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七色覚(グレッグ・イーガン 山岸真訳)〜言語表現とサイボーグ、わたしと世界の感覚器

 数ある言語表現のなかでもとりわけ小説という形式を選んだなら、まず考えなくてはならないのは「フィクション」という概念のことだとぼくはおもっていて、それは単純な現実との乖離やこの世界で未だ起こっていないこと、起こらなかったことなどを意味するわけではない。そういうことを、ブログやTwitterでたびたび書いてきた。フィクション、あるいは虚構性ということばで指し示せるこの概念は、想像力という自由さ・奔放さ・広さにもつながる一方でどこか限定的な意味でもあって、自由さをはじめとするこうした無制限なイメージ以上に、実はフィクションないし虚構性を限定するものにこそ、考えられるべきことは多くあるんじゃないかとぼくは考える。「限定的である」ということは平凡さや不自由さなどの枷になるものではない。限定的でありながら自由でもあれるし、リアリズムとフィクションが相反するものというわけでもない。
 小説という表現では、特定の長さをもった散文群や、それがなんらかの連続性を獲得した「物語」によって、書き手と読み手の両者に固有の認識をあたえる。「この文章を読んでいる」という状況のなかではじめて知覚し、存在を認められる、かたちのあるなしに関わらない「なにか」と遭遇し、思考する、とくべつな場所をぼくは小説とよびたい。それはほとんど論もなければ主張ですらない、衝動や感情というほかない独りよがりな価値観なのだけれど、そのとくべつな場所を作り、誘う技術がたしかに存在するということだけはどうにか示せないものかと常々おもう。
 そうした「とくべつな場所」を作り、誘う技術は多様にあって、話法を駆使することで「だれかの意識」が強烈に埋め込まれ、わたしでしかありえない小説の外の現実世界では決して認識しえない物語や歴史への接続をおこなう言語技術が文学の世界ではながく検討されている。文体・語りというものが小説のなかで感覚器として機能することで、本を手にしたぼくらの世界をひと回りもふた回りも押し広げる。こうした言語技術には明確なかたちは存在しないがゆえの読みにくさがあり、一定の理解がなければ拡張された世界への扉は開かれない。そうおもえば、こうした拡張の手法は複雑な言語技術のみではないというのは、とても幸福なことなのかもしれない。扉は閉ざされたものがひとつあるだけじゃなくて、まわりをみればいくらでも開け放たれている。

 SFというジャンルの作品を、ぼくはこれまで多くを読んできてはいないのだけれど、これらの作品群は文学が生(なま)にちかいかたちの、抽象状態の言語表現で試みた認識世界の拡張を、その散文内で起こる具体的な現象として扱っているように感じられる。たとえばサイボーグをあつかった小説群では、ひとでありながらひとならざる身体機能の獲得などが重要なモチーフとして使用されており、多くの実作を経てその文脈がつくられてきた。文学において文体・語りという抽象性の高い技術が「身体性」と呼ばれる一方で、SFでは具体的な「身体」が創出される。両者の小説への接近方法に大きなちがいがあるように見られるけれど、「小説を読むわたし」のなかで生じる認知・想起・思考に類似したものを与える。サイボーグSFの特徴として、感覚器の増幅や性別の自由な交換など、生得的与えられたがゆえに不変であったはずのものをテクノロジーの領域へとひきずりこむことが挙げられる。これは人間を装飾するパーツが増えたこと以上に、不変→可変という移動により大きな想像力がもたらされる。この移動のさなかで、わたしがわたしであること、ひとがひとたるアイデンティティが揺らぐのだ。
 グレッグ・イーガンの最新短編集『ビット・プレイヤー』に収録された「七色覚」は、まさにそうした文脈上に配置されるサイボーグSFだとぼくは読んだ。この小説では、人工網膜の機能を増幅させるアプリを使って色彩感覚を拡張させる。それによって世界認識の変化が動的に記されている。知覚領域の拡大は世界をうつくしく彩ってくれるわけではなく、アプリを使いはじめた当初は主人公に多くの嫌悪感をもたらしている。イーガンの作品のなかでも現実世界にきわめて近いものに位置付けられるこの作品だ。使われている小道具もスマホのアプリであったりと、SF的想像力をつかって壮大な場所へと誘うのではなく、世界を知覚する身体をすこしだけ拡張し、現実世界でなにが起こってるのかを特殊な角度から注視するような態度をとっているようにおもえる。
 とりわけ現実との近さをかんじた箇所を以下に引用する。

五年前、ぼくがルーシーといっしよに暮らしはじめたとき、自分たちが逃れてきた平板なカートゥーン的世界に自分たちの子どもを追いやることは決してしない、とふたりで誓った。しかし、従兄のショーンはいまでもプロサーファーとしていろんな大会で優勝しているものの、ぼくたち〈七色覚〉の大半は、悪戦苦闘したり、挫折したり、世の中を恨んだりする結果に終わっていた。ともに成長してきた〈七色覚〉のうち、真に活躍している者を片手の指で数えられるというのに、同じ将来を自分の娘に贈ることがどうしてできるだろう?

 この小説の主人公は視力の遺伝的問題を抱えていて、それゆえに人工網膜を埋め込むことで人並みの視力を得ていた。そしてその人工網膜の機能を増幅させることで一般以上の色彩感覚を獲得した。素朴に「見える/見えない」という機能が視力的な問題ではない。むしろそれはテクノロジーによってどうとでもなってしまうけれど、世界をひとと違う眼で見ることの是非がかれらの前にあらわれる。視力的問題を遺伝により宿命づけられた娘に「社会的なマイノリティ性」をも継承させるべきなのだろうか。
 このような回路が開かれることで「この小説を読むことで構築される身体」が「ぼく」という一人称単数を軽々と超えていく。2010年代を象徴するような現代社会的問題に接続され、視力という一人称性的世界観を強く規定する感覚について、大勢の他人を当事者に変えてしまうくらいの重大さを孕んでいる。他人が見ていないものを見ているというわたしの現実が、見えていないものによって棄却されてしまう。みずからの眼だけを信頼して獲得できる一人称的世界とはそういところだ。みずからに一人称が存在する限りひとはだれでもマイノリティになれる。あるいは、簡単にマイノリティになれてしまう、ということもいえるかもしれない。
 Twitterを開くと、その深刻さをさまざまにする「マイノリティ」が声をあげているのを毎日見かける。個人が個人として社会と対峙できるようになったのは、それができなかった時期に比べてはるかに風通しがよく、健康的になっとおもう。しかしその反面、一部では「みずからのマイノリティ性を強引に見いだすことを処世術としている」ケースも時折みかける。ぼくはわからない。なにが正しいとかそういうもの以前に「わたしの世界」がそもそも存在してもよいのかを。それを外部に認められる必要があるのかを。そもそも「わたしの世界」など存在するのかを。
「七色覚」は特殊な知覚を持つことによる一般的なひとびととの差異が随所に散りばめられてはいるものの、マイノリティ文学のようなものに深くコミットするものではない、そこまでの意図はされていないとおもわれる。けれども「わたしが他人と違っていること」への思考だけでなく「わたしは他者と違うことを選べる」という思考への拡張がうながされているようだった。いまじぶんが見ている世界のどれだけをじぶんが進んで選んだのだろうかということを考えた。


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