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ジェンダー理論とカトリック教育

教育現場において、どのようにジェンダーの問題と向き合うのか?2019年に教皇庁教育省が発表した文書『教育におけるジェンダーの課題に関する対話の道に向かって』に、カトリック教育の指針が載っています。

「ジェンダー」の課題には、2つの側面があります。①性的流動性(「性」は男女の2つの性に限定されないとする考え方)を支持する「ジェンダー理論」と、②様々な文化における、男女の性別社会的役割を考察する「ジェンダー研究」です。

教育省の指針で主に扱われるのは、①の「ジェンダー理論」。生まれもった身体の「性」になんら意義を認めないこのイデオロギーの文化的影響を、大きな問題として捉えています。

信仰に根ざしたキリスト教的教育は、全人的アプローチで、男女の性差による「相互補完性」を尊ぶものであるよう努めるように、と呼びかける教皇庁教育省の指針。以下、①指針の導入部分、②ジェンダー理論の問題点、③教育省からの提案の<キリスト教的人間学>の部分を抜粋して記載します(※太字・副題追記。全文は文末リンクにて)。

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抜粋

『神は人を男と女に創造された~教育におけるジェンダーの課題に関する対話の道に向かって』(教皇庁教育省、2019年)

はじめに

1 近年、教育が非常事態に陥っているという認識がますます広がっています。とりわけ愛と性の教育に関する分野においてそれは深刻です。多くの場合、それらは「偏りがないと自称しますが、実際は信仰と理性に反する人間学を反映させた、人間といのちについての考えを伝える」教育が理論化され、提唱されています。現代文化の空気を広く特徴づけている人間学の混乱が、男性と女性の違いを単に歴史的・文化的条件が生み出したものと考え、その差異を無効にしようとする傾向をもって、家族を解体しようとしています。
2 この思潮の中で、教育の使命は、以下のような課題を受けて立つことになります。すなわち、「一般的にはジェンダーと呼ばれる、さまざまな形態のイデオロギーから生じる課題です。ジェンダーは、『男女の相違と本質的相互性を否定します。性差を除外した社会を説き、家庭の人間学的基盤を取り去ってしまいます。このイデオロギーは、個人のアイデンティティを促進、男女の生物学的性差から感情の内奥を根本的に切り離すような教育方針と立法措置を促します。人間のアイデンティティは個人主義的な選択に引き渡され、さらにそれは時とともに変化していくこととなります』」。
 この問題は、愛の教育という、より広い展望から切り離すことができません。愛の教育とは、第二バチカン公会議のことばによれば、「積極的で賢明な性教育」を提供するべきものですが、それは「人間固有の目的に対応し、人それぞれの能力、性の相違、文化や国の伝統に適応したものであり、同時に、地上における真の一致と平和を期して他の諸民族との兄弟的交流に応じる教育」のことです。そのために、教皇庁教育省は、『人間愛についての指針――性教育のためのガイドライン』の中で、公会議後にさらに深められた考察の成果を提示してきました。
 キリスト教的人間観は、性が人格の基本的要素であると考えます。つまり、男性あるいは女性であることは、一人ひとりが独自にもつ存在のしかた自分を表す方法他者と交わる要素人間の愛を感じ表現し生きる手段であると考えています。ですから、性は人格的成長と教育過程において不可欠な部分です。「まさに性は身体の面だけでなく心理的、精神的な面でも男女を特徴づけ、男らしさ、女らしさを表すものです。性は、個人としての成長にも、社会生活への参与においても重要な役割を果たします」。人の成長の過程において、「(男女の)こうした相違点によって、両性が補い合うことと相まって、各自が与えられた使命に応じて神の計画にこたえることができるのです」。「『愛情のある性』の教育をするに当たっては、人間が一つの総合体であることを考慮しなければなりません。それゆえ、生物学、心理・情緒的、社会的、精神的な要素を統合することが求められます」。
 教皇庁教育省は、自己の権限内で、この問題に関して若干の考察を提示しようと望みます。この考察によって、教育に携わる次世代の人たちが、すべての人が愛の召命に呼ばれているという真理を考慮しつつ、人間の性に関してもっとも激しく議論されている諸問題に対して的確に対処できるための方法に一定の方向を示し助けるためです。その方法とは、何が個人と共同体にとって必要なのかを理解することにもっとも適していると思われる、耳を傾ける、考える、提案するという三段階を踏むものです。実際、他者の話を聴くことは、異なる状況を理解することとともに、道理に合った点を共有、「新たな光をもってすべてを照らし、人間の十全な召命に関する神の計画を現す」、信仰に根ざしたキリスト教的教育のために準備をするよう導きます。
 教育におけるジェンダーの問題を対話によって解明しようとするならば、イデオロギーとしてのジェンダーと、ジェンダーについてのさまざまな科学的研究とを区別することが重要です。イデオロギーとしてのジェンダーは、教皇フランシスコが指摘するように、「特定の願望に納得しうるこたえを要求し」ますが、「それを唯一の思想だとして子どもの教育を規定しようとまでする」ものです。こうして、対話の道を閉ざしてしまいます。しかし、男女の性の違いを異なる文化の人々がいかに生きているかを適切に考察しようとするジェンダーの研究も見られます。耳を傾け、考え、提案することを可能にするのは、このような研究を相手にする場合です。
 そのため、教皇庁教育省は――とくにこの現象が重要な課題になっている状況の中で――この文書を、教育に特別の関心を抱いている人々、なかでもカトリック学校で教育に携わる共同体、またキリスト教的人間観の価値を理解し他の学校で働く人々、そして生徒、その保護者、学校関係者、さらに司教、司祭、男女修道者、教会の中の諸運動、信者の会、他の組織の人々に提供するのがよいと考えました。

ジェンダー理論の批判点

19 とはいえ、現実には、ジェンダー理論にはいくつかの批判点が見つかります。ジェンダー理論、とくにそのもっとも過激な理論は、人間の本性を次第に中身のないものにし、最後にはそれをまったく各自の感情の決定によるものとしてしまいます。このような見地によって、性のアイデンティティと家族は、ポストモダン的な「決まった形のないもの」「流動的なもの」に変えられてしまい、客観的な真理ではなく、まさに「したいと思ったことをする自由」という曲解された自由の上に、つまり個人の感情的衝動と欲求が生む刹那的な望みの上に立てられてしまうのです。
20 これらの理論の前提は、二元論的人間観に帰することができます。つまり、人は身体(いのちのない物質的な)と、身体を思いのままに操ることができる専制君主である意志とに分離されるという考え方です。このような物理主義主意主義の結合が、相対主義を生み出します。そこではすべてのものが同じ価値をもち、秩序も目的もありません。このような理論は、もっとも穏健なものからもっとも過激なものに至るまですべて、ジェンダーがやがて生物学的性よりも重要なものになると信じています。なぜなら、この思想は、まず相対主義に彩られる文化的思想的革命をなし遂げ、続いて法制上の革命を引き起こし、個人と社会の特殊な権利を要求するからです。
21 現在よく見られることですが、多様なアイデンティティを擁護しようとするがために、あらゆるものは他のものとまったく同じ価値をもつと主張されています。しかし、そう主張することによって、逆にそれぞれがもつ特徴を否定してしまいます。このことは、性的な差異の分野において特別な重要性をもちます。すなわち、「差別反対」という一般的なスローガンの裏に、男女の間に横たわる差異と相互補完性を否定するイデオロギーが頻繁に隠れているからです。このような主張は「性差が人間の尊厳にとってもつ不可欠の価値を否定し、性差に関する誤った解釈と戦う代わりに、性差が個人の成長と人間関係にとっては無用のものとする行動や実践を提案することによって、事実上性差を消し去ろうと望んでいます。しかし、(男でも女でもない)中性であるという理想は、生まれつき性的に異なる身体をもつ人間の尊厳だけでなく、生命の伝達における人間らしさをも抹消してしまいます」。家族の人間学的土台を骨抜きにしてしまうからです。
22 このイデオロギーは、男女の既存の生物学的差異から完全に解放された個人のアイデンティティと、性差を無視した親密な愛情関係を促進する教育プログラムと法制度の構築を推し進め、個人のアイデンティティは、時とともに変化する可能性を秘めた個人の選択にゆだねられます。このような考え方は、現在社会に広く普及してしまった思想と行動のあり方の表れですが、これは「本当の自由というものが、自分で好きなように各自で判断するという考えと、すぐに混同されてしまうのです。それは、個人というものの上にわたしたちを導く真理や価値や道徳律などはなく、すべて等しく、人には何でも許されているという考えです」。
23 第二バチカン公会議は、教会が人間というものをどのように考えているかを、次のように説明しました。「人間は、肉体と霊魂とが一体となったものであり、その肉体的諸条件を通して物質界の諸要素を自分の中に凝集し、こうして、それらの要素は人間を通してその頂点に到達し、造り主に対し自由な賛美の声を上げ」ます。この尊厳のために「人間は、自分が物体的なものより優れていると認め、単に自然の一部または人間社会の無名の構成要素ではないと考えるとき、間違ってはいない」のです。ですから、「『自然の秩序』と『生物学の秩序』という言い方を混同してはならないし、また同一のものと見做してもならない。事実、『生物学の秩序』は、自然の秩序と同一のものを意味するが、しかしそれは、経験に基づく記述的な自然学の方法で到達できるかぎりでのみ自然の秩序であって、第一原因つまり創造主にまします神との明らかな関係に立つ特殊な秩序としてではない」。

教皇庁教育省の提案

キリスト教的人間学
30 母であり教師である教会は、ただ耳を傾けるだけではありません。神から受けた使命に忠実を保つと同時に、理性の貢献に扉を開き、人類共同体に奉仕することを望み、自らの提案を示します。性と愛の意味を的確に説明する人間学を、明快で説得力のある方法で示さなければ、ペルソナとしての人間の本性に合った教育プログラムを正しく作り上げることも、人は自己を与えるために生まれてくるという人間の召命の認識のもとに性的アイデンティティを実現していく方向に人々を向かわせることも、確かに不可能でしょう。この人間学をはっきりと示す第一歩は、「人間自身もそれを尊重し、勝手に操作することはできない一つの本性を持つ」という真理を認めることにあります。これこそが、「人間としての尊厳を尊重すること」と、「人間の自然本性に刻まれている道徳法」と人間のいのちとの必然的な関係という深遠な現実を含意するヒューマン・エコロジーの核心です。
31 キリスト教的人間学の源泉は、『創世記』における「神はご自分にかたどって人を創造された。(…)男と女に創造された」(1・27)という人間の起源の説明にあります。このことばの中に、創造の本質だけでなく、男性と女性を神との一致に導き入れる、男女の生きた関係の核心が含まれています。人は自分とは別の他者によって、各自の個別なアイデンティティに応じて完成されます。二人が出会うことで、創造主によって与えられ支えられる、活力ある相互関係を形成するのです。
32 聖書のことばは創造主の英知に満ちた計画を啓示しています。神は「人間に、人間としての使命を果たすように男性あるいは女性の体をお与えになりました。人間が男性または女性の身体によって、人間性と人格の尊厳を完成させ、さらには人格間の『交わり』の明らかなしるしを完全に生きるためです。この人格間の交わりの中で、人が自己のすべてを与えることによって、自己を実現するのです」。ですから、物理主義や自然主義を退けて、人間の本性を正しく理解するためには、身体と霊魂の一致という原則の上に立たなければなりません。つまり、まず「人間の霊的で生物学的な性向の統一性、およびその目的を追求するために必要な、他のすべての明白な特徴の統一性」を認めなければならないのです。
33 この「統一された全体性」という視点は、神との交わりという垂直的次元においても、男性と女性が呼ばれている人間間の交わりという水平的次元においても、等しく重要です。人間としてのアイデンティティは、自己を他者に対して開く度合いに比例して真の円熟に達します。なぜなら、まさに「男性も女性も、その固有の形態の構成に含まれる生物学的・遺伝学的因子のみならず、気質、家系、文化、人生経験、受けた教育、友人や家族や尊敬する人からの影響、その他環境適応能力を要する具体的な事情に関連する、多様な要素が混ざり合ったもの」だからです。実際、「人が本当の自分になるのは、ただ他者とのかかわりからだけであるというのは本質的な事実です。『わたし』が本当のわたしになるのは、ただ『あなた』と『あなたたち』からだけです。人は対話のため、共時性と通時性のコミュニケーションのために造られているのです。ただただ『あなた』と『あなたたち』とに出会うときのみ、『わたし』というものがわたし自身に向かって開かれるのです」。
34 家族の土台である人間本性の内にある性の二極性を否定しようとする試みに対して、人間論の立場から反論するために、性差の形而上学的な由来を再確認する必要があります。この二元性の否定は、創造の実りとしての人間というビジョンを消し去るだけでなく、人間を抽象的な存在にしてしまいます。そのような人間は、「自分自身のために、本性として男性か女性かをまったく勝手に選びます。男性または女性として、互いに完成し合う人間の形態であるという創造の要求を拒むのです。しかし、創造によって決められたものとしての男女の性の二元性が存在しなければ、家族はもはや創造によって造られた現実ではなくなります。同様に、子どもも、そのときまで自分に与えられていた地位と自己に固有の特別な尊厳を失うことになります」。
35 このような展望において、性と愛の教育は、男性であること、女性であることについての創造の真理全体において、「だれもが粘り強く一貫性をもって、身体の意義を」学ぶよう人々を導く必要があります。それは、「自分の身体を受け入れ、大切にし、その十全な意味の尊重を学ぶこと(…)。また、他者との出会いを通して自分自身を確認できるようになるには、自分の身体をその女性性あるいは男性性において尊ぶことが必要です。こうしてわたしたちは(…)互いの価値を高め合うようになります」。それゆえに、本当に人間的でかつ総合的なエコロジーという観点から、男性と女性は性と生殖の意味、すなわち身体を通じて互いに自己を与え合う関係を通して新たないのちを生み出すのだという真意を理解するでしょう。


出典:『神は人を男と女に創造された~教育におけるジェンダーの課題に関する対話の道に向かって』(教皇庁教育省、2019年)

英語版:Male and Female He Created Them: Towards a Path of Dialogue on the Question of Gender Theory in Education (2 February 2019)



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