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映画「マイ・ブロークン・マリコ」


 今年も2月がやって来た。寒さ厳しいことと共に、忘れられない記憶が目を覚ます。友人の命日。亡くなった人は亡くなった時点から成長はしない。でも、不思議で毎年ぽつぽつと記憶が蘇る。生きているように動くし、話しもする。もうこの世に居ないのに。頭はまだ大丈夫。
 今年はこんなことを思い出した。そういえば、「友人は猫が飼いたい」と言っていた。そんなわたしは、今、犬と暮らしている。猫派だったのに。
あの頃、絶対に将来飼うと思っていたロシアンブルーはマグカップで微睡んで居る。




 身近な人もそうではない人の死も、いつも突然にありきたりの普通を過ごしているほんのささやかな日常に報せがやって来るものだなと思う。主人公のシイちゃんが街の中華屋でラーメンを啜っている瞬間みたいに。
 養老先生が『人が死を語る時、自分自身の死は其処に含まれてはいない』と。死んだら自分のその後は分からない死んだのだから。先生が続けて言うには『現代人は死が他人事になっている。それが現代病のひとつ』だから厄介な時代で、死を忌み嫌うのも、あくまで死は他者の死であって自分自身の死については無関係だと蓋をしているからだと。確かに死について考える時、自分の死では無い他者の死がまず浮かぶのは、そんな絡繰があるんだと再認識する。誰だって直視したくないことは直視出来ない。でも、生まれて来たからには必ず死ぬ訳だけど……。

 最近手にした哲学書に「生と死はイコールではない」という見解が書いてあって、どういう意味なのか?とここ数日繰り返して読んでいる。言葉で完結出来ない。生きているという概念を説明出来ないのだから、生はない。あくまでも、ないが前提であるから、じゃあ死んでいるという概念の説明も出来ない。だから死もない。ただ、生まれて来たから死ぬのだけど、老衰に病気や事故などの不慮の死は、死因ではあるが要因ではないこと。世の中が認識している死の概念は他者の死であり、自分が死んだ時は自分では死を理解出来ない。ひとつの事実は、全ての死は生まれて来たことが要因でしょう?と。
ん?ちょっと混乱する。
そして、本当は分かっていないのに分かった振りをしてはいないか。世間一般の常識だからと、そういうものなのだと無理に飲み込んでいやしないか。あなたは“思うこと”を“考えている”と同じだと思い込んでいませんかと投げかけられた。


 知ることより考えること。

“考えるということは、
答えがないということを知って、
人が問いそのものと
化すということなんだ”
文筆家 池田晶子



マリコの遺骨は、あたしが一緒に連れて行く。



 虐待していた父親から、親友マリコの遺骨を奪還するシーンは痛快だった。ベランダから飛び降りる時、脳内で自分も一緒に駆け出す感を覚えながら一気に物語へと引き込まれた。
何も悪くない優しかったから、偶然関わった人達が自身の弱さを押し付けたばかりに、傷だらけになり壊されてしまったマリコ(人間)の耐え難い悲しみに胸がぎゅっと痛む。


 それでも、悲しみは地続きで強さや希望に続いているから、やっぱり不思議だなと思う。人間の素晴らしさのひとつだと心底感じる。


遺骨を抱えてジャンプ。




 弔いの旅に出た先で、亡くなったはずのマリコは、都度、夢なのか?残像なのか?それとも幽霊としてなのか?突如現れる。
亡き友人と向き合って、折り合いを着けたシイちゃん。

 『アンタはね、どうか知らないけど、あたしには正直アンタだけだったよ』

マリコ
灰になっても 
アンタ変わんない
きらきらして
掴めなくて
風に流されて
そして、重力に逆らえない
劇中、遺灰が海に舞うシーンより





 登場人物の要、恩人のマキオの言葉が響く。

『もういない人に会うには、自分が生きるしかないんじゃないでしょうか?』


 そうなんだと思う。

 先日観たドラマにもシンクロする。

“記憶は所有するものではない
約束だ
愛する者への誓いなんだ
記憶は探索であり
君はまた彼女を見つけた
彼女は喜ぶだろう
彼女も誇りに思うさ”
Solos〜ひとりひとりの回想録



 探索を続けたい。



 今は、少なくとも、そう分かる。




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