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1 初蝶

初蝶よ 彼方が海と 示しけり

 それは、透けるような青い小蝶であった。

 昼下がりの余熱を帯びた草に座り、菜の花を映す川面を眺めていると、不意に声が掛かる。
–おかあさんに、お弁当箱を買ってあげようと思ったの
膝を抱える小さい女の子の背中だ。
–それは、いい考えね
彼女は首を横に振って
–それがいいねってみんなと話し合ったの、でもわたし、間違えたのよ
母の欲しいものは違ったのだ、と言うとそのまま、彼女は押し黙ってしまった。

前の通りを街の方に歩いて、ひとつ信号を渡った右側にあるのが、「かわむらや」。
お母さんのお弁当箱をください。
レジのおばちゃんは、一緒にお弁当箱を探してくれた。
アルミの蓋に、お母さんの好きな真っ赤なチューリップが描いてある、卵形のお弁当箱を、おばあちゃんは早速、包みを取って綺麗に洗ってから、手渡してくれた。
さあ、これにお母さんの好きなものを、たくさん詰めて、プレゼントしましょう。
シロツメクサごはんは??
と、左の肩に座ったキキ
いいねえ!
と、右の肩からララ
団地の広場に沢山咲いたのを、少し分けていただきましょう
菜の花の卵焼きってのは、どう?
ふたりとも、私のていあんに、だいさんせいよ。
取って置きの、キレイな色ガラスで、キラキラにして、
お母さん、ぜったいよろこぶよね!!!

夕ぐれのチャイムに押されながら、みんなで帰る道々
お母さん!

お弁当箱を渡すより早く、
握りこぶしで、殴られたわ。
団地でお花を摘んでいるころ、
「かわむらや」のおばちゃんが、
お金を貰いに来たんだって

グウで殴られながら
お母さんを、泣かせてしまった
なんて、悪い子供だろう

それでね、ずっと、ここに居るの。良い子になるまで、
帰れない。キキも、ララも、死んでしまったわ

–あなたは、間違えてなんか、いないわ……
私は大人らしい解釈でもって、彼女の、まだ小さく、触れたら指の跡がついてしまいそうな頭を、おそるおそる撫でるような気持ちで、声を掛けてみた。
–間違えたのよ、わたしは。

わたしは、なにも、できやしない
うそつきで、ばかな子が、おうちにいなくなることが、
今お母さんがいちばん、なにより、欲しいもの

小さな体を絶望と悲しみでいっぱいにして、背中で私の言葉を跳ね返してきた。
 こどもらしく。大人らしく。私自身にも、多少の思い上がりと期待があったのだろう。彼女はそんな私の中の「大人」に対し、少なからず落胆したに違いなかった。自分の気持ちなんて、話さなければ良かった、と。
 妖精や小さな神様たちと思いのままに語り合い戯れる事ができた女の子は、そうやって、みんな女になっていく。リボンやフリル、社会規範や良心で飾られた毒の瓶を、彼女は、微笑みながら飲み干すだろう。
 もっと自由で良い。正解なんて出さなくていい。お母さんを、喜ばせなくたって、いいんだ・・・。この子が背中の翼に気付くのは、何十年先のことなのだろう。

 もう、いいから。翔んでお行き
海は、むこう。翼あるものたちは皆、海へ向かいなさい

 青い蝶は、一面の菜の花の中を右へ、左へ、強くなりはじめた川風に押し戻されながら、子どもの歩幅よりずっと小さくちいさく、海の方へ消えていった。

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