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久喜ようたとは。

初めまして、うちの名前は久喜ようたと申します。
絵を描いて暮らしております。

ラフォーレ原宿愛と狂気のマーケットボディペインティングの様子

街を歩いてると知らない方から1日1回以上「それ痛くないの?」と口元を指差され聞かれます。
うちの口からは3本の金属のトゲと丸いキャッチの付いたピアスが飛び出ております、計4個の金属が出て御座います。
うちは約20年間聞かれる度に「痛くないですよ〜」と口を開けて(見て下さい、こうなってますよ)と説明をします、すると「うわ」「こわ」「痛そ」と去って行きます。
そう考えると自分は何か可哀想だなぁと書いてて思いましたがこれからもメゲずに聞かれたら返していこうと思います。

話はそれましたが、絵を描いて暮らす久喜ようたを構築するのに必要な事をまとめてみました。


画家としての久喜ようた

2020年からライブドローイング、ボディペインテング、キューピードールドローイングを主に活動しております。
ライブドローイング、ボディペインテングは、お客さんと対話しながら流動的で瞬間を捉える絵を描いて行きます。今しか生まれない絵を描くのが好きです。

ライブドローイング

キューピードールドローイングはキューピー人形に細密画を施して製作しております。
頭、胴体、腕、足、360度施された物語を描いております。現在37体目まで製作しました。(2023/12/24現在)
文筆家の切通理作氏から「曼荼羅キューピーと言う総称は如何でしょう」とご提案下さり、この曼荼羅キューピーは現在、ネオ書房アットワンダー神保町店、中野ブロードウェイ2F「アヴァンセ」内で販売中です。

きゃわいい

うちは誰でも手軽に買える画材を使って絵を描くのが好きです、そしてその作品は購入して頂いた人が自由に飾って自由に扱って頂いて構いません。
アートって敷居が高いと思われてるような気がして、美術館とかで静かに見て教養と知識がないと感想を言えない雰囲気が自分は得意ではないのです。
うちはもっと気軽に普段音楽を聴く様にライブに行って弾ける様に自由に感じて身近に置いてもらえたらなぁと思っております。
堅苦しく書きましたが、カッケーかわゆやばい最高と思えば何だっていいと思います、理由とか教養とか知識とかいらねー!そんな画家です。

「石垣島」での日常

うちは東京に住んでいるのだが、2018年に3泊4日の石垣島に旅行に行った際、「カロライナの肉屋」というBARで写真家の林弘康さん(通称ハヤシさん)にフィルムカメラで写真を撮ってもらった。
「ようたをモデルにある企画の写真を撮りたいんだよね、今日撮った写真は遅くなると思うけど必ず送るからね」と2019年の1月に送って貰った。
うちはこの頃家も仕事も全てを無くしていた状態で何でも出来る無敵の人状態だったのでハヤシさんと写真の企画の打ち合わせをして、写真を撮られに石垣島へ行った。

石垣島にて(撮影者:林弘康)

約3週間弱ほぼ毎日石垣島を車で周りシャッターを切られる、波に攫われる、血を流す、ビルからビルへ飛び移る、自分の髪も剪定鋏で適当に切ってやるという魂のぶつかり合いの撮影だった。
撮影後、ほぼ毎晩ハヤシさんは行きつけの友達のお店へ連れて行ってくれた。
そこで出来た知り合いやハヤシさんの頼れる兄貴の懐の広さに「また来ますね!」と2020年再来訪する、そして気付けば年の3分の1を石垣島で過ごすようになっていました、うち石垣島での日常は生活になっていたのです。

2022年は詩画集『石垣島、夢を見る島の真裏で。』(発行元:社会評論社)を出版しました。

日本最南端の石垣島のアーケード商店街、この観光客あふれる商店街の二本ある通りの裏通りに「カロライナの肉屋」はある。そこで私は今日もお客さんとたわいの無い話をしながらブラックインクで下書きなしのドローインクで「日常」を描いた、絵と散文の詩画集になっております。

2023年はエッセイ『豚の慟哭』(発行元:TRASH BOOKS)を出版しました。

この前ハヤシくんと屠殺した豚のカレーを作ったんだよ」。石垣島・カロライナの肉屋の一言を引き金に著者を巻き込んだ「食」をめぐる事件とは?
観光客でも島民でもない私の暮らす場所で、帰れば「ヨウちゃんおかえり」と友達が迎えてくれるこの島でささやかに起こるのだ。
文明の狭間から「人生をちゃんと生きてちゃんと死ぬこと」のリアルを真正面から問いかける著者渾身の初書き下ろしエッセイ。

自分にとって石垣島は生活している場所で、詩画集もエッセイもうちの友達が出て来ます、石垣島と聞くと年中暖かくて海が綺麗な観光地と思いますが、まさにその通りなんですが、その観光地の真裏には生活を営んでいる人がいます。
2冊ともその視点から書いたものです、是非読んで頂けると嬉しいです。
因みに去年のクリスマスイブは友達と竹富島で汗をかきながらイカを釣っておりました、ポッケに入れてたプルームテックは海に浸かり一生振動して力尽き壊れました。
イカはとても美味しかったです

発達障害、自閉スペクトラム症(ASD)の視点

うちがちゃんと発達障害の診断が降りたのは20代の後半でした。
幼稚園、小学校、中学は友達にも恵まれ大変楽しく過ごせました。
相手と比較する事がなかったので気づかなかったのですが、極端に得意な事と出来ない事がありました。
小さな頃から朝起きれない、大人になっても靴紐が結べない、数字が認識出来ないので時計が読めない計算が出来ない、言葉を文章化する為のルールが分からない、偏食と好き嫌い、拘り、これは周りの友達のおかげと自分の記憶力の高さと器用さにより表面にはあまり問題になりませんでした。

書いていたら長くなったのでこちらの発達障害の目次をお読み頂けると助かります。
お時間ある方は続けてお読みください。


高校では登校初日にクラスのKちゃんが「女子は全員トイレに集合」と言う良くわからん召集令をうちだけが無視した事により、初日からクラスの女子全員から無視をされる事になります。しかも無視されていた事に1ヶ月気付きませんでした
この頃はライブハウスに入り浸り家に帰らず学校にもあまり来ない子だったので外に友達もいるし学校内での無視くらい関係なかったのですが、たまに登校する高校の校則が厳しく、よう分からん奇抜な髪型、耳にも口にも首にもピアスジャラジャラ、左腕はザクザク、下駄履いて登校と言う異端分子は常に生徒指導の先生に学校中響く声で「久喜!!待てコラ!!」と学校の敷地内中追い回されましたから「あれが久喜か」と全校生徒に認知されておりました。
家での家族関係も良くなく高校でも無視され揶揄われ(これはうちが悪いと思う)何か言われたら怒鳴り返したり物を投げたり壊したりし始めました、後元々朝起きれない事が眠れないに変わり心療内科を受診しました。
その頃は不眠症と反抗期だからしょうがないですわと言う診断で精神安定剤をもらってました。
大人になり、自分の親と絶縁し戸籍を引っこ抜き1年の居候生活を経て4部屋しかないヤバいボロ木造アパート生活に移ります、当時はキャバ嬢をやっておりました。
全力で売り上げようと働いてましたら心労と栄養失調で体重が30キロ代前半まで落ちました、お金はあれど生活の知恵がなく毎日働くだけの日々に疲れ「来年27歳で死ぬかぁ」と26歳の時1年終活をしてました、その時に出来た彼女に「仕事辞めて取り敢えず休もう」と仕事を辞め、通っていた心療内科の先生もご高齢で友達の勧めで転院しました、そこで「生きづらかったでしょう」と言われ「あっそうなんだ」と思い、カウンセリングを受けWAIS検査を受けて自閉スペクトラム症(ASD)と診断されました。うちは27クラブには入れなかったのです。

そこから4年程ゆっくり過ごし自分の生活を見直し、出来ない事を出来る様に少しずつ改善して行きました、まだまだ出来ない事は多く迷惑をおかけする場面もあります。
親に理解されず、社会に出て1人で生きづらさを感じてる人が少しでも生きやすくなるような社会に変えられるような考え方で生きていければと今は思います。
普通じゃないと言われても気にしないで、普通なんてその人の常識の中でしかない言葉なのだから、法を犯したり迷惑をかけていないならその人の個性だと思います、目の色肌の色、出身地育った環境好き嫌い考え方みんな違いますし。
そんな事言ってくる方はその普通コミュニティで生活すればいいのです、離れましょう、気に病まないでね。

性自認はノンバイナリージェンダー

性別に疑問を初めて持ったのは小学3年生の時、うちは戦隊ものごっこが大好きでした。うちの生まれた時の性別は「女」です。
ある日男友達と戦隊ごっこしようと集まると「お前は女だから入れてやんない!」と言われ、その時はなんで女だと戦隊ごっこがで出来ないのだろうと呆然と立ち尽くしてました。
小学6年生の時に好きな男子が出来ました、転校生の子でした。
話した事もない彼に転校してきて1週間くらいで告白をしたら当たり前ながら振られました。良くある事です。
それが次の日にはクラス中に知れ渡り男子に揶揄われます。ここで男子は敵なのだと子どもの頃は思っていました。
中学生の頃はバドミントン強豪校でもあり常に体を鍛えてました、男子には負けたくない気持ちもあり、家に帰っても筋トレをしてました。
高校生になると新宿周辺を真夜中に入り浸りよく大人の男性にピアスや服装を揶揄われたり騙されたりされそうになり敵感は益々増します。
そんな中、高校1年生の時に自分の通っている高校の1つ上の女性の先輩を好きになります。同じバンドが好きで仲良くなった先輩です、告白すると「いいよ」と初めての彼女が出来ました。
うちは小学6年生の頃BL同人誌を友達の家で知らずに捲ってしまった事からBL作品も読むようになり、中学1年生の時に「cali≠gari」というヴィジュアル系バンドを好きになりギターの桜井青氏を調べるとゲイだという事を知ります。
ヴィジュアル系にのめり込んで友達も所謂バンギャばかりになりその友達も女の子同士で付き合うレズビアンの子が沢山いました。
このような環境で育ったので同性愛に抵抗が全くなく女性とお付き合いして行きました、その反面自分の性別に違和感も感じていました。
自分は自分の性別を女性だと知っているけど、胸の膨らみに違和感があるなと、でも自分を男性だと思わないなと思ってナベシャツをライブのステージ上では着ていました、自分が女性とか男性とか分からないなと思いました。
当時mixiのコミュニティに「Xジェンダー」という性別が不明という名称のコミュニティがありこれが近い感覚かもと思ってました。
うちもヴィジュアル系バンドをやりたいと高校1年の頃に1回バンドを組みましたが解散、本格的に20歳頃にも活動を始めます。
するとネット掲示板には「あいつ女じゃない?」「女のくせにバンドするな」と誹謗中傷を書かれ嫌がらせをされます、今はどうかわかりませんが00年後半のヴィジュアル系の界隈では女はバンドをやってはいけないという風潮がありました。
そんな決まりはないのですが、考えてみると女性がメンバーのヴィジュアル系バンドって少ないですよね、うちは自分の過去からの思いや考えがあり取り敢えず胸を取ろうと「乳腺摘出手術」を22歳の頃受けます。
ですが問題は解決しませんでした、バンドメンバーは「ようたはようただから気にするな」と言ってくれますが中にはバンドをやってる方からも「女のくせに」と言われる様になります、そして心の中で自分は性別は女性だけど女性として生きるのはしっくりこない、自分はただやりたい事が女だからやれない、ただ男も女も関係なく遊んだりしたいだけなのになと「子宮全摘出手術」を受け戸籍を女性から男性に変えました。

戸籍上は男性になりましたが、見た目を変えたい訳ではないので女性ホルモンを投与しております。自分の性自認はどちらでもありません。女性でもなく男性でもなく自分を「久喜ようた」として、1人の人間として見てもらえる様に日々邁進し今は生きております。
恋愛対象は性別関係なく成人した人間全員です、対戦宜しくお願い致します。

最後に

ここまで読んでいただき有難うございます。
長々と書きましたが特に気にせずにお付き合いしてくださると嬉しいです。
絵の事、石垣島の事、おとぼけな日々や物事に関する疑問をnoteには書いていけたらと思います。たまに柄にもなく真剣に。
毎週一つは更新していこうと思いますので宜しくお願い致します。

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