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共感至上主義で「みんなで共感してみんなでバカになる」のか?──共感を超えた場所を支える「歴史」

前回の記事

小説を読んだり書いたりするうえで「ある一定のラインをこえると歴史についての理解が不可欠になってくる」という話を前回にちょっとだけしたわけだけれども、歳をとるたびに仕事やら家事やら育児やらちゃんとこなさねばならないことは増えるし、おまけに脳みそのキャパは小さくなる。いわゆる「遠回り」に使える時間はどんどん減っていき、「必要なときに最小のコストで必要なことだけを断片的にインプットする」ことが処世術みたいになってしまうのだけれど、そんなかんじで得た知識などぶっちゃけ大して使い物にならない。けっきょくは、一段上の読書や実作をおこなおうとするならば、どこかで腰を据えて体系的に学ぶ必要がある。

郡司ペギオ幸夫と思想の一般化

このことはある程度の物事を考えてきたひとにとって感覚的にわかることなんじゃないだろうか。ひとがみじかい人生のなかで読める本なんてたかがしれているし、とうぜん専門性についてもだれもが限定的にしか持ち合わせていない。しかし、それでも現実世界を生きるうえでは限られた知識で雑多なあれこれについての考えなければならない場面が幾度となく現れる。そうなったとき頼りになるのは正確な知識とアナロジーで、ひとつの狭い(と、おぼしき)領域の徹底した研究により思想を見出した研究者はアナロジーによりそれを一般化させ多岐に渡る言及をおこなう。
このことでぼくがよく例にあげるのが郡司ペギオ幸夫氏だ。
かれは複雑系やら統計力学やらに基づき、鳥が群れをなす様子やデジャヴを数理モデル化し、生命や集合的無意識といった事象や、アニメ『ポプテピピック』を題材にして表現の最前線についての議論もおこなっている。

参考記事
「クソアニメ」とは何か?――表現形式としての「クソアニメ」/アニメ『ポプテピピック』評 
なぜ人文学的問題を自然科学として扱えるのか--郡司ペキオ幸夫『生命、微動だにせず 人工知能を凌駕する生命』 
ポプテピピック革命

複雑さとむずかしさを許容する懐の深さ

小説は一種の複雑系的な要素をはらんでいる。
すくなくともぼくはそうおもう。一般に文章の世界では「伝える」ということが重視される傾向にあり、複雑さはときとして歓迎されない。なんらかの「意味」に向かい、それを手際よくロジックと共感を利用してそれを素早く伝えることが「良い文章」として評価されるケースは、特にWEBメディアにおいてよく見られる。
ぼくはブログTwitterで何度もこうした価値観について批判的な立場を取っているわけだけれども、べつにそうした文章が一定量あることに関しては何の問題もない。いろんな文章があって良いわけだけれども、ぼくが問題視しているのは書き手個人の信条ではなく、全体としてのパワーバランスの問題であって、複雑で難解なものが淘汰されるのは非常にまずい。
よく「中学生でもわかることばで説明しなさい」というようなことが文章読本やライターのハウツー記事などで書かれているけれども、「中学生でもわかることば」とは、ほとんどの場合「中学生でも理解可能な領域のことだけを抽出したもの」だということはわりと言及されていない。もちろん、いたずらに専門用語を乱発するのは考えものだが、固有名詞がもつ文脈や歴史を切り捨てて「感覚的な理解」ばかりが促されても自己完結的な理解に終始するだけで、外的なあたらしい発見を仕入れたことにはならない。
「感覚的な理解」は専門知識を一般化させるアナロジーを得るために重要なものであるのはまちがいないのだけれど、その基盤が成熟するまえにそればかりを優先させてしまうと、極論をいえば「みんなで共感してみんなでバカになる」ということを助長しかねない。こういうことをいうと、わりといろんなひとに怒られるのだけれども。

ゼロからイチをつくれるのか?

いうまでもなく、ぼくがどのようにおもいどのように考えようとも、小説にとって「共感」が非常に重要なファクターであることには変わりない。それがすべてではないにしろ、これについての配慮はぜったいにしなければならない。ただ、小説を読むにしろ書くにしろ、作品と読み手をつなぐ要素というのはなにも共感だけではない。その例としてあるのが歴史なんじゃないか、と30を超えたあたりから真剣に考えるようになった。
世にある小説を俯瞰的にみてみると、意識的なものから無意識的なものまでさまざまな引用に満ちていることがわかる。
創作は「ゼロからイチをつくる」という行為だと考えているひともいるけれども、「なにがゼロでなにがイチなのか」の捉えかた次第で大きく意見が変わりうる。この「ゼロイチ」とは、実作者の経験を通してなんらかの着想を文章化する行為なのか、それとも言語や文字すらない状態からつくりあげる行為なのか。ぼくは、前者の「経験を通して得た着想を文章化する行為」は「引用であり翻訳である」という立場をとることにしている。事実上、ゼロから小説は生まれないと考えている。

そうした物語の引用源として、「歴史」は個人の感覚以上に作品に強力な構築性をもたらす。それは神話や戦記などが引用・加工されたりすることによってつくられる作品の強大さはたぶんそれで、小説を読み書きするぼくらと遠くへだった場所にあるもの、そしてぼくらがどう生き、どう感じようが絶対的に動かせない盤石さが、共感を超えた場所での交感を可能にする。大江健三郎にしろル・クレジオにしろ、ディックやイーガン、ウェルベックにしろ村上春樹にしろ、大規模な世界の構築に成功した作家の小説は歴史の引用・加工に優れた感覚が発揮されているからこそ、理解を超えた領域での思考が可能になっている。

というわけで、

……以上のようなもやもやを解消するために、これから歴史のお勉強をし、その記録をnoteにまとめていきたいとおもいます。
というわけで、次回は「旧約聖書と新約聖書」の話をする予定です。
おつきあいのほど、よろしくお願いします。

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