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境界を越えて

※以前、ある場で述べた文章を書きなおしてあげてみます。


世界にはたくさんの境界がある。国境などの物理的な境界、人と人の間にある見えない境界など、他にもいろいろあるかもしれないけれど、あえてここでは述べない。

「境界」といえば、コロナ禍を生きる僕にとっては『ソーシャルディスタンス』という大きな境界が目下の敵だ。
2020年度入学というコロナウィルス感染症流行始めに当たった志賀の学年は、オンライン授業を余儀なくされてきた。そして、そんな学年、そして志賀自身に向けられる評価や感想、言葉は結構世知辛かったし、今も世知辛い。
「かわいそう」「残念だったね」「大変だ」
そんな言葉を何度かけられたことだ。見知らぬ人から、知人から、親戚から。もちろん、これらの言葉が嘘だとは言わない。でも、それだけじゃないんだと言わせてほしいと度々思って来た。そして、これらの言葉に「同意」するのを僕はやめることにした。

オンライン授業は確かに対面授業のように人と会う事はないから、友達はできにくいかもしれない。履修や授業課題に苦労するかもしれない。でも、一限への登校のために朝早く起きる必要性はないし、授業の中で分からないところやノートの取り切れないところがあれば、動画を何度も見返すことや止める事が出来る。オンライン授業なら、どこにいても学ぶことが出来るから、本来通学時間である時間を別のことに使うことも出来る。事実、自分の好きな事を学ぶことも出来ています。対面授業にもちろん期待もあるけれど、どちらがいい、悪いは決められないと思う。

正直言葉だけならいくらでも志賀のような大学生に対して他者は好き勝手言えると思う。こういうと皮肉や嫌味のようだが、そう思われても構わないと思うほど、当事者である僕はそう感じる事は多いのだ。優しいことは良いことだけど、その優しさから生まれた善意は、時に悪意より強力に私の心をえぐっていく。ニュースやデータを根拠にして、それだけを見て同情して優しくすることは簡単だ。また、事実そうしている人、こういう言葉を無意識的に言っている人は多い。しかもそれはとても強く大きな「優しさ」の上で。

「大学行けてなくてかわいそうだね」
「オンライン授業なんて大変でしょう」
そんな言葉をかけてくれる人はひどく優しい。それに私は「そうだね」と同意して笑って、現状を現状のまま流していれば、優しい『誰か』は喜ぶのかもしれない。でも、テンプレートだけのそんな綺麗事、優しさはもう、いらない。

僕は『当事者』で今ここに生きている。他の誰でもなく、大勢いる大学生の一人ではない、『志賀暁子』という人間で生きている。そして、僕の周りにはそんな僕を認めてくれていて、一緒に楽しい事をしてくれる仲間や友人もいる。たくさんの出会いがあって、関わってくれる人もたくさんいる。学ばせてくれる人もいて、直接的なものではないかもしれないけど、自分の人生を豊かにしてくれる存在もちゃんとある。それも『真実』。それを握りしめて生きていたいと強く思う。

今、過ごしている世界は確かに『大変』なのかもしれない。確かに苦しいこともある。残念に思ったことだって、両手両足あっても数え足りない。私のような大学生に向けられる言葉はある意味、正しい。正しいからこそ、悔しくもなる。でも、そういう同情で作られた言葉で片付けられる感情は、身に染みる程、とっくの前に体験して、理解した後なんだ。

もう、いらない。
そんなもん。

今だからこそ思う。それがなんだ。なんだっていうんだって。

そんな世界なのはもう心の底から、骨の髄まで理解した。だから、その境界を越えることを考えたい。越えたいと強く思う。越えるためのあり方を模索して、もっと先の未来に踏み出そうとしていたいし、そのために今自分のいる場所で踏ん張っている。

笑われてしまうかもしれないし、「そんな話こそ理想論だ」「綺麗事だ」と言われてしまうかもしれない。その言葉が全てになんかなるわけない、と言われるかもしれない。それも事実としてあるだろう。だけど、こんな風に考える、僕みたいな人間がいたっていいと思ってくれないだろうか。今、この時、持っている思いを大切にしたい人がいてもいいはずだと、僕は思っている。
そして、有難いことに私はそんな風に自分の好きなように生きるための環境や術もちゃんと与えられていて、持っている。少なくても今はこの気持ちや考えを大切にして、与えられた場所の中でたくさんのものを吸収していきたいと思うのだ。

コロナ禍で、苦労、悲しみ、大変さ、自分の生きている時間の不都合、それに対する自分の生き方への反対を味わってきた。今も少しそれらは続いて居る。でも、そんな僕だから、それらに打ち勝つことが出来る。そんな私だから、世界は本当に面白くなる。そのことに誇りを持ちたい。誇りを持って、自分の生きてきた時間を、過ごしてきたあり方を、ちゃんと自分の人生として携えていたいと思う。今も、この先も。そして、その人生を願わくば後世に遺したいとも、少しだけ胸の奥底の野望として持っている。

同情や憐み、大変さ、不幸に不便、不安、不満、反対、そんな不都合に塗り固められてたまるものか。従ってなんてやるものか。問いかけていく。絶対に流すのではなく、ちゃんと聴きたい。話したい。学びたい。そのための努力を惜しまないで生きていたい。勇ましく、たくましく生きたい。少しずつではあるかもしれないけれど、不都合に打ち勝ちながら、それらのような「境界」を越えて、今僕の与えられた生きる時間で、今僕に与えられた場所で、大切に日々を生きていきたい。

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