訳。副題・目次追記。リンクは文末)。

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教皇庁教理省
同性愛者への司牧的ケアに関する
カトリック教会のすべての司教への書簡

(1986年)

はじめに

1 同性愛の問題と同性愛行為の倫理的評価は、ますます公の議論の対象となってきました。カトリック界においてさえもそうです。こうした議論は、しばしばカトリック教会の教えと矛盾する討論を推し進めたり、主張したりするので、司牧にたずさわるすべての者にとって懸念の材料となるのは至極当然のことです。それゆえ、本省はこの問題が重大かつ広範な重要性を持つと判断し、カトリック教会のすべての司教に向けて、同性愛者への司牧的ケアに関する本書簡を宛てます。

2 この複雑な問題をここで網羅して扱うことは当然できませんが、本省はカトリック倫理の視点という独特の文脈の中で、本題を考察することにしたいと思います。この視点は、正当かつ適切な方法論と調査分野を独自に持つ、自然科学の確実な知見に裏付けられているものです。

しかし、カトリック倫理観は、信仰に照らされた人間の理性に基づいており、父なる神の御心を実現したいという望みによって突き動かされています。このように、教会は科学的発見から学ぶだけでなく、科学の地平を超えて、より世界的な視点に立ち、神によって創造され恩寵によって永遠のいのちを受け継ぐ、霊的・肉体的次元をもつ「人間」の豊かな現実を、より正しく評価することができると確信しているのです。

この観点から見たとき、同性愛という事象は――それが複雑かつ社会や教会生活に多大な影響を及ぼすものであるために――教会の司牧的ケアの課題として捉えるべきものであることは明らかです。そのため、教会のすべての司牧者にはこの課題について注意深く研究し、積極的に関心を持ち、神学的にバランスのとれた誠実な助言をすることが求められます。

同性愛の「傾向」と「行為」の違い

3 この問題が明確に扱われたのは、1975年12月29日、本省が発表した『性倫理の諸問題に関する宣言』においてです。この宣言は、同性愛的症状を理解するための義務を強調し、同性愛行為における過失の責任は、慎重に判断されるべきであると述べています。それと同時に、同性愛的「症状」もしくは「傾向」と、個々の同性愛「行為」との間に通常引かれる区別に、本省は留意しました。これらは、本質的かつ不可欠な最終目的(※訳注 生殖)を排除したものであり、「本質的に秩序を乱すもの」としていかなる場合においても承認されることはないと説明されています(第8項、4節参照)。

しかし、この宣言が発表された後になされた議論では、同性愛的症状そのものに過度に気をつかう解釈がなされ、同性愛的症状を「倫理的に中立」、あるいは「善」と呼ぶ者まで出てきました。同性愛者特有の「傾向」は罪ではありませんが、多かれ少なかれ、本質的に、倫理的悪に向けられた強い傾向性であり、したがってこの傾向自体、一種の客観的な障害と見なされなければいけません。

そのため、このような症状がある人には特別な配慮をし、司牧において注意を払う必要があります。この指向を同性愛行為の中で実現させることは、「道徳的に容認され得る選択肢だ」と彼らが信じてしまわないようにするためです。それは誤りです。

同性愛の聖書的理解

聖書、聖伝と教導職の密接な関係

4 真正な司牧的ケアに不可欠な要素は、教会の教えにまつわる混乱の原因を特定することです。本題の混乱の原因の一つは、新しくでてきた聖書釈義です。聖書は同性愛について何も述べていないとか、聖書は同性愛を黙認しているとか、聖書のすべての倫理的規範は当時の文化に依存するもので、現代の生活にはもはや適用できないなど、さまざまな主張がなされています。これらの見解は重大な誤りであり、本書では特に注意を促します。

5 確かに、聖書文学は書かれた時代の違いによって、思想や表現のパターンが大きく異なります(第二バチカン公会議文書『神の啓示に関する憲章』第12項)。今日の教会は、古代とは多くの点で異なる現代世界に向けて福音を伝えています。しかし、新約聖書が書かれた世界は、例えばユダヤ人の聖典(※訳注 旧約聖書)が書かれたり編纂されたりしていた時代の状況とは違い、すでにかなり文化的に多様化していました。

注目すべき点は、このような驚くべき多様性があったにもかかわらず、聖書自体に、同性愛行為という道徳的な問題に関して、明確な一貫性があるということです。したがって、この問題に関する教会の教義は、安直な神学議論のために全体から切り離された聖句の上にではなく、一貫して語り続けられる聖書のあかしという強固な基盤の上に立っているのです。今日の信仰共同体は、古代の聖書が書かれた当時のユダヤ人やキリスト教徒の共同体と途切れることなく続いており、同じ聖書と「神のみことば」である真理の霊によって養われ続けています。同様に忘れてはならない重要なことは、教会の生きた伝統と矛盾する方法で聖書が解釈された場合、聖書は正しく理解されないということです。聖書の解釈が正しいものであるためには、その伝統と実質的に一致していなければなりません。

第二バチカン公会議文書の『神の啓示に関する教義憲章』10項では、このように述べられています。

10  それゆえ、聖伝と聖書と教会の教導職とが神のきわめて賢明な配慮によって相互に結びつき協力し合っていること、したがって、そのいずれも他のものなしには成り立たず、三者すべてが同時に一つの聖霊の活動のもとでおのおの独自のしかたで霊魂の救いのために効果的に貢献していることは明らかである。

この精神にのっとり、聖書の教えを簡単に説明していきたいと思います。

同性愛に関する聖書と教会の教え

 同性愛に関する議論を理解するための基本原則として、創世記の「創造の神学」があります。神は、その無限の知恵と愛において、ご自身の善をあらわすものとして、現実にあるすべてのものを存在させます。神はご自身にかたどり、ご自分の「似姿」として人間を男と女に創造されました。したがって、人間は神ご自身の被造物にほかなりません。そして人間は、男女の相互補完性において、創造主の内的一致をあらわすよう呼ばれているのです。男女の互いへの自己贈与によってなされる生命の伝達において、神と協力することで、人間はこの召命を顕著なかたちであらわすのです。

創世記第3章では、「人間は神の似姿である」というこの真理が、原罪によって覆い隠されてしまったことがわかります。結果として人間は、自分たちと神との間、互いとの間にあるつながりの契約的特質を認識できなくなってしまいました。人間の体は「配偶者としての意義」を保持していますが、罪によって陰りを帯びるものとなってしまったのです。そうして、創世記19章1~11節のソドムの人々の物語の中で、罪による人間の堕落が続くのです。ここで、同性愛に対する道徳的判断がなされていることに疑いの余地はありません。レビ記18章22節と20章13節では、神の選ばれし民に属するために必要な条件を記す過程で、同性愛行為をする者を神の民から排除しています。

このような神権法の説明を背景に、聖パウロは終末論的視点を展開させ、Ⅰコリント6章9節で同じ教義を提言し、神の国に入ることのできない者の中に、同性愛行為をする者を挙げています。

ローマ人への手紙1章18~32節では、先人たちの道徳的な伝統を土台にしながらも、キリスト教と当時の異邦人社会との対立という新しい文脈の中で、パウロは、同性愛行為を人類の目を曇らせる「盲目」の例として取り上げています。創造主と被造物の間に本来あるべき調和の代わりに、それを著しく歪めた偶像礼拝は、あらゆる種類の不道徳をもたらしました。パウロは、この不調和を示す例として、同性愛関係以上に明確なものを見つけることはできませんでした。最後に、テモテへの第一の手紙1章です。ここでもパウロは、聖書の立ち位置と完全に一致して、誤った教義を広めている人々を選び出し、10節では、同性愛行為を行う人々を罪びととして明確に挙げています。

 教会は、自分を建て秘跡的いのちを与えてくださった主に従い、「男女の愛といのちを生み出す結びつき」という神の御計画を、結婚の秘跡において記念しています。生殖能力の行使が道徳的に善いものとなるのは、婚姻関係においてのみです。したがって、同性愛行為を行う者は不道徳な行為をすることになるのです。

同性の者を性行為の相手として選ぶことは、創造主が性をつくられた目的はもちろん、その豊かなシンボルと意義を無効にしようとすることです。同性愛行為は、命を伝達することのできる相互補完的な結びつきではありません。したがって、福音書がキリスト者の生活の本質であると述べている「自己贈与」の生活への呼びかけを妨げるのです。このことは、同性愛者が寛大ではないとか、自分自身を他者に与えることがまったくないという意味ではありません。しかし同性愛行為に及ぶとき、彼らは自分の中で、本質的に自己満足的な逸脱した性的傾向を確立させるのです。

他のあらゆる不道徳行為でもそうであるように、同性愛行為は、神の創造的知恵に反することを行うことにより、人間の自己充足と幸福を妨げてしまいます。教会は、個人の自由と尊厳を制限しているのではなく、同性愛に関する誤った意見を否定することで、現実的かつ真正に理解した上で、これらを擁護するのです。 

8 このように今日の教会の教えは、聖書の視点と教会自身の不変の聖伝との間に、有機的な連続性を有しています。今日の世界は、多くの点で非常に新しいものではありますが、キリスト教共同体は、「信仰のしるしを刻まれた※」先人達の世代との間に、深遠で永続的なきずなをもっているのです。(※『カトリック教会のカテキズム』1274番参照)

教会内外の誤った考え

それにもかかわらず、今日、教会内でも同性愛的症状を「秩序から外れたものではない」かのように受け入れ、同性愛行為を容認するように、教会に大きな圧力をかける人が増えています。このような主張をする教会内の人々は、しばしば教会の外にいる同意見を持つ人々と密接な関係を持っています。後者は、キリストの神秘において完全に開示された「人間に関する真理」とは反対のビジョンに導かれています。彼らは、まったく意識的ではないにしても、物質主義的なイデオロギーを反映しています。それは、人間の超越的特質や一人ひとりに与えられた超自然的な召命を否定するのです。

すべての聖職者は、自分たちの司牧管轄にいる同性愛者たちが、教会の教えに大きく反するこのような視点に惑わされないようにしなければなりません。しかし、その際のリスクは大きいでしょう。教会の立場を混乱させて、その混乱を自分の利益のために利用しようとする人は多くいるのです。

教会内で誤りを広めようとする団体

 教会内でのこうした運動は、さまざまな名称や規模の圧力団体の形をとっており、まるで自分たちがカトリック信者の同性愛者全員を代表しているかのような印象を与えようとします。実際にこうした団体の会員は、教会の教えを無視したり、それを何とかして弱めようとしたりする人たちだけに限定されています。こうした団体はカトリシズムの庇護の下、同性愛行為を放棄するつもりのない同性愛者を集めているのです。このような団体の戦術のひとつは、同性愛者やその活動、同性愛的ライフスタイルに対するあらゆる批判や懸念は、「単に、さまざまな方法で行われる不当な差別だ」と抗議することです。

いくつかの国では民法や法律を変えることを目的として――しばしば善意の司牧者の支持を得ながら――教会を操ろうとする試みが行われています。これは「同性愛が完全に善いものではないにしても、少なくともまったく無害である」という圧力団体の概念に迎合するために行われます。同性愛行為の実践には、多くの人々の生活や幸福を深刻に脅かす恐れがあるにもかかわらず、こうした活動家たちはその重大な危険性を考慮することを一切拒みます。

教会は、決してそのような無慈悲なことはできません。確かに、教会の明確な立場が民事法制や流行という圧力によって変えられることはけっしてありません。しかし、教会が本当に心配しているのは、同性愛推進運動に代表されていない多くの人々や、その欺瞞的なプロパガンダを信じるように惑わされた可能性のある人々のことです。また「同性愛行為は夫婦愛の性的表現と同等に受け入れられる」という見解は、社会における家族の性質や権利に関する理解に直接影響を及ぼし、それらを危険にさらすものであることも教会は認識しています。

10 同性愛者が、人々の言動において、暴力的な悪意の対象となっていることは嘆かわしいことです。このような扱いはどこで発生しても教会の司牧者から非難されるべきです。それは、健全な社会の基本原則を危険にさらす、ある種の他者の軽視を示すものです。一人ひとりの人間の本質的な尊厳は、言葉、行動、法律において常に尊重されなければなりません。

しかし、同性愛者へのこうした犯罪に対する適切な反応が「同性愛的症状は逸脱していない」と主張することであってはなりません。このような主張がなされ、結果的に同性愛行為が容認されたりすれば、また権利を持つことなど到底考えられないような行為を擁護するための市民立法が導入されたりすれば、その他のあらゆる歪んだ概念や慣習が定着し、不合理で暴力的な反応が社会で増加するでしょう。そうなったとしても、教会や社会全体が驚くことは何もないはずです。

人間の自由意志に関する誤った考え

11 同性愛の傾向は場合によっては、本人の意図的な選択によって決定された結果ではないので、同性愛行為に及ぶほか選択肢がないのだという主張もあります。同性愛者には(選択の)自由がないのだから、彼らが同性愛行為をしても、それを罪に問うことはできないというものです。 

ここで、教会の賢明な倫理的伝統が必要となってくるでしょう。なぜなら個々の事例を判断する際に、それらを一般化しないよう注意を促しているからです。実際に、ある事例において、個人の責任を軽減ないしは取り除くような状況が存在するかもしれませんし、過去に存在したかもしれません。あるいは、他の状況がその責任の重みを増すこともあるかもしれません。しかし、何としても避けなければならないのは、「同性愛者の性的行動は、常にまったく不可抗力的であり、したがって罪にはならない」といった根拠のない卑屈な仮定です。重要なことは、人間を特徴づけ、人間に尊厳を与える「基本的自由」が、同性愛者にも同じようにあると認めることです。悪からの回心ではすべてそうであるように、同性どうしの性行為を放棄するには、本人が、人間を解放する神の恵みと十全に協力する必要があります。

同性愛者のキリスト者としての召命

12 では、主に従おうとする同性愛者はどうすればよいのでしょうか。基本的に求められていることは、自分の症状のために経験する苦しみや困難を、主の十字架の犠牲に結びつけることによって、自分の人生において神の御心を実現することです。その十字架は、信者にとっては実りある犠牲なのです。その死から、いのちと贖いがもたらされるからです。十字架を担うこと、また、キリスト者の苦しみをこのように理解することへの呼びかけに対して、他の人から辛辣な嘲笑を浴びせられることもあるでしょう。しかしこれこそが、キリストに従うすべての人にとって永遠のいのちに至る道であるということを忘れてはなりません。

それは事実、ガラテヤの信徒への使徒パウロの教えにほかなりません。パウロは、聖霊が信者の人生に「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(5・22)を与え、さらに「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった(24節)」と語っています。

しかし、これらが単に無意味な自己否定のための努力と見なされれば、容易に誤解されてしまいます。十字架は自己否定ではありますが、それは神の御旨そのものへの奉仕であり、神は死からいのちを生み出させ、神を信じる者には、悪徳に代わって美徳を実践する力を与えてくださるのです。

主の受難の神秘を記念するためには、その神秘を日々の生活の内部に刻みつけることが必要です。主の御旨に従うために自分の意志を犠牲にする――これを拒むことは、事実、その者の救いを妨げることになるのです。「十字架」がイエスにおける、わたしたちに対する神の救いの愛の表現の中心であったように、主の犠牲にならう同性愛者の男女の自己否定は、彼らのために「自己贈与」の源を築きます。それは、常に破滅の危機にさらされる生き方から、彼らを救うことにもなるのです。

同性愛者のキリスト者は、わたしたちすべてがそうであるように、貞潔の徳の生活に召されています。神からの個人的な召命の性質を理解しようと全身全霊努めるとき、彼らはゆるしの秘跡をより忠実に記念することができるようになります。自分の人生をより完全に神の道へ転向していくために、彼らはそこで豊かに与えられる主の恵みを受け取ることができるのです。

すべての司教への指針

13 本省は当然のことながら、教会の教えを全信者と社会全体に明確かつ効果的に伝えるには、司牧者の正しい指導と忠実さに負うところが大きいと認識しています。すべての司教は特に重大な責任をもっています――司教の司牧を支える者たちが、とりわけ司祭たちが、教会の教えをすべての人に完全な形で伝えるために、公正で成熟した者であるかどうかを確かめなければなりません。 

多くの聖職者や修道者が同性愛者への司牧的ケアの中で示す特有の気遣いと善意は、賞賛に値するものです。今後もそれが衰えることはないと期待しています。このような献身的な司牧者は、同性愛者を貞潔の生活へと導くことで、また神からその者に与えられた尊厳と価値を肯定することで、主の御旨に忠実に従っているという確信を持つでしょう。

同性愛者への司牧で注意すべきこと

14 このことを念頭に置きながら、本省がすべての司教に対し、特に注意を払うよう求めたいのは、「教会の教えを変えない」と主張しながらも、教えを変えるために圧力をかけようとする団体の計画です。彼らの公式声明や推進する活動を注意深く調べると、司祭や信者を欺くための、意図的な曖昧さが見えてきます。例えば、教導職の教えを紹介することはあっても、それはあくまで自己の良心を形成するための「任意の」情報源であるかのように紹介するのです。彼らは教導職固有の権威を認めることはしません。このような団体の中には、自分たちの組織や会員性を表すのに「カトリック」という言葉を使用しているところもあります。しかし彼らは教導職の教えを擁護・促進しているわけではなく、むしろ公然と攻撃していることさえあります。こうした団体の会員は、自分たちは自らの生活をイエスの教えに従わせようとしている、と主張するかもしれませんが、実際には、主の教会の教えを放棄しているのです。このように矛盾した行動は、いかなる場合も司教の支持を得ることはできません。

15 そこで本省はすべての司教に対し、各教区の同性愛者に対して、教会の教えと完全に一致した司牧的ケアを提供することを勧めます。真正な司牧プログラムであれば、同性愛行為が不道徳であることを明確に述べずに、同性愛者を集わせるような団体を受け入れることはしません。真正な司牧的アプローチであれば、同性愛者が罪に近づく機会を避けることの真価を認めるでしょう。

本省は、このような危険を排除した司牧プログラムを積極的に奨励します。しかし明確にしたいのは、司牧的ケアを提供したいがために、教会の教えから離れたり、それについて沈黙したりすることは、思いやりでも司牧的でもないということです。結局、真理であるものだけが「司牧的」となり得るのです。教会の教えをないがしろにすることは、同性愛者の男女が必要とする、ふさわしいケアを彼らが受けるのを妨げてしまいます。

真正な司牧プログラムは、霊的生活のあらゆるレベルで同性愛者を支えます。秘跡――特にゆるしの秘跡を頻繁かつ誠実に用いることによって、また、祈り、あかし、指導、個人的なケアを通してです。このようにしてキリスト者の共同体は、兄弟姉妹を欺いたり孤立させたりすることなく彼らを支えるという、共同体全体の召命を認識することができるのです。

同性愛者の全人的なケアの必要性

16 このように多面的な司牧アプローチからは多くの利点が得られるでしょう。その中で特に重要なことは、同性愛者は他のすべての人と同じように、人間の様々な面において、全人的に養われなければならないと気づくことです。

神にかたどり神の似姿に造られた「人間」は、その人の性的指向のみを語るような還元主義によって適切に説明することは到底不可能です。地上に住むすべての者が個々の問題や困難を抱えつつも、成長、活力、才能、賜物を求めて努力しているのです。教会は、人間を「異性愛者」または「同性愛者」として考えることを拒みます。人間一人ひとりが神の被造物であり、恩寵によって神の子となり、永遠のいのちの相続人となるという根本的なアイデンティティを有しています。教会はこのことを語り続けることで、今日、こうした人々の司牧的ケアのためにもっとも必要とされている環境を提供するのです。

17 本省は、この問題全般について注意喚起することで、この重要な課題に関する主キリストと教会の教えを全信者に十全に伝えようとする、すべての司教の努力を支えたいと考えています。 

以上の点を考慮して、すべての司教は自分の教区に対して、どの程度まで自分が介入する必要があるかを見極めてから、どのようにするかを決定してください。また、有用と思われる場合には、全国司教協議会レベルで、さらに協同した行動をとることもできます。

司教には特に、同性愛者のための適切な司牧的ケアの開発を、司教にゆるされたあらゆる手段を講じて、支援することをお願いしたいと思います。こうした司牧的ケアには、教会の教えに完全に合致した心理学的、社会学的、医学的な科学の助けが必要です。

また、司教に勧めるのは、神学者の助けを求めることです。彼らは全員、教会の教えを忠実に教える者でなければなりません。そして、人間の性とキリスト教的結婚の真の意味とそれが生み出す美徳についての考察を深めることで、この特別な司牧分野で重要な貢献ができる者でなければなりません。

司教は、司牧担当者の選択に特別な注意を払うよう求められています。それは、司牧者自身の高い霊性と人間的な成熟と教導職への忠誠によって同性愛者に真の奉仕をし、同性愛者の健康と幸福を最大限に促進するためです。そのような司牧者は、教会の教えに反する神学的意見を拒むでしょうし、そうしたものを司牧のガイドラインとして使用することなどしないでしょう。

本省はすべての司教に対し、適切な教化プログラム――教会がこれまで教えてきた、家庭と密接につながる「人間の性に関する真理」に基づくもの――を推進することを奨励します。このようなプログラムは、同性愛に関する課題に取り組むために、良い文脈を提供してくれるでしょう。

またこのようなカテケージスは、同性愛者を家族にもつ者たちが、彼らに深い影響を与える、この問題と向き合うときにも役立つでしょう。

誤った教えを広める団体に対する処置

教会の教えを弱めようとしたり、曖昧にしたり、まったく無視したりする組織への支援は、すべて取りやめてください。そのような支援は、あるいは支援に値するものは、重大な誤解を招く恐れがあります。これらの団体による礼拝などの企画の申込や教会の建物の使用については、特に注意を払う必要があります。これは、カトリック学校や大学の施設も含みます。こうした団体に教会施設の使用を許可することは、ある人の目には正しく慈愛に満ちたことのように映るかもしれません。しかし実際にそうすることは、これらの施設が設立された目的に反することであり、周囲に誤解を与え、しばしば人のつまずきの原因となるのです。

法案を評価する際、すべての司教は家庭生活を守り促進するという、自分に課せられた責任を最優先に考えなければなりません。

むすび

18 主イエスは「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8・32)と約束されました。聖書は、わたしたちが愛に根ざして、真理を語るよう命じています(エフェソ4・15参照)。真理であると同時に愛でもある神は、我らのあわれみ深い主の司牧的配慮をもって、すべての男女、子どもに奉仕するよう教会に呼びかけておられます。本省はこの精神に基づいて、本書簡をカトリック教会のすべての司教に宛てました。誤りによってその重みを増し、真理によってのみ軽くなる――こうした苦しみを抱える人々の司牧的ケアのために、本書簡が役立つことを願っています。

教皇ヨハネ・パウロ2世聖下は、本省長官との謁見の中で、本書簡が教理省の通常会議で採択されたことを承認し、発表を命じられました。

1986年10月1日、ローマにて

長官 
ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿

秘書 
アルベルト・ボヴォーネ
ヌミディアのセザリア名義司教

文書へのリンク(英語):Letter to the Bishops of the Catholic Church on the Pastoral Care of Homosexual Persons

※『神の啓示に関する教義憲章(1965年)』は、以下の書籍にまとめられています。

出典:
『第二バチカン公会議 典礼憲章/神の啓示に関する教義憲章』、カトリック中央協議会


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