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MORNING AFTER

消したい記憶は沢山ある。だからなるべく、”そのこと”を考えないようにしてきた。おかげで今はもうよく覚えていないことばかりだ。時が全てを癒すというのは、まさに本当にそうだと思う。

”その時”のことについても、なぜ自分が実家に居たのかよく覚えていない。日曜休みの家族が全員家にいたので、きっと日曜日の午後だったのだろう。自分が部屋にいると、キッチンの方から母親の悲鳴に入り混じり、喉を締め上げられているかのような断末魔の声が聴こえたのだ。

慌てて自室を飛び出し急角度の階段を降りてキッチンに駆け入ると、なんと血走った眼の父親が母親の首を締め上げている場面に出食わしてしまったのだった。
「何やってんだよ!」
僕の顔を見た父はハッとした顔をして、母の首から手を離した。そして父は身震いしながら拳を握りしめ大声で言った。
「どこかの男の子供がお腹の中にいると言ってるんだ。この野郎っっ!」

僕は、肩を揺らし荒く息をし黙りこんで目をふせ、しゃがみ込んだままの母に事の顛末を問い詰めた。
どうやら、父以外の男性の子供を孕っていることがわかったので、その子を産むために、これから家を出てゆくつもりらしい。

父は61歳。長年勤務していた零細企業を定年退職し、自動車部品の物流倉庫でピッキングのアルバイトをする身だった。

母は45歳。東急東横店の食品売り場にある高級鰻店で販売員の仕事をしていた。父も母も高卒で、この年になって正規雇用される仕事には就けないため、生活はいつもギリギリで決して楽ではなかった。そんな最中に、この事態である。

母はパートを口実に外出しては、実は東京都成増の大地主、N家の長男と不倫関係となっており、その子を孕んでいたのだ。

N家は太平洋戦争後、軍用地を入札で安く買い占め、住宅地として開発し莫大な財産を築いた。一族は不動産王となり、個々で様々な事業を営んでいた。その長男は池袋で日本語学校を起業し、その校長の座に収まっていたが、50代でまだ独身だったのだ。
母親にしてみれば16歳上で、アルバイトにしか就けない初老の父を鰻の販売員の収入で支えながらギリギリの生活を続けることに夢も希望も失っていただろう。

45歳といえば女性にとって、まだ最後に一花咲かせる気持ちが残っている年代である。そんな時に、まだ独身で超お金持ちの資産家社長と出会って不倫関係になってしまったのだから、当然、その玉の輿を狙った方が未来を感じられたのだろうと思う。

それから数日間、父は説得をおこなっているようだったが、すぐに母親が激昂してしまうことの繰り返しだった。
「とにかくもう全てが嫌なの!」「新しい人生をやり直したいの!」の繰り返しだった。
そうした日が1週間ほど続いてから、母は荷物をまとめて家を出ていった。その時に母がいなくなったキッチンで立ち尽くしたまま男泣きする父の姿を見た。

父の若い頃は全日本社会人ボクシングの東京都代表、全日本一位のランキングボクサーだった。いつも強気で態度が大きく、まあ見てくれからしてほぼヤクザのヤンキー親父だったが、年をくって力だけが正義の世界に生きられなくなれば、見事にこのザマである。
この時に「腕っぷしが強い男」の限界を見せつけられた気がした。「腕っぷしの強さ」だけでは、貨幣の価値創造が全てを支配する、この資本主義の経済社会の中で家族を守れないのだ。ようは金の有無で女に捨てられる可能性があるということである。

母は父のボクサー時代のファンの中の一人だった。しかしボクシングというスポーツは、世界を獲らねば食えないスポーツである。日本でタイトルをとった程度では全く食ってはゆけない。典型的なスポーツ選手の悲哀である。ボクシング引退後の父は零細企業のサラリーマンを定年まで続け、その後は会社のツテで自動車関連部品を扱う倉庫で嘱託のアルバイトをしている身だった。年金収入と合わせても生活には余裕がなかったのだ。

しかし母の不倫相手は資産家の一族。しかも50代の初婚の独身社長である。父は経済力で不倫相手に完全に負けていたのだ。そして子供まで妊娠させられる始末。これが現実だ。

当時の母親が自らの不倫を僕に告白する前に、よく家のステレオで流せとリクエストのあった曲は、The Red Warriorsのモーニングアフターという曲だ。母はとにかくしつこく、この曲を繰り返し聴きたがった。
当時は母がなぜこの曲を繰り返し聴きたがるのか全くわからなかったが、母の告白の後でこの曲を聴いてみると、歌詞の世界がおそらく母親の心情と完全に一致していたのだろうと思う。あの時の母親はまさにこの曲の世界観と同じような中に生きていたのだろう。

母が家を去った後に気がついたのだが、当時の家の書棚には渡辺淳一の恋愛小説が並んでいた。その中に映画化された不倫小説「失楽園」があった。

45歳にしてロマンスグレイの王子様との許されぬ恋に陥ってしまった母の立場でみれば、まさに人生をやり直すラストチャンスといったところだったと思う。

不倫相手の素性を知って、怒りはあまりおこらなかった。むしろここまで貧乏に耐え自分たちを育ててくれたことに有り難いと思ったし、これから先は第二の人生に送り出すのも悪いことではないとさえ思えた。父は自分が面倒を見ればいい。

もちろん、この時点では、母がこの人生を選択して10年後におこる、あまりにも惨たらしい事件など、誰も予想し得ることではなかったのだが…

MORNING AFTER~2に続く....



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