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短編小説「国境線上の蟻」#3


「死に際を考えたことはあるかい?」
 君はその問いに少し迷う。慎重に言葉を選ぶ。そして探す。真意を知りたかった。君は横目に男の表情を窺う。そして。無言はときに多弁よりも雄弁に感情を物語ることがある。隣の男も、横目に君の表情を伺っていた。皺が寄る額。白髪のあごひげ。相手はすでに若くはない。むしろ、老齢に差し掛かりつつある。しかし、安堵出来ない理由が見え隠れする。男の眼だった。それは捕食者の顔だった。獲物を追う獣と同じ眼に見えた。
 いままで、どれほどの人間を捕らえ、血肉に変えてきたのだろう。そして、そのことを忘れてもいる。虎は捕食した動物のことを、いちいち記憶してなんて、いない。それと同じだ。
 俺は甘いのだろうか。
 君は迷う。一秒ですらそれを忘れることなんてない。人を殺す瞬間、その一瞬以外は死を思っている。そう生きてきた。そのつもりだった。
「そのときは……」
 君は口を開く。
「そのときは独りで何処か遠く……誰もいないところにゆく。そう決めてる」
「それがいい。私も同じ意見だよ」
 隙なく返答された。君は思う。おまえには無理だ。一度、目を閉じてから、その言葉を反芻する。何処か遠く。誰もいないところで。おまえはそんなことできない。君は空いた手を握る。
 思わず、棘が立ち上がる。苛立ちがあらわになる。押し殺し続けた感情が発火しそうになるのを抑えた。君は思い出す。子供のころを思い出す。貧しくも懸命に生きること、ささやかな幸福を夢に見た、そんな、少年時代はいまも胸に生き続けている。
「あんたは……」
 君は狼狽を悟られまいとタバコに火を点ける。目の前のグラスのウイスキーを飲み下す。氷を噛み砕く。ボトルを握り寄せて、グラスに注ぎ込む。
「飲まないんじゃなかったのか」
 男の眼は笑ってはいない。だが、声色には嘲笑が混ざりこんでいた。眉根を寄せ口角を吊り上げてみせる。あごを右後ろに引き、左眼で君を睨んでいた。
 屈服させた後に、征服の際に、なんども浮かべた表情なのだろう。君はそれを感じる。同時に蘇る記憶もある。俺はもう子供じゃない。君は睨み返す。
「あんたは……あんたは、もう、有名人だからムリだよ」
「そうかな? 名前なんぞ、いくらでも変えられる。無名になることは名を馳せるより遥かに容易い。そう……いま、私が君を殺したとしても、君の名前など誰も知らない」
 わかるか。
 わかるよな、若造。
 おまえが考えているのと同じで、俺だって、おまえを殺そうと思っているんだぞ。聞こえるだろう、俺の呼吸。俺の心音。おまえの弱々しい呼吸や心音なんて、他愛もない。いますぐ決着してもいい。
 君は間近の虐殺者の声が聞こえた、気がした。しかし、彼は笑っている。まだ、力を持たない、君のことを笑っている。
「その逆も同じだけどな……こんな薄汚い、貧乏人が泊まる安宿であんたが殺されるとは誰も思わない。そして俺が誰なのかなんて誰も知らない。身を消せば何処にでもいける」
 顔だって変えればいい。経歴なんて、最初からない。出生届すらないんだ。そんな曖昧なものは、いくらでも作り替えられる。
「契約違反、契約破棄どころじゃないな」
 君の稼ぎでは違約金は払えないぞ。冗談のつもりだろう。つられて君は笑う。そして男も笑った。君もわずかに解放されて、呼吸二度分だけ笑った。
「もう少し飲まないか? 私が奢ろう」
「ああ。ナッツかなにか、買ってくるよ」
「スコッチにしてくれ。私はビールや日本の酒は飲まない」
「知っている」
 これで足りるだろう。男が札入れから抜き出したのは数十枚に及んでいた。君はかまわずそれを握って、コートのポケットに突っ込んだ。
 おまえは。この札のために何人を殺した? 振り向きざまに問いたが、男はもう君を見てはいなかった。ブラウン管の白い光線に老いた男の白い顔が浮かんで見えた。何を視ているのだろう。なにも視ていないのかもしれなかった。グラスのカティ・サークに浮いた氷を指で突いた。かさついて、節の目立つ、白い指だった。
 どこにでもいる、年寄りの手だった。

つづく。
photograph and words by billy.


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