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苦しむ人間の胸中にこそ「魂」が宿る

北欧流自然主義文学の代表作

親元を離れてから病気に罹ることほど心細いものはない。そう強く思ったのは、東京に出てきて間もなくして、新型コロナに罹った時だった。検査で陽性が出た当日ぐらいは「意外とこの程度か」と高を括っていたが、その翌々日には39度近くの熱と、そして凄まじい喉の痛みが襲ってきた。

地元の大阪を離れ、一人で迎えた病床は、何ともまあ苦しいものだった。私の場合、熱が出てから病院を探そうとしたせいもあり、熱と喉の痛みでまともに会話ができず、本当に苦労した。息も絶え絶えに、何件か目の電話でようやくコロナ指定の病院を引き当て、処方箋を自宅まで届けてもらった結果、なんとか約1週間で寛解に至った。

人の苦しみは、究極的には誰も理解することはできない。私の痛みや病を、誰も代わりに引き受けることはできないからだ。そうした意味では、どんな些細なものであれ、病とは分割できない(=individual)体験、言い換えれば人間が最も孤独と向き合わざるを得なくさせるものであると言えるだろう。今回紹介するフィンランドの作家、フランス・エミール・シッランパーの『若く逝きしもの』(1931)という作品は、まさにそうした病の苦しみと孤独をめぐる作品である。

著者:フランス・エーミル・シッランパー 訳者:阿部知二|四六版 仮フランス装 392頁
定価 2,200円(税込)みずいろブックス 編集・発行

本作はまず、シリヤ・サルメルスが22歳の若さで病死するシーンから始まる。既に不穏な始まりだが、彼女の死が一体なぜ起こったのかについて、シリヤの父であるクスタア・サルメルスの代から読み解いていくストーリーとなっている。とはいえ本作はミステリーの類ではなく、上述した通り病と孤独をめぐる一種の運命劇と言える作品であり、シッランパーの見事な自然描写に導かれるように数多くの人間が死んでいく。

苦しむ人間の胸中にこそ「魂」が宿る
フィンランドで唯一のノーベル文学賞受賞作家である彼は、北欧流の自然主義文学を体現した人物であり、人間と自然の連続性を強く意識した描写を得意としている。そして「病」もまた連続性が強く意識されたモティーフである。流行病に罹ったり、あるいは人間が死ぬことすらもあくまで自然な事の運びであり、そこで苦しむ人間の胸中にこそ「魂」が宿る……というような主張がシッランパーの記述からは感じられる。

事実、物語中でシリヤは3度大きな病気に罹るのだが、そのいずれの描写にも「魂」という語が現れる。最初はサルメルス家が農場を追われ、そして母のヒルマも病死した後。次に、父のクスタアもまた病死し、そのまま流れ着いたラントオの地で女中として働く最中知り合った、最愛の人物となるアルマスと別れてしまった後。そして最後に、ラントオの地すらも追われてから向かったキエリッカの農場で、フィンランド内戦に巻き込まれる形で起きたアルマスの死や、同地で仲良くなったテリニエミの自死を経験した後、つまり何もかもを失った後に罹患した。

「人は窮地に陥ったときにその本性が出る」というような言葉があるが、病床で魂の遍歴を辿るシリヤは、その境遇を呪ったり、ましてや人を恨んだりするようなことがない。とはいえ、シリヤは単に病気がちな薄幸の美少女……といったような存在ではなく、むしろ元気良く野を駆け回ったり、時には命を賭してまで人を愛す姿勢を貫いたりするような情熱的な人間だ。そんなサルメルス一族の人間ドラマを味わって欲しい。

                   山下泰春(やました やすはる)


フランス・エーミル・シッランパー(Frans Eemil Sillanpää、1888年 - 1964年)フィンランドの作家。貧しい出自ながらもヘルシンキ大学で生物学、植物学を5年間学んだ。卒業こそ果たさなかったものの、この頃得た知識が彼の作風を形作った。1916年に『人生と太陽』(未邦訳)で作家デビュー。1919年に『聖貧』が出世作となり、1931年の『若く逝きしもの』で国際的な名声を高め、1939年にノーベル文学賞を受賞した。


山下泰春:1992年生まれ。 編集者・翻訳者。 大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。 元々の専門は戦後ドイツ思想だが、 現在はイプセン以後のノルウェー文学を独自に研究している。
主要論文に「戦争にとって言語とはなにか― ツェラン、エーヴェルラン、ザガエフスキー」(『アレ』Vol. 12,2022)、翻訳論文に「 ノルウェーにおける自由主義の歴史」(オイスタイン・ ソーレンセン,大谷崇・山下泰春共訳『人文×社会』第8号,2022)など。

編集部より
「北欧文学散歩+北緯55度以北を読む」、いかがでしたか。今後、不定期ではございますが、北欧文学に詳しい山下泰春さんにあまり日本では知られていない北欧の作家や作品の紹介をして頂きます。北欧文学が日本社会でより身近になることを願って。


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