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「古今テレワーク集」覚書
「古今テレワーク」とは?
コロナ禍になってからというもの、私は所謂Public Domainを引用した短編を作り続けてる。
「ソーシャル・ディスタンス」は、空間における距離を問題にしているが、時間における距離を考えた時、100年前の映画と現在を生きる自分の映像を衝突/融合/並列させて作品化させることには、ある意味があると思えた。
過去の映画を現代化したり、監督を神格化するのが目的ではなく、ペンや石のように、事実として在った映画を映画の内に取り込み、今日の映画の輪郭(在り方)を比較検証するというわけだ。
無論、映画は必ずしも構想に従うわけではないし、結晶化にも濃淡があるので、一作毎に未知への跳躍となり、出来上がりにも何処かしら瑕疵があった。
「Public Domain Limited」
我ながら偏っているとも思うが、古典作品素材として取り込んだ自作の1シーンをピックアップしてみよう。
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リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』から始まった「古今テレワーク」は、ユングの「内なる世界 想像力」のトークに乗って胃カメラへとつながるモノクロ映画や、「Oz」と「小津」をかけ合わせ、アンティーク・カメラ越しのGoProから再撮影する疑似キネトスコープ、「フレーム・イン・フレーム」の発展形の「無限ループ・フレーム」や、雨の中で燃える映画を生み出した。
小道具としての杖を巧みに扱うチャップリンの『移民』に、近所の小学校で伐採される木の運命をなぞらえた幻想譚を作る頃には、権利関係を把握するために日本チャップリン協会に相談するようになってもいた。
『移民』はPublic Domainではあるけれど、散逸していたチャップリンのフィルムを世界中からかき集め、今現在我々が観ることができるものへ仕上げ、修復もしてきたmk2という会社から出ている正規のDVDの購入を検討してはどうか等と打診されたりした。
本当は、すべての引用元へ同様の手続きを取るべきだし、取りたいとも思うが、如何せん窓口が分からなかったり販売されてなかったりで、公有には「Public Domain Limited」とでもいうべき限界があるように感じられた。
エジソンの先見性
最近は、もっぱら『メアリー女王の処刑』ばかり繰り返し観ている。
『ラ・シオタ駅への列車の到着』よりさらに古い映画だ。
古のホラー映画とも呼ばれているが、処刑を見世物にする俗物根性と、「ストップ・トリック」の手法の展開が密接に関わっており、肯定も否定もできない仕上がりになっている。
たった18秒ながら、所謂、賛否の生じる作品なのだ。
映画では、処刑人が斧を振り下ろす際に人形にすり替えられるので、女性の首が実際に切断されるわけではないのだが、女王が同様の手口で屠られたというのは、歴史上の事実だ。
それらすべてを知った上で楽しめるかどうかが問題なのだが、答えは既に出ているともいえる。
ゾンビ、幽霊、怪物、悪魔、エイリアン——。
映画は、想像上のモンスターに様々なリアリティを付与し、私達の世知辛い現実を、束の間忘れさせた。その裏で、戦争をやり続け、環境破壊を行い、残酷趣味には際限がないことを証明し続けている人類の本性を告発してもいる。
私達は、『メアリー女王の処刑』を繰り返し観ているのだ。
やはり、エジソンは先見性があるなと思った。
業深き人類の継続する残酷趣味を止揚するためには、新しいイメージが必要不可欠だ。
女王の胴体が、切断された首の代わりに地蔵の首を装着して嗤う。
グロテスクだが、滑稽味も感じられるこの展開を、コマ撮りでアニメートさせたらどうだろう?
「映画公園」
連作の総論となる長編も、目下構想中だ。
シネマトグラフ以降、暗室に着席しながらの鑑賞が定着しているが、サイネージやディスプレイに常時発信されているPublic Domain映像を、青空の元、公園を周遊しながら好きな時に眺めやるというのはどうだろう?
映画館ならぬ「映画公園」。
このプラン自体を『公有公園(仮)』という一本の映画として、連作の締めくくりとしたい。そして、完成した暁には、「古今テレワーク集」として世に問うてみたい願望も、少しはあったりする。
100年越しの「忖度」
しかし、あらためて考えてみると、古典に依って現在の映像手法を点検するという、ごく私的な実験に、ここまで拘泥することになった理由は何なのだろうか。
需要がないだけならまだよいが、後年、権利関係で揉めることなどあったら目も当てられない。
念のため、もし私が何らかの権利団体に訴えられたとしても、あまり大袈裟に考えないでほしい。100年前の権利関係を全方位的に掌握している者はおそらくいないだろうし、公有の定義も日々揺らいでいる。問題が生じて、「Public Domain Limited」と呼んでいいような臨界に突き当たるなら、それはそれで公益足り得るのではないか。
少し話は変わるが、私の映画にスポンサーや協賛の類が存在したことは、ただの一度もない。故に何者にも忖度せず、すべては私の自由にすべきだと考えていた。
だが、よく考えると、それは非常に恵まれたことでもあるのだ。
初期の映画は、莫大な資産や融資を背景にしなければ成り立たなかったし、その傾向はつい最近まで続いていた。そこから少しずつ、機材が安価になり、手法が開拓され、映画はパーソナルな領域へ広がっていった。だが、現行の映画は、ほぼすべて、キネトスコープからシネマトグラフへ至る映画の基本形式に依拠しており、独創を誇る作品も、カメラ及び編集ソフト等の進展なしには醸成し得ないだろう。
すべての映画は、先人らの恩恵の上に成り立っているのだ。
私の実験は、今日の映画監督が、スポンサードを受けている企業や個人に対して示すであろう「忖度」を、100年前の先駆者達に向けて、やってみたくなったというだけのことなのかもしれない。
目論見通りにいけば、100年後、監督或いは観客のうちの一人が「古今テレワーク集」に辿りつき、少しばかりの「忖度」を振り分けてくれる筈だ。
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