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遠い夏の日

 あなたは、大好きな人とはじめての体験をしたあの時のことを、どれだけ覚えていますか?
 それが今ほど簡単なことじゃなくて、だから、決して忘れられない、かけがえのない宝物だった頃の「物語」です。
 もし多少お時間があって、そんな時代の夏の日の体験を、一緒に共有してもいいな、と思っていただける方は、どうぞ、ごゆるりとお付き合い下さい。(約3700文字)

まえがき


 廃線になった臨港線の貨物駅に、僕はいた。
 だだっ広い荒野と化したヤード(操車場)は、赤錆びたレールがそこにあることを誰にも悟らせないかのように夏草が生い茂り、ただ、ところどころ破れたりめくれたりしているトタン屋根の荒屋あばらやのプラットホーム跡だけが、昔そこが貨車たちで賑わったステイションだったことをかろうじてあかしている。

 ウォーターフロントとして再開発が進む港湾地区の中で、ここだけが忘れられた空間として取り残されていた。
 首都高速を走る車の音も、工場の操業音も、この一面の草原には聞こえてこない。
 遥かに見えるコンビナートのプラントや潮の香りがなければ、そこが海に近い場所だということさえ、忘れてしまいそうだった。

(どうしてこんな場所を選んだんだろう・・・)

 荒屋あばらやの作るところどころ穴のあいた影の中で、僕はプラットホームに腰を下ろし、そのことばかりぼんやりと考えていた。


   *   *   *


 初めて由実に会ったのは、冬の模試の会場だったから、つき合ってもう半年になる。正確には七か月と五日だ。
 冬だというのに陽に焼けた笑顔が目について、何の下心もなく、本当に何の邪心もなく声をかけたのが始まりだった。結局その時は、彼女一流のジョークにかわされて、陽に焼けた理由を聞くことができなかったが、ボクの素朴で失礼な質問に何のてらいもなく見せたその100万ドルの笑顔で、そんなことはもうどうでもよくなってしまったのだ。
 そして、一ヶ月もしないうちに、由実のサニーフェイスが天性のものらしいということは、鈍感な僕でも想像がついた。彼女の陽に焼けた笑顔は、半年後の今も少しも変ってはいない。変わったのは、由実は女子大生になり、僕は予備校生になったことぐらいだ。
 でもこの違いは僕にとってけっこう大きな違いだった。勿論、浪人生としてのコンプレックスとか受験のプレッシャーとかも無いことはないが、
『お互いに志望校に合格するまではね!』
という、彼女とのよくある他愛ない、そして大マヌケな約束をしてしまったことで、未だにキスまでしか許されてないという現実の方が、僕にとっては重大事だった。

 受験という共通のシチュエイションを失い、新天地で得る様々な日常の驚きと輝きを身にまとった彼女と、去年をもう一度繰り返している中古セコハンの「ボク」を引きずったままの僕との、会話と精神状態のズレは、ますます僕のフラストレーションを高めるだけだった。
 常に目の前に健康で美しい恋人がいながら、〝約束〟のために見ないふりをして精進努力できるほど、ボクの肉体と性欲は不健全ではなかったのだ。

 そこで僕は、夏休みに入った彼女をいつものように図書館に呼び出して、普段したことのない深刻な顔をし、普段出したことのない大真面目な声色こわいろで、受験のプレッシャーで僕のナイーヴな精神が変調をきたし始めたらしいこと、精神科のカウンセラーは今一番したいことをとにかくしてみることだと言ったこと、自分の胸に手を当ててよく考えたら僕の今一番したいことは由実とセックスすることだと分かったこと、しかし由実との〝約束〟を破るなんて僕にはできそうもないこと、などと、公園越しに新しいファッションホテルの見える図書館のテラスで彼女に訴えた。
 
 すると、あきれるくらいいつも笑顔の由実が一瞬寂しそうな表情をして黙り込み、またすぐいつもの笑顔に戻って言ったのだ。

―――約束なんて破るためにあるものよ―――

 その時僕の目には、そう言った彼女の笑顔と、その向こうにそびえるファッションホテルに、後光が射しているように見えた。そして彼女はすぐにこう付け足したのだ。

―――でも、私にその覚悟ができる時まで待ってほしい。きっと近いうちに私から連絡するから、だから、もう少しだけガマンして―――

 あの日から10日後の昨日、由実はこの場所での待ち合わせを連絡してきたのだ。


  *   *   *


 カサカサと夏草がれる音に気付いてその方向を見ると、いつの間にかストローハットに白いワンピース姿の由実が、20mほど離れた古い転轍機てんてつきの横をレールに添って歩いてくる。僕と目が合うと立ち止まり、いつもより少しだけ堅い笑顔を作った。
 僕はなんて声をかけたらいいかわからずに、とりあえず「やあ」と言った。由実も「やあ」と答えた。次の言葉を僕が探すうちに由実は振り返って2~3歩戻り、転轍機てんてつきに手をかけた。

「これって、ポイントっていうんでしょ?」

「うん」

「列車の行く先を変えられる機械よね。」

 ホームの端に腰かけたまま、僕はうなずいた。

「今でも動くかなあ」

 由実は自分の背丈以上もあるレバーに両手をかけた。

「無理だよ、サビついて動かないよ。」

 それでも僕の忠告を無視して両足を踏ん張り、両手で抱え込んだレバーを力いっぱい引き寄せようとした。レバーはビクとも動かなかった。そのかわり、サンダルを履いた足元が滑り、バランスを崩してペタンと尻もちをついた。その勢いで麦わら帽子が真夏の青空に舞い上がった。


 貨物ホームの上には、今はもう何も荷物がなく、一面に柔らかい下草が生えている。僕と由実はその上に寝そべり、トタン屋根にポッカリとあいた穴から青空に浮かぶ真っ白い綿雲を眺めていた。真っ黒な屋根の陰に不器用にトリミングされた、そこだけが8月のまぶしい夏空だった。
 あおむけに見上げている由実の真剣な眼差しに、話しかける言葉も抱きしめるきっかけも僕には見つからない。

「ごめんね・・・・・」

 由実がつぶやいた。

「なにが?」

「わかってて、知らんぷりしてて。」

「・・・・・」

「たいしたことないのにね。」

「えっ?」

「たいしたことないよね。」

「・・・・・うん」

「それだけ。」

「・・・・でも、どうして――――」

 僕の言葉をさえぎるように由実が唇を重ねてきた。白いワンピースのファスナーを下ろし、脱がせながら由実の素肌にそっと触れる。真夏なのに冷たく滑らかなその肌をゆっくりと指でなぞると、背中から腰にかけて、細く盛り上がる感触の異なった筋のようなものに指先が触れた。
 一瞬、由実の躰がビクッと震えたが、それを打ち消すかのように僕の首に腕を回すと、さらにきつく抱きしめてきた。きっとそれは大きな傷跡なのだろう。僕は半回転して由実の上に重なると、柔らかで華奢なその体を由実がするよりももっと強く抱きしめ返した。僕と出会って多分初めて流した涙が、由実の頬から僕の首筋に伝わるのを感じた。ずっと遠くで正午を告げる工場の長い長いサイレンが鳴っていた。


 さっき青空を眺めてたトタン屋根の穴から、今は陽光が二人の太股のあたりに差し込んでいる。由実はいつもよりずっと素敵な笑顔に戻り、僕たちはやっぱり寝ころんで、今まで話したことのなかったいろいろなことを話した。
 由実は、背中の傷が子どもの頃の自動車事故の古傷で、その時の投薬の副作用でサニーフェイスになってしまったこと、それ以来家の中で泣いてばかりいた自分が嫌になって、外では無理しても笑顔でいようと決めたこと、だけど本当はものすごく臆病で今まで一度も心を許せる人が見つけられなかったこと、を僕に話し、僕は由実に、受験ノイローゼが実はウソだったこと、セックスは由実が初めてだったこと、そしてとても素敵だったことを話した。僕は上半身を起こすと、さっきからずっと気になっていたことを聞いてみることにした。

「なあんだ、そんなこと気にしてたの?」

 そう言うと由実は、素肌に頭からワンピースをすっぽりと着て立ち上がった。

「昔、この近くに住んでいたことがあって、小さな頃よく遊びに来たことがあるの。」

「懐かしかったから?」

「ふふっ、本当はね、10日間いろいろ考えたけど、ここしか思いつかなかったんだ。」

 いたずらっぽく笑うと、陽が当たりだしたプラットホームの端に立ち、眩しそうに手をかざして太陽を見た。そして小さなクシャミをひとつした。
 僕もTシャツとジーンズを素肌に着てプラットホームから飛び降り、古い転轍機てんてつきまで走った。

「無理だよおー!サビついて動かないよおー!」

 プラットホームに腰かけた由実が叫んだ。
 僕は思い切り体重をかけた。大きなレバーの軸がギシギシと鳴った。一度力を抜き、もう一度気合を入れて体重をのせた。ガクンとレバーが動き、僕は勢い余ってうしろの草むらへひっくり返った。同時にレールが転換するガシャーンという音があたりに響き渡った。

「やったー!」

 由実が大笑いしながら足をバタつかせて拍手している。
 そして僕は、僕の部屋でもなく、由実の部屋でもなく、ましてファッションホテルでもなく、由実がこの場所を選んだ本当の気持ちが、少しわかったような気がした。

       
       ー完ー


 作:birdfilm   増田達彦
 扉は茈(むらさき)さんの素敵な写真をお借りしました。


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