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連作短編「おとなりさん2 〜海の見える食堂から」#3

第三話「手紙と再出発」

〈今回の語り手〉沢渡豊、四十六歳。調理師。居酒屋「花鳥風月」経営。

「微妙だなー」
 いきなり、とは思いながら、やっぱりいきなりこぼれてしまった弱音。弱音? 本音か。弱音は本音。本音は、やっぱり弱音になってしまう。
「なによブツブツ」
 カウンターの拭き掃除をしていた娘がちらりと僕を一瞥した。眉根を寄せた、その視線はなかなか厳しい。テーブルの隅に寄せられた皿はロスなく何も残らずきれいにされていた。
「あーいや」
 なんでもない。
 ことはない。開け放たれたままの引き戸から射し込む真っ白い夏の光。からからと小気味良い音を立てて、娘がそれを閉め出した。ちりんと風鈴が鳴る。その引き戸の左、座席の上の時計はそろそろ二時。二組で、そろそろ、お昼の営業時間は終了。ついさっきまで、店外で太陽に晒されていた「営業中」の立て札と、それに貼り付けておいた、「冷やし中華始めました」の手書きの一枚が、どことなく、くたびれて見えた。
「お客。来なかったなって思ってさ」
 五月も間もなく終わり。連休を過ぎてから、徐々に徐々に遠のきつつある客足。そもそもが人口減、過疎化に少子化。あとなんだっけ。思いつかない。
 とりあえず、なにせ、人の少ない地域だ。夜だけでは厳しいかもしれないと考え、始めたばかりの昼のランチ営業は、あと少しで初日が終わる。
「ちょっと。まだお客さん、いるんだから」
 険しい表情を浮かべて、娘が僕をたしなめた。そのわりに声は大きい。
 聞こえちゃうだろう、そう言い返そうとして、ふと我に返った。
 すみません。おっしゃる通りです。ぺこりと頭を下げた僕を見て(排気フードに額をぶつけた)、一人のお客様がくすくすと笑っていた。
「すみません。なんだか、みっともなくて」
 今夏、ふた皿めの冷やし中華を注文してくれたその人は、食べ終わってくれたばかりだった。「美味かったでしょう?」と、聞きたいけど、そんなこと口にしたら、また、たまきに叱られる。
「ううん。なんだか」
 そこまで言って、その人は続く言葉を見つけ損ねたのか、俯いてしまった。きれいな人だな。娘が僕の様子を見張ってはいないだろうか。でれでれしてた、なんて、注意されないように気をつけなくちゃ。
「ゆっくりしてってくださいね」
 良いタイミングで娘が一言をくれた。すかさずサービスの一皿を差し出す。
 たまきナイス、と、僕は思う。こっそりと親指を立てて笑顔を浮かべたら、やっぱり、僕は様子を伺われてしまっていたのだ。お客さんの背後から、僕に向けてあかんべー。
「ふふふ」
 そのお客はようやく笑顔を浮かべてくれた。見かけない顔だった。きっと、このあたりの人ではないだろう。隠せない緊張をまとっているのは、不慣れな土地にいるからだ。
「お二人が微笑ましくて」
 カウンターの角を陣取り、食後は瓶ビールの残りを飲んでいた。それだけではなんだから、と、マヨ一味を添えたスティックサラダをお皿に一枚。半分ほど食べて、それから、手紙を読んでいた。開け放した窓から吹き込んだ風が、その一枚をさらおうとした。いまどき、珍しい。しかし、手紙を珍しく思う時代が来るなんてな。
「そうですかぁ?」
 たまきはなぜか不服そうだった。僕は鼻の下まで伸ばしてしまっていただろうか。娘というのは、どうして、こうも手強いのだろう。
「お客さん、このあたりの人じゃないですよね」
 都会の人が珍しいのか、娘はその人に興味があるらしかった。座席にはつばの広い麦わら帽子。短くした髪に、ノースリーブの黒いワンピース。爪先が台形になった、珍しいミュール。服のことはよくわからなかったが、それにしても、このあたりの人には見えない。
「うーん。もともとはこのあたりの人だったんです」
 静かに微笑み、その人は言う。いくつくらいだろう。三十くらいだろうか。壁に貼りつけた、ビールのポスターにだって登場できそうだ。
「もともと?」
 たまき、余計なことを言うな。そんな気持ちで視線を送るが、もはや、僕のほうを見ていない。
「この近くで生まれて、育って」
 両手でグラスを支え、その上の小さな顔は左上を見て、それから右上を見る。過去と現在と、ひょっとしたら、これから先のことにも想いを巡らせているのかもしれない。
「ちょうど、君くらいのころにこの町を離れたのよ」
 物憂げな視線はグラスの底を見つめているようだった。それが似合うのが都会に生きたからこそだろう。たまきや僕じゃ、居眠りだと勘違いされるだけだろう。
「え、じゃあ。家出ってことですか」
 たまき。余計なことを言うな。そう思いはするが、娘を制止できない。
「ねね、なんでなんで?」
 おいこら。僕たちの仕事は口を出すことじゃない。酒を出すことだぞ。それもそれでやはり言えない。
 そのお客に興味津々らしいたまきは、いつの間にやら、となりに座り込んでしまっていた。胸にお盆を抱いたまま。
「家出、かな。うーん。そんなつもりはなかったけど、結局、そうなってしまったのかも」
 そしてため息。ため息が似合うって、大人の証拠かもしれない。僕なんて、とっくに大人のくせに。ぼんやりとそんなことを考えた。
「でも、帰って来たんですよね」
 カウンターに並んでいる娘とその人。その間には、ひと回りは年齢差がある。けれど、二人は友達のように見えた。このあたりは若い人が少ない。若い女性が並んでいる姿なんて、ほとんど見かけない。
「出戻りなんです。リコンしちゃって」
 明るく、軽い声。いまどき、離婚なんて、結婚よりありふれているんじゃないかと錯覚するくらい、猫も杓子も離婚している。いや、猫や杓子にはそもそも婚姻制度がないけれど、ともかく、いま、この店内にいる三人のうち、二人は離婚経験者なのだ。昔のように、罪の意識に苛まれなくても済む。いまや、経験者も、過去を開示しやすいかもしれない。おおっぴらなほうがいいことだって、たくさんあると僕は思う。猫はまあともかく。
「なんで杓子なんだろう」
 気づけば、手元の杓子をつまんで睨んでいた。お前とはずいぶん長い付き合いだな。それに気づいたたまきは、目を光らせて首を振る。
「別れてしまうと、住んでいた場所から離れたくなって。でも、行きたいところもとくに思いつかなかった」
 そして、美貌の客人は、さっきまでの手紙を指につまんで、ひらひらさせた。どなたからの手紙なのかはわからない。けれど、その書き手が誰だったとしても、きっと、その数枚の便箋には、どれくらいたくさんの心配と感傷と、優しさと大きなお世話と、思い込みや好都合な理想や、筆はじめの時候の挨拶、聞いてもいない告白や、それから、そんなふうに積み重ねた時間への愛憎が残されていたのだろう。
「そんなとき、里の父からこの手紙が届いて」
 田舎が窮屈だった。都会に暮らしてみたかった。彼女は、グラスのふちに目を凝らしながら、ぽつりぽつりと、静かな雨のように話し始めた。それはきっと、彼女や僕たちだけじゃなくて、地方に生まれ育った誰もが一度は考えるものだ。
 僕だって、かつてはそうだった。ずいぶん古い話なのによく憶えている。無条件に憧れた、都会。東京や大阪。横浜や神戸や京都。地方出身者は、そこに行かなければならないような幻想を、あるいは錯覚と共に大きくなるものなのだ。それはきっと、大人になるための通過儀礼なのだろう。たまきだって、考えたことがあるだろう。いや、いままさに考えているところかもしれない。
 大人の都合に振り回されて、自分で居場所をつくろうとした娘。大人にだって事情はいつどんなときに起こるかわからず、生まれた土地へ戻ろうと思った人もいる。
 僕たちが、どこかで見聞きして、体験したこともあること。
 人の営みは、きっと、都会も田舎も変わらないのだろう。いまになれば、そのこともわかる。
「昔は東京だとか、都会に憧れたけれど、結局、慣れないままだった」
 うんうん。僕は、記憶をなぞって、うなづく。
 束の間、それぞれに振り返った。そんな記憶の雨もそろそろやむころ。
「また、ずいぶんな田舎に戻ってきちゃいましたね」
 その田舎にやってきたたまきは、ひひひ、と、隣でいたずらな笑みを見せた。お隣同士になった二人は、親しい友人のように見えた。
 もう、たまきは、大人の女性と並んでも、母娘になんて見えない。もうすぐ、いや、すぐに大人なんだな。小さなころの彼女の姿をよく憶えていた。あのころから、僕の呼び名は父ちゃんだった。変わらないこともしっかり残っている。うんうん。
「なんで、父ちゃんがしんみりしてるの」
 カウンターから怪訝そうにしかめる顔。うちの娘は鋭い。お隣になった女性も不思議そうに僕を見ていた。笑いをこらえ、かすかに唇を震わせてもいる。
「いや。時が経つのは早いなって思ってさ」
 その応答はとんちんかんだったらしい。二人は顔を合わせて不思議そうに首をひねった。それからまた笑った。窓の外は相変わらずの青空。
「なんで、あかりさんの父ちゃんみたいな気分になってんの」
「いや、そういうつもりでは」
 僕もやはり首をかしげた。
 しかし、笑う二人を見ていると、勘違いも悪くないと思えた。箸が転んでもおかしい時間は、きっと長いほうがいい。そして、ときにはお箸のような役割も良い。僕らはお箸の国の人だもの。
「ご主人。もう一本、ビールください」
 空になったグラスを振って、笑顔。近くの誰かの笑顔はごちそう。僕まで嬉しくなる。あとから娘にでれでれし過ぎと言われないよう、これからは控えめな微笑みを目指そう。
「じゃあ。あかりさんの再出発を祝って。ごちそうします」
 なあ、たまき。
 そう声をかけるより早く、まいどー、なんて、威勢の良い返事で、すっかり看板娘が板についた娘が、がちゃんがちゃんと冷えた瓶ビールとジンジャーエールをお盆に載せて戻ってきた。
 おいこら、もう少し静かに運んでくれよ、なんて、言うまい。元気な娘はこの店の活気そのもの。僕たちの前にそれぞれのグラスが並ぶ。
「父ちゃん、働いたらお腹空いた」
「じゃあ、何かおつまみになるものがあれば」
 打ち解けた二人が笑っていた。すっかり、お隣さんになっている。僕は厨房に広がる仕込み中のあれやこれやの様子を伺って、
「じゃあ、根菜たっぷりの豚角煮はどう?」
 鍋のなかでとろみをまとって光る豚肉。脂を吸って甘いたまねぎとにんじん。ごぼうはささがきにはせず、ごろりと切り身。口の中でほどける肉の甘味と、たっぷりのボリュームは、きっと若い女の子だって大好きなはず。彩りに刻んだ紅しょうがを添えて。どかんとよそって、二人の前に差し出した。
 せっかくの祝い事。ここにはもう、それなりに事情と経緯を知る三人しかいない。一杯くらい、そう思って、僕もグラスを手にした。
 いま、僕たちは一杯を共にするお隣さんになれたのだ。
「それでは」
 たまきはジンジャーエールのグラスを掲げた。あかりさんと僕は、なみなみに注いだビール。
「あかりさんの再出発に」
 このころ、音頭を取るのはいつの間にやら娘の役割になっていた。未成年のくせに、飲めもしないくせに、なんて思いながら、しかし、どうしたって頬はゆるむ。彼女のよろこぶ顔は僕にとって、他に変えがたいよろこびなのだ。
「かんぱい」
 ごつんと元気に鳴るグラス。なるべく厚くて、頑丈なやつを選んでおいて良かった。
 僕たちはとなりにいる誰かの幸せを、願うことができる。いつか、そのことをよろこぶことだってできるのだ。生きることをよろこび合おう。そんなふうに生きていこう。
 これから、この海辺で。
 夏の始まりのある午後のこと。僕たちは再出発を祝って、笑ったのだ。

つづく。
artwork and words by billy.
#創作大賞2023
#ほろ酔い文学

さて、今回は、主人公である沢渡たまきさんの父親で、食堂・花鳥風月の店主でもある、沢渡豊さんを語り手にしています。
迷ったんです。一、二話と同じように、主人公たまきの一人称にしようかと。
これ以降の第四話、第五話はそれぞれ別のキャラクターの一人称で書いているので、今回は、豊さんの一人称を採用しました。
たまきが語り手の第三話は、本編終了後、番外編としてご紹介しようかと思っています。

※ちなみに、今回、登場の仁茂あかりさんは、次々回になる第五話の語り手として、また、後に、花鳥風月の一員として、主人公たまきの大切な友人として、物語を支えてくれる人物になりそうです。

それでは、また。ビリーでした。

©️ビリー

to be next……


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