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第164回芥川賞受賞予想をやってみた

作家であり芥川の研究者でもある澤西祐典さんと芥川賞の受賞予想イベントをしました。このイベントは3回目ですが、いろいろあるトークイベントのなかでも一番緊張します。ぶっちゃけやるまでは不安と憂鬱なんですけれど、しかし実際に意見交換をしてみるとおもしろい発見がたくさんあって、イベントが終わると晴れやかな気持ちになります。

先日、滝口悠生さんに「長い一日」の連載完結記念トークイベントに呼んでいただいたのですが、そのときにも「芥川賞はもうみんな競技性の高い賞レースだってわかっているんだから、それにのっかって楽しめばいいのにね」という話をしたのですが、これこそぼくが(澤西さんは知らないけど)このイベントをやる価値だと思っています。

※ゆるゆると銘打ちながら前半はまったくゆるくない

純文学ってジャンルとしてよくわからないし(ぼくとしては五大文芸誌+αに掲載されたものが純文学という認識)、たのしむにしても「読む技術」が求められたりする。だから、小説を作るにおいてどんな技術があってどう使われているかを、実作者が解説する機会があるといい。そういう技術的関心が広がれば「売れない」と皮肉(事実?)を言われがちな純文学作品ももっと売れるような気がします。
ぜひ皆さんも芥川賞の受賞予想にチャレンジしてみてください。

ということで、今回のぼくの予想のみ、ここにまとめておきたいと思います。

大滝の予想

×:宇佐見りん『推し、燃ゆ』(文藝 秋号)
×:尾崎世界観『母影』(新潮 12月号)
◎:木崎みつ子『コンジュジ』(すばる 11月号)
○:砂川文次『小隊』(文學界 9月号)
△:乗代雄介『旅する練習』(群像 12月号)
(予想)木崎みつ子『コンジュジ』の単独受賞

(総括)
今回は技術的な水準の高いテクニカルな小説が多く候補になった印象だった。全作品おもしろく読んだのだけど、あえて「×」を二作につけたのは、この二作の作者は力量を持て余しているように感じたから。かんたんに言えば、「もっと良い作品を確実に書けるので、今回じゃなくてそっちでとって欲しいな」という気持ちが強くあった。
今回いちばんに推すことにした木崎みつ子『コンジュジ』は正直なところ技術的には一番拙いと思ったけれど、もっとも物語に貪欲な愚直さがあって、その愚直さというのはたぶんこれから小説を書いていくなかで、こうした野蛮さを持った作品はもう出てこないような気がして、そういう説明のつかない魅力を推したいと思った。

宇佐見りん『推し、燃ゆ』

(あらすじ)
〈あたし〉はある日、「推し」であるアイドル・上野真幸がファンを殴って炎上したという報せを友人の成美からきく。〈あたし〉は4歳のころ、当時12歳だった真幸が演じていたピーターパンを人生の一番古い記憶として覚えていて、高校に入った頃から「推し」として彼のファンになり一年、「推し」の作品や人をまるごと解釈しようとする接し方を選び、その解釈をブログに綴っている。その「推し」が炎上、そしてSNSがその件で荒れたのをきっかけに〈あたし〉の生きづらさが表面化していく。

現代性が高く、SNSや「推し」の文化、生づらさというふたつの軸が作品を駆動させており、とりわけインターネットに慣れ親しんだ層への訴求力が高い作品におもえた。もっといえば、この小説は「推し」の小説のフリをしたまった違う小説で、真のメインテーマは「生きづらさ」にあると読めるだろう。また、主人公の通う学校が女子校であるとおぼしき記述、男性アイドルである推しや単身赴任中の「典型的なおじさん」である父親との距離から、女性コミュニティが舞台となっているとも読め、近年の純文学シーンの関心をあますところなく(かつ無理なく)扱っている点に高い技術を感じた。
気になる点として、主人公の〈あたし〉は推しである真幸を徹底的に「解釈」することを宣言しておきながら、途中それを放棄しているように感じられた点だった。これは終盤で語り手本人が「自白」するのだが、そうしたことによる自意識からの逃亡について読みかたはもちろん複数あるのだけど、ぼくとしては語り手の信頼性を損なうものに思えてしまい、技術は高いのだけど推しきれない印象を得た。

尾崎世界観『母影』

(あらすじ)
小学生である〈私〉が語り手となり、〈私〉とマッサージの仕事をしているお母さんの母子家庭、格差、そして私たちを取り巻く諸々との関係性を描いた作品。〈私〉はよくお母さんの職場のベッドで宿題をしていて、お母さんと〈私〉はカーテンで仕切られているという情景が象徴的に描写されている。幼い〈私〉はお母さんがカーテンの向こうで何をしているかは具体的にはわからず、しかしそれが何かしらのやましいことであるのはなんとなくわかっている。お母さんが行うマッサージは街でも噂になっていて、〈私〉は学校でも仲間外れにされているがそれが原因となってさらに周りから蔑まれたような扱いを受ける。大人の世界の変化がじわりと子どもの世界に染み出してくるように、小説は展開されていく。

小学生である〈私〉とお母さんのあいだにあるカーテンが非常に効果的に配置されており、今回の候補作でもっともウェルメイドかつクレバーな秀作だとかんじた。このカーテンはたとえば子ども社会と大人社会を隔てる薄い膜でもあり、大人側の狡猾さや悪意を濾しだすフィルターとしても作用している。濾しだされた悪意が子どもである〈私〉の意識や言語に作用し、悲壮感や幸福感といった感情が解体された不思議な感覚を誘うのだが、子どもである語り手のことばが作為的すぎるように読めてしまい、それがひっかかる。大人や社会のぼやけた悪意をかんじとった子どもの文章と読むか、それとも子どものふりをした大人の〈作者〉の文章なのか。このどちらに転ぶかで本作の評価は大きく割れるような気がした。

木崎みつ子『コンジュジ』

(あらすじ)
父子家庭に育った「せれな」がかつて活躍したイギリスのバンド・The Cupsのメインボーカルであり、すでに故人となっていたトーマス・リアン・ノートン(享年三十二)に二十年近く恋をする物語。せれなの父は職場を解雇され、妻(せれなの母)に逃げられ、二度の自殺未遂をおこし、ブラジル人のベラさんと事実婚状態になる。父は少しでもベラさんを楽にさせてやろうと格好をつけ、昼は大衆食堂で、夜は工場で働き、小学生だったせれなはいつも家でひとりで、居間でテレビを見ているときにリアンと出会う。家庭の崩壊や孤独な生活と並行して、リアンの伝記的物語、恋人としての彼との生活の妄想が彼女の人生のよすがとして語られる。

貪欲に目の前の物語を希求する物語小説として読み、今回いちばん強いインパクトを受けた作品だった。父による性虐待から逃れるようにリアンとの恋愛を妄想する行為にヴィクトール・フランクル「夜と霧」で言及されているような実存主義を感じ、せれなは自身の想像力によって過酷な現実を生き延びていく。
これは邪推でしかないのだけど、強力な希望と絶望を表裏一体に抱えながら最後まで物語を野生的に求めたこの作品は、もしかしたら職業として小説をやるのではないときにしか生まれ得ないものなんじゃないか?とおもい、そうしたエネルギーに溢れた本作で芥川賞を受賞して欲しい気持ちが個人的に強く、今回いちばんに推すことにした。

砂川文次『小隊』

(あらすじ)
ロシアとの戦争を間近に控えた日本。一般大卒幹部自衛官として自衛隊に所属する安達の生活が描かれている。安達は北海道にと部隊の小隊長として駐屯し、住民への避難勧告、同僚・上司とのやりとり、自衛隊生活の日常、入隊前の生活への懐古などが叙述されるなか、地雷の爆発と共に戦闘が本当に始まってしまう。過酷な自衛隊生活のリアリティや戦闘描写の生々しさが特徴的な作品。

自衛隊生活や自衛隊外の生活、そして起こってしまった戦争の描写など、徹底して五感を強く刺激するようなリアルな筆致が秀逸な作品。この作品のもっとも優れているとかんじた点はとりわけ後半、戦争がはじまってからの描写にリアリティが色濃くなるほど、認識としてのリアリティが薄くなるように感じられた点だった。目の前には凄惨な現実が絶対的に存在しているにもかかわらず、どこか他人事のような情景としてうつるこの作品は、たとえばいま現在、世界で猛威をふるう新型コロナウイルスによる危機感に似ている。こうした現在性を指摘する声が選考であがれば、全体として高い評価になるのではないかと予想した。
あと、砂川文次作品にはよく「三人称なのに一部分だけ謎に一人称(いわゆる移人称ともまたちがう手つき)」という文章が出てきて、これはたぶん意識的にやっているだろう気はするのだが、どういうつもりなのかが以前からわからず、ずっと気になっている。

乗代雄介『旅する練習』

(あらすじ)
中学受験を終えたサッカー少女の姪の亜美(アビ)と小説家の〈私〉の旅の回想録という形式で綴られた小説。亜美は前年の夏に鹿島に合宿へ行った際、そこで文庫本を1冊家に持って帰って来てしまった。それを返しにいく口実として鹿島アントラーズのホームゲームを二人で見に行こうと計画するのだが、そのさなか新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、状況は一変する。学校や所属するクラブの練習や大会も全て中止になったが、〈私〉は亜美に歩いて鹿島まで行こうと提案し、二人の旅が始まる。道中、〈私〉は訪れた地の風景や動物を描写をし、亜美はリフティングやドリブルの練習をしながら歩き、土地に根付く文学史(田山花袋、柳田國男)や、就職を控えた大学生・みどりさんとの出会いを経て、鹿島を目指す。

乗代雄介の作家性が強く、かつクリアに現れた作品で、過去作にくらべて語り手の文章観が読者にわかりやすく提示されているとおもった。引用される文章も素晴らしく、また、風景やそこに潜む歴史、過去の文学、個人の記憶などへも意識はのびのびと広がり、途中まではまちがいなく受賞するのではないかとおもって読み進めた。
しかし、これもまた他の乗代作品でも見られる問題なのだけど、描写の瞬間にあるよろこびと、物語としての扇状的なカタルシスの関係性についてやはり疑問が残った。とりわけ本作は、語り手は物語がすべて終わった未来からこの文章を書いているのであり、物語的カタルシスというのは語り手の裁量で決まる問題だ。そして語り手自身はそのカタルシスに抗おうとするのだが、最終的にそれを選んだ小説の結びかたをしているのは、語り手自信が(みずからの)文学がカタルシスに敗北したことを認めているのではないか?そう読んでしまうと、乗代雄介の作品を徹底的に信じたいぼくとしては推すのがむずかしくなってしまった。

ついでのおしらせ

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