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短編小説「国境線上の蟻」#2



 地獄なんてものがあるのかどうかは知らないが、もし可能であればそれが可能な限り、凄惨な場所であってくれたらいい。
 この世界に生きるほとんどの人間が其処に行けばいいと君は思っている。子供のころからそう思っていた。
 しかし、君とは違い、周囲のヒトは生に歓びを探し、自分を肯定し、貧しさを、弱さを、能力の低さを、恵まれなかったなにもかもに理由を探しているように思えた。
 かつて、死に際しても反撃に出なかった軟弱の怯える横顔、その声を君は忘れていない。
「あの世に行くとき、わたしたちのような貧しく弱く、しかし正しく生きた者たちは神に選ばれて天国へとゆく」
 君はそんなふうに涙を流しながら話す大人たちが嫌いだった、こいつらは生きて負ける、死に際しても負ける、天国などはない、いま相手を倒さないと勝てるはずがないのに戦う意志がない、そんな奴は永遠に負け続ける、そう知っていた。そして、いまはそれを確信している。

「私は音楽が好きだ……子供のころは音楽を業にしたいと考えたこともある」
 言わなくてもわかるだろうが、もちろんそれは子供の夢でしかなかった。とくに演奏に夢中になったこともない。ラフマニノフが好きだった。いまでも好きだ。私の故郷には音楽らしい音楽がなかった。誰も彼も貧しくて音楽には気がまわらなかった、だが、それはそれだ。どのような環境であれ演奏者は演奏をするし、歌い手も生まれるだろう。ただただ単純に教養がなかったのだ。
 君はそれに答えはしない。不思議に思うだけだ、なぜこの男はそんな下らない世間話をしているのか、と。
 俺とあんたは友達ではない、もちろん今後もそうはならない。
 この関係性は持続するものではない。わずか数日における契約でしかない。
 そして、希望を手繰る旅ではない。君は希望を欲してはいないし、男も恐らくはそのはずだ。
 君にとっても、男にとっても、それは地獄を地獄と知って訪れた旅である。
 浅薄な希望は絶望に駆逐される。圧倒的な絶望は安易な希望を破る糧となり、命はその先に明滅する。彼らはそのことをよく知っていた。

 君はその名をリャンミンと云う。姓は知らない。父母は最初からいなかった。
 年齢は24歳か25歳か、そのあたりだが、出生届や戸籍のあるような土地で生まれたわけではない。周囲に聞いただけの推測の年齢になる。そしてそのリャンミンと云う名前もとりあえずの呼称だ。どんな漢字をあてるのかもわからない。名前なんて、なんでも良かった。コードネームでも記号でもIDでもいい。なんでもいいのだ。名乗る名前は必要に応じて変えてきたし、これからがあるなら、やはり、そうするだろう、「自分」なんてものに価値があるような人間としては生まれて来なかった。それだけのことだ。
 そして。
 君が運転する隣にいる男はワンだと名乗った。偽名だろう。アジア系なのは間違いないが、本名ではないはずだ、彼もやはり本名で生きては来なかったのだろう、しかし、ワンを名乗る以上はこの土地で「王」であった自負もある、そのことは君もよく知っていた。
 ワン・イーゼン。どこで生まれたのだろうか、君は思う。偽名だろうと知っているが、それはお互いのことだ、日本名でも半島系でもない、中華系だが、ふたりともが台湾系の名前を使っている。その肌は共に浅黒く、中国の山間部の生まれのような、のっぺりとしたアジアンでもない。
 君がワンを不思議に思うように、やはりはワンも君のことを探っていたのだ。
 君たちはお互いの息の根を止める瞬間を探っているのだ。

続く
#photograph and words by billy.


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