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農地保全の新しい方程式〜「たねもみプロジェクト」にみる農業の共助システム(2)

前回は、今の日本の米づくりがいかに儲からない仕組みになっているのか。
また、なぜ全国各地で農家の跡継ぎがいないのかという事の理由を書いた。
今回は、この問題を前提に、なぜぼくらはこの問題に取り組むべきなのか、また、この問題を解決するためには、何が必要なのかを、ぼくらのこれまでの活動から見えてきたことを整理したいと思う。

1.田舎(美山)への移住によって、見えてきたこと

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自転車がきっかけで京都府南丹市美山町に移住した2009年当時、ぼくは少しでも時間があれば自転車に乗って、美山町内のあらゆる道をサイクリングを楽しんでいた。
この町には、全部で50を越える集落が存在し、それぞれ個性をもったそれらの集落を自転車に乗って訪ねていくことが、当時のぼくのサイクリングの楽しみ方だった。
そんな中、移住も2年目に入ったころだろうか、町の景観に対し少し違和感を覚え出したのだ。つまり、サイクリングをしながら、なんとなく農地を含む田舎町の景観が緩やかに変化していたことに気づいてきたのだ。

例えば、昨年まで耕作されていた水田が手つかずになってしまった場所があったり、新たに空き家になってしまった家屋、そういった人の手から離れだした場所が目に入るという些細な変化だったが、その変化こそが、この後のぼくのこの問題への取り組みの切っ掛けとなるものだった。

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(サイクルグリーンツアーで町内を走るサイクリスト)

これはあくまで私見なのだが、サイクリングは、都市部より交通量の少ない郊外を走った方が、やっぱり楽しいものだと思う。
そして、日本の原風景と呼ばれるような里山景観を楽しむ事が出来たら、さらに申し分ない。
やはり「田舎の田園風景を見ながら走る」というのが、サイクリングの醍醐味のひとつだろう。

つまり、田舎でサイクリングを楽しむことは、
適度に自然と共存した豊かな里山環境を堪能する、ということであり、
その舞台となる里山環境は、
サイクリングの価値を高める大きな要素なのだ。

移住前、大阪市内に住んでいた頃のぼくは、都市部から好んで郊外に走りに出ることあっても、そのサイクリングの借景となる里山の風景が、どのように維持され成り立っているのかなど考えもしなかったのだが、美山町に移住し、実際に里山での日々を実感する生活の中で、少しずつその現実に気づくことができたのだ。
つまり、ぼくら(都会人)が、ただ眺めていた長閑な田舎の里山風景、つまり民家の周りから農道やのり面、田んぼの畦や畑の周りなど、きれいに草が刈られ整備された場所の殆どが、実は地域に住む人の手で管理されていたということに気づいたのだ。
ぼくは、実際に田舎に住むことで、初めて田舎の景観のリアルというものに接したということになる。

そしてもうひとつ大切なことがある。
実はその日々の管理作業に従事する人の多くが、腰が曲がるくらいの高齢者がほとんどだ、という現実だ。
田舎では、草刈りや農作業に従事するその作業を「管理する(守をする)」と言うのだが、つまるところ今ある田舎の里山景観とは、高齢者が中心となった人の手により管理されている風景だったということに他ならない。
そして、その里山景観の維持管理が今、後継者不足で困難になっているということである。

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(サイクルグリーンツアーで町内を走るサイクリスト)

2.サイクリストがまもる、日本の原風景〜「美山自転車の聖地プロジェクト」とは

ぼくは、美山町への移住によって、そしてサイクリングによって、その実態を内側から知ることになった。
ぼくが移住した集落も、当時すでに多くの世帯が65歳以上という高齢化が問題になっており、それから10年以上が過ぎた今(2020年現在)では、さらに高齢化が進んでしまい、(40年前の計画が政権交代で蒸し返され、必要なのかどうかすら、もはや疑問の)道路の拡幅工事による立ち退きを含め、世帯数の大幅な減少が深刻化、それによる地域自治の困難な状況が顕在化している。
その背景には、20代〜40代の生産年齢の世代人口が圧倒的に少ない実態があり、農地の維持だけでなく、各戸が所有している山も、さらには自分たちが住む家すら守ることが困難になりつつある。
このまま行くと、さらに10年後には、この町から生産年齢人口がいなくなり、集落そのものの存続や、そこで守られるべき伝統文化や里山景観が維持困難になるのは火を見るより明らかだった。

かつて田舎とは無縁の外部の人間だった「自分自身」にも自戒の念を込めて改めて主張したい。
田舎を楽しみに来る多くの人は、美しい里山環境とは、実は地域の人々の営みの上に成り立っているということの本質を理解していないのでは無いか。
都会から観光気分だけで来る人たちは、ただその価値ある資源をいたずらに浪費しているだけの人が多いのではないか。

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「サイクリストがまもる、日本の原風景」

これは、移住2年目に立ち上げた美山自転車の聖地プロジェクトのキャッチフレーズである。
美山自転車の聖地プロジェクト(3年後に団体としては一旦解散。現在は有志の活動)は、当初は町内の各種団体や個人が集まって運営され、美山町を網羅するサイクリングマップの整備や、各種店舗などへの自転車ラックの配布などでミニサイクルステーションの設置を推し進めたり、対外的にサイクリングの聖地としての告知を中心に活動していた。

その後、地域への見える経済効果や、移住定住につながる新たな地域のブランド化として、これまで30年以上の歴史を誇る「京都美山サイクルロードレース」へのてこ入れや、2012年から始まったサイクルツーリズムの新機軸「京都美山サイクルグリーンツアー」の企画、そして10年以上続く自転車教育の拠点「ウィーラースクールin美山」などの都市農村交流型イベントを積極的に運営していく。

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本格的に参画し史上最大規模で開催された美山ロード30回記念大会
(2015年)

それだけではなく、2017年には、多くのサイクリストや美山ファンの支援を得てサイクリングなど活動の拠点施設である「CYCLE  SEEDS in Miyama」を、建設するなど積極的に活動を続けている。

3.「自転車×農業」の新しい取り組み

自転車の聖地プロジェクトとして、様々なコンテンツを企画し実行するこれら自転車を通じた活動は、基本的な考え方に則って進められている。
それは、サイクルツーリズムが、ただサイクリングでの観光客を集めるだけのコンテンツではなく、

サイクリストにこの町の価値を知り、理解し、この町をさらに好きになってもらい、町との深い関係を築くことを目指す。

そして、

最終的には、その関係性から、多くの移住や定住につながること、
また、あらゆる方向から地域の里山環境の維持を目指す。

という地方が抱える本質的な問題に対しての成果を目指している。

だからこそ、それぞれの事業を絵に描いた餅にしないよう、全ての活動に、しっかりとした成果が求められるよう、いかに継続するか、いかに地域により良いものにするかなどを細かく分析、検討し、毎回様々な計画のアップデートを行い続けている。

加えてぼくらは、

サイクリングを楽しむだけでなく、その場所が存在する背景も考えよう。

という、サイクリスト自身が問題意識を持ち、地域と関わることを促す事を目的とした、情報発信を大切にしている。

そのひとつが、サイクリストによる、無農薬有機栽培での米づくりを通した、「里山景観保全活動」である。
サイクリストの目線から里山環境を守る企画を考えた、田舎の農村景観を守る仕組みとしては、まったく新しい組み合わせだったのではないか。

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(自転車教室の子ども田圃体験2年目の様子)

農作物の収穫は、人の労力の結果でもある。
食料を作る喜び、その達成感。
そこから生まれる、作物を生み出す土地や自然への感謝、そして農業ができる環境を維持するために必要な、強固なコミュニティへに対する敬意をもつことがとても大切なことである。

農村景観を享受するサイクリストは、その意味を実感するため、実際に土に触れ、自然の摂理を体感する農作業を体験すべきではないか。
そしてサイクリストだけでなく、この豊かな自然に触れる経験と、自然と共生する知識を、多くの子どもたちにも伝えたいと考えたのだ。

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当初は、見よう見まねで2枚の田んぼ(約2反)から始まった、この農業未経験者による、ど素人の米作りは、田圃数の増減を繰り返しながら、現在(2020年)、11枚の田圃、面積にして約1町6反にも及ぶ米作りへと広がっている。
この面積は、ぼくの住む地域の農事組合で管理する水稲の総耕作面積の約2割に近い。そして、これらの田圃は、そのほとんどが農家の高齢化によって耕作が困難になった場所を引き継いだものである。

この程度の面積は、米どころと呼ばれる地域からしたら、ごくわずかの広さにしかすぎないだろう。
だが、中山間地特有の細かく区切られ、規格外の変形の田んぼが多く、且つ集落内各地に散らばっていることを考えると、作業効率は想像以上に悪く、なかなかに手間がかかる米作りなのだ。

このややこしい田んぼの数々を、無農薬有機栽培で維持するのは並大抵ではない。というより、素人に毛の生えたスタッフで稲作を行うのは、ある意味無謀と言わざるを得ない、というより、もはや無謀な挑戦だったと思う。

4.今の世に必要なのは、自然の中での体験から学ぶこと

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それでもなぜぼくらは、この農業を実現し継続して来られたのか。
それには、ある確信があった。

本来、外部の人間が、自分たちの農地でもない土地で、昔ながらの農業を復活させ、その土地や環境を守ろうなどということは、地域からしたら余計なことだったのかも知れない。
だが、田舎の農地を維持することで、里山環境に興味を持つ多くの人に、この町の良さを伝えることが出来る。
それがこの町に、これまで考えもしなかった新しい人の流れを産み、多くの都市農村交流を実現し、さらに継続していくことで、より深い関係性を双方に築くことができ、最終的には、地域の里山環境を維持するための、コミュニティの一員となっていく可能性への確信である。

経済性を求めた農業に未来を求められなくなった今こそ、人の手を使った農業に、もう一度フォーカスする必要があるのではないかと考える。
この経済性ではなく、マンパワーを地域に取り込む、総合的な取り組みが、ぼくらの活動「たねもみプロジェクト」である。

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自転車ではじまった関係でしかなかった、多くの子どもたちや親御さんたち、そしてその周囲の友人たちは、たねもみプロジェクトの一員として、ぼくの田圃でとても幸せそうに過ごす。
その様子は、「自然体験は大切」とか「里山を保全しよう」「田舎を活性化しよう」などというお題目は、ほとんどない。
多くの家族、特に子どもは、解き放たれたかのように自由にこの場所で振る舞う。あまりにも自由だ。

それは、この美山町が単なる自然豊かな田舎の一つではなく、まるで自分の郷里のように、自然体でリラックスし心から楽しんでいる様子だ。
自分の第二のふるさとと感じているように思う。
特に子どもたちは、すでにそう感じている子が多いのではないだろうか。

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子どもたちも、またこの環境を今まで体感してこなかった大人たちにも、農業やそれに伴う、いわゆる田舎暮らしのあれこれを学ぶことはとても大切だ。
東日本大震災以降、多くの方が指摘している「人間本来の生きる力」を改めて認識し、学び直すためにも、里山環境を活かした生活文化活動に改めて注目する必要を強く感じる。

社会性を身につけること、
自らで考え、工夫をすること、
そして、その大事なことは、自然の中の活動が教えてくれるということ。

これらを次の世代の子どもたちに伝え、体験させることが今、求められている。
そしてその体験と教育の場所に最適な場所こそが、この田舎の里山環境であり、その基盤こそが、農地だと確信する。
だからこそ、里山環境を有する地域の住民は、自分たちの環境を維持することは、自分たちのためだけではなく、もっと大義のある行動だということを自覚しなくてはならない。

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5.農地保全活動には力強い地元の協力者が必要

実際のところ、ぼくらのこの活動をぼくらだけで維持することは、とてもではないが非常に困難である。
どれだけ都会からの人から人力を供給されても、細かく分散され効率が悪い圃場のすべてで、無農薬有機栽培は至難の業だ。
この困難な状況をどうクリアしていくかという難問への答えはまだ出ていないが、目の前の田圃を耕作するためには、やはりその歩みは停められない。

しかし僕らには、とても心強い味方がいる。
ぼくらの自転車を含むこの活動のコンセプトを理解し、絶大的に支援してくれる美山町の先輩農家の存在だ。
ぼくらにとって、米作りの師匠とも言うべきこの方の稲作の知識、経験、そしてなにより専門的な農業機械の出動と、数え上げたらキリがない、お金ではない、彼の行動そのものの支援が、この地域の環境を守る最強の力となっている。

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「おまえのやっとることを見てたら、とにかく心配でならんのや。
 つい手伝わなあかんように思えてしまう」

これが、ぼくがいつもこの先輩から叱られる言葉だが、この言葉には本当に深い愛情を感じる。
この町の将来を憂い、独自のアイデアや考え方、そしてその行動力でなんとかしようとこれまで踏ん張ってこられたそんな中、突如都会からやってきた移住者が、見よう見まねで大量の土地を使って無農薬有機栽培の米づくりをやろうという、その無茶苦茶さに呆れたものの、その大きな目的を理解し、全面的に支持、そして具体的な支援をするなど、田舎という社会の中では、なかなか出来ないことだと思う。

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この美山町には「農業の未来を憂う優れた先人」が多く存在する。
だがしかし、その人たちが横につながり、面的な活動に広がることはなかなか難しい。なぜなら農業は「こだわり」の産業だからだ。
手法へのこだわり、地域のこだわり、収益のこだわりと、いろいろなこだわりが、横での連携を妨げている要素だ。
今後、こうした活動を広げて行くには、横のつながりが不可欠なのだが、そのためには、まず土地の所有者である農家が、自らのこだわりを捨てることが要求されていくだろう。

ぼくを支えてくれる先輩農家は、なぜぼくらのような新参者を徹底的に支援してくださるのか。
この先輩の意識変遷のプロセスに注目し、分析することが、今後の農地保全を目指すために今、注目すべき事ではないだろうか。
彼の協力、そして都会の人の思いによって、少なくともこの地域の田圃の多くが、10年近く守られ、そして今後も保全されていくであろうことは事実だからだ。

さて、ここまで、たねもみプロジェクトが、生まれるまでの経緯を紹介した。
次回は、具体的な運営方法とそのシステムについて書いてみたいと思う。
その3へつづく

<活動の参考リンク>






子ども向け自転車教室 ウィーラースクールジャパン代表 悩めるイカした50代のおっさんです。