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人生に影響を与えてくれたもの【表現者:まこと】

こんにちは。まことです。今回のエッセイのテーマは「人生に影響を与えてくれたもの」です。人生と言えるほどの経験値も教養もまだまだ未熟な私。ですが毎年6月下旬になると思い出すのが母方の祖母が亡くなった夏のことです。

母を毒にした張本人だと思っていた祖母。私に対しては「普通のおばあちゃん」で

まことさん

私は母方の祖母が嫌いでした。祖母は母と折り合いが悪く、家族で会いに行くたびに怒鳴りあいの大喧嘩、帰りの車内で母が私達家族に当たり散らすのが恒例になっていました。母からも「おばちゃんは昔こういう事を私にしてきた」「私の家族の責任はおばあちゃんにあるんだ」と聞いていましたから、”母を毒にした張本人であり、そのせいで私がこんな目にあっているんだ”と思っていました。

ですが、私や兄に対しては祖母は「普通のおばあちゃん」だったと思います。電話に出るたびに「まことちゃんの写真に毎朝おはようって言うのよ」と話したり、会いに行くと「おばあちゃんは料理が上手じゃないから」とレストランに連れて行ってくれたり。それでも私は母と向き合わない祖母にずっと不信感、嫌悪感を抱いたままでした。

そんなある日、高校三年生にあがる3月、祖母に癌が見つかり、入院しました。その年の大晦日、たまたま埼玉から沖縄へ数年ぶりに帰郷し、一緒に過ごしていた矢先の事だったので驚きました。それまで私の身内は全員健在で、誰かが死ぬことへの想像ができなかったんです。そしてそれから3ヶ月たった6月中旬、祖母の癌はステージ4、末期がんであり、もう年は越せないと余命宣告の知らせがありました。

忘れられない祖母からの言葉。たった二日間の短い面会の大事な記憶

「もういつ会えなくてもおかしくないから、今週末に沖縄に行くよ」と確か水曜日あたりだったと思います。母に言われて、急いでパッキングして週末、沖縄に向かいました。病室に入ってみると、おしゃれが好きで、近所のスーパーに行くのにもネックレスや香水を欠かさずつけていた祖母が汗で髪の毛を湿らせて横たわっていました。でも私の姿を見ると「あら、まことちゃん、よく来たね」と嬉しそうに出迎えてくれました。

何をいっていいか分からなくてそわそわしているとおばあちゃんが「これお小遣い」と近くにあった紙にお金を包んでくれました。私がメイクをしているのを見て、「化粧は女のたしなみだからね」と褒めてくれました。母には「色気づくな」と否定されていたからすごくうれしかった。

そして昔の話をしてくれました。沖縄戦を生きて、そう、私の祖母はあの対馬丸の次に出港した船に乗って疎開したんです。途中でその残骸も見たと。「戦争はね、絶対ダメ」って。ずっと忘れないです。この言葉は。たった二日間のそれも短い面会時間でしたが、ただのおばあちゃんと孫としていられた私の大事な記憶です。そして、病室で手を振ってお別れした二日後、祖母は天国に行きました。

おばあちゃんがくれたチャンス。「事実」から目を逸らさない大切さを知った

毎月行うBDRのワークショップでの1枚

長々と書きましたが、祖母の死が自分の人生にどのように影響を与えたのか、言い表すのはとても難しいです。とても感覚的なものだから。母と祖母の間で何があったのかは詳しくは知りません。実際に様子を見ていても、確かに祖母は問題のある人だったように思います。そしてそれが原因で母を苦しめたこともおそらく事実であると思います。

ですが私はずっとずっと祖母のことを「母の母」として見続けていた。「おばあちゃん」としてではなく。だから私のことを「孫」として接してくる祖母をずっと受け入れられませんでした。母を壊した責任と私を苦しめた責任をずっと心のどこかで祖母に追求していました。

ですが、たった二日間でしたが、祖母を「おばあちゃん」として受け止められたんです。おばあちゃんは私をずっと孫としてかわいがってくれた。私にとって大切な本質はそんなシンプルな事でした。

祖母が間違いを犯したのも事実、そして祖母が私を大切にしてくれたこともまた事実。いくつもの事実から目をそらさない、そしてそれを心にしまっていく。そんな大事な教えを祖母は遺してくれました。最期のたった二日間、チャンスをくれてありがとう。おばあちゃん。

(編集:響あづ妙

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