見出し画像

「みだらな思い」と「心の中の姦淫」

マタイの福音書5章で、イエスが人々に注意を促している「みだらな思い」とは何なのでしょうか?日常生活において、私たちはこれをどのように捉えるべきでしょうか?誰かに性的に惹かれること自体が「罪」なのでしょうか?

カトリック・プロダクションズ(Catholic Productions) の聖書学者、ブラント・ピートリー博士の解説の一部をご紹介します(以下、和訳。動画と英文へのリンクは文末)。


***
2020年1月17日

マタイによる福音書‬ ‭5章27~30‬ 節
あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。

・・・ (この聖書箇所では)「みだらな思い」を取り扱っています。 これはよく誤解されたり、疑問に思われたりすることが多いので、少していねいに見てみましょう。 イエスはここで、モーセが十戒の中で姦淫を禁じていることを指摘しています。「姦淫」とは、他人の配偶者と性的関係を持ち、結婚の契約を破ることです。 しかしイエスは、それよりさらに踏み込んで「みだらな思い」で、他人の妻を見ることさえも禁じています。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、その女をすでに犯したのである――体ではなく、『心(ギリシャ語では”カルディア”といいます)』の中で」と。

「カルディア――心」は、 聖書の中では単に感情の中枢であるだけでなく、それ以上に、人間の意志が座すところでもあります。「心」は私たちが「意思決定」をする場所です。 それは人の最も深い部分であり、神に賛成するか反対するか、善を選ぶか悪を選ぶかを決定する場所です。 それは、私たちが合意をする場所――承認を与える場所です。これが、 イエス様がおっしゃっている「『心の中で』姦淫する」が意味するところです。

聖アウグスティヌスの解説がここでも役立つと思います。彼は区別をしているからです(ちなみに聖伝も同じような区別をしています)――つまり、イエスは「女性に惹かれる者」とは言っていない、ということです。なぜなら誰かに惹かれること自体は、自然な欲や感情であり、人の無意識に表れるものだからです。

聖アウグスティヌスによれば、イエスが言いたいのは、もし私たちが、歪んだ情欲に心をゆだねるならば、みだらな感情に心をゆだねるならば――例えば、相手と関係をもつ妄想を意識的にしたり、もしくは(アウグスティヌスも言っていますが)心の中でその欲望に「承認を与える」ならば――つまり機会があれば実際にそれを行動に移そうとするならば、そこにこそ罪が存在するのです。心が与えた承認の中に。なぜなら、その人は心の中で姦淫をおかしたからです――体ではその過ちをおかしていなくても。これこそが、イエスがここで言いたいことの深い意味であり、正確な意味なのです。

私がこの話をするのは、こんなことがあったからです――何年も前にこの聖書箇所を教えていたとき、ある学生が「そんなこと無理だ。女性を絶対に『みだらな思い』で見てはいけないなんて、不可能だ」と言ったからです。 彼が言いたかったのは「異性に魅力を感じる」という自然な感情についてでした。私は彼に、イエスがここで非難しているのはそういうことではない、とはっきり伝えなければなりませんでした。 あなたが自然に経験する、誰かに惹かれる感情そのもののことではないのです。そうではなく、あなたがその感情をどう取り扱うかが問題となるのです。  

あなたはその欲望を、心の中で大きくしようとしていますか?  あなたは、できることならば、それに基づいて行動したいと思っていますか? もしそうであれば、そのみだらで歪んだ情欲に対して、あなた自らが承認を与えたことになるのです。

さて、私たちがしなければいけないことの一つには――神との新しい契約において、イエスが弟子たちに呼びかけていることでもありますが――、私たちは身体や外面的な罪だけではなく、「心」の中にある罪とも闘うことです。「心」そのものから罪が生じるからです――罪への傾きや歪んだ欲望など――私たちはそれらと闘わなければならないのです。

イエスはその闘い方を、かなり生々しい表現を使って教えてくださいました。 

もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。・・・もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。

この箇所は、山上の垂訓の中で、イエスが「誇張法」として知られる、言葉のあやを使っていることを示すとても良い例です。 誇張法とは何でしょうか?  誇張法とは、教師が自分の主張したいことを伝えるために大げさに話すことです。 授業を教えたことがある人なら、この話法を知っているでしょう。 学生たちが授業に集中しないことはよくあります。彼らの注意を引くためにはどうすればいいでしょうか?  誇張しなければなりません。 身振り手振りをしなければなりません。 重要なポイントを覚えてもらうために、注意を引くようなことをしなければなりません。

イエスは明らかに、私たちがこの言葉を「文字通り」に受け取ることを意図しているわけではありません。 片目や片腕の弟子たちが、その辺をうろうろするようなことは望んでいません。 実際に目を切り取ったり、手を切ったりすることを勧めているわけではないのです。

これは比喩なのです。自分の目を管理することを説くための。「みだらな欲望に満ちた目」の管理です――どのように他者を見るか、どこを見るか、誰を見るか、どのような気持ちでその人を見るか。また、体を管理することも意味しています――自分の体の部位を管理すること――神の律法や私たちの体が造られた目的に沿ったことだけを体で行うことです。当然、姦淫はその目的に沿うものではありません。それは体に反します――体が(人間に)与えられた意義に反します。 

イエスはこの比喩を使い、こう伝えたいのです――「どのような手を使ってでも、心の中のみだらな思いと闘いなさい。手足を失って片手片目で神の国に入る方が、体のすべての部分を持ってゲヘナ(地獄)に投げ込まれるよりも良い」。

イエスはこのようなイメージを使って、つまり非常にショッキングで印象的なイメージを使って「心の中」でおかす性的な罪の深刻さを強調しているのです。

ちなみに、この考え方はイエスが「創作」したものではなく、旧約聖書にもすでに見てとれることです。 十戒に戻ってみると、最後の二つの戒めには、こうあります――「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」‭(出エジプト記‬ ‭20・17)。 つまり神はすでに旧約聖書の中で、罪は、「心」の中の「意志」から始まるのだということを人々に理解させようとしているのです。

記事へのリンク: Lust and Adultery in the Heart - Dr. Brant Pitre (Distinguished Research Professor of Scripture at The Augustine Institute), Catholic Productions


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?