【神奈川のこと34】with コロナ(横浜市中区/根岸不動下)

世はコロナ禍。よってこれを書く。

物心ついた頃、家の車はトヨタのコロナだった。

グリーンのボディに2ドア、オートマチック。なかなかイカしていた。

そのコロナに乗って、色んな所に行ったな~。

まず、毎週日曜は山手教会から元町でしょ。それから、野毛山動物園にもよく行った。園内にはね、クジャクが放し飼いにされてて、時折あの鮮やかな羽を開いてるんだ。爬虫類館では、ワニがいつも口を開いたまま固まっていて、まるではく製みたいだったな~。

あと、お袋の実家の浅間下もよく行った。根岸の自宅から行くと、必ず日ノ出町を通るんだけどね、そこにはピンク映画の大きな看板があった。見て見ぬふりの逆、これは何て言うんだろう、見ないふりでよく見ていたよ。その目と鼻の先に野毛山動物園があったりして、まったく当時の横浜は魅惑のワンダーランドだったな。

本牧市民公園もよく行ったんだよ。そこで、補助なしの自転車を練習したんだ。あちこち怪我しながらね。その手前、間門の交差点には日赤病院もあってね、弟はそこで生まれたんだけど。本牧の通称「三渓園」のいとこ、美奈ちゃん家もよく行ったし、羽沢町の通称「お山」のいとこ、えこたん家も行った。あの辺りは当時道路が舗装されていなくて、ギッタンバッコン揺られたよ。あと、杉田にある瑛子おばちゃん家、その先にあるいとこのおさむちゃん家も行った。杉田の急傾斜の坂を上る時は、迫力があったな~。

サングラスをかけた親父がシガーソケットを左指で押し込んでね、しばらくするとパチッと音がしてさ、それで愛飲していたミスタースリムに火をつける。天気の良い日には、窓を開けて、音楽に合わせて、ドアを指で叩きながらリズムを取るんだ。そりゃあカッコ良かったぜ。そうそう、音楽はね、いつもだいたい、ポール・アンカ、ニール・セダカ、そしてハリー・ベラフォンテなんかのオールディーズがかかってた。でも俺にとって当時、車の中で聴くベストミュージックは、グレン・キャンベル「カミング・ホーム」さ。当時、コカ・コーラのTVCMに使われてたんだ。

たまにさ、出張帰りの親父を羽田空港に迎えに行く時は、往きの首都高横羽線をお袋が時速60kmぐらいしか出さないのよ。たくさんの車に抜かされるもんだから俺いじけちゃってさ、「もっと速く走って」なんて言ってお袋を困らせたっけ。その分、帰りは親父が運転するから、ビュンビュン飛ばしてくれてさ。「パパ、100キロ出てる!」と得意になって喜んだよ。それにしても夜の横羽線は京浜工業地帯がおどろおどろしくてさ、実に怖かったね。まあ、弟はいつも寝てたけどね。あいつはすぐに眠れるんだ。実に気持ち良さそうに。俺はガキの時分からちょっと神経質だったから、車の中で眠った記憶がないのさ。

冬の朝に、フロントガラスが凍っちゃってね、お袋が、やかんにお湯沸かして駐車場で溶かしているのを車内から見てた。みるみる解ける氷が面白かったぜ。あっ、裏のカクエーマンションの坂道で転んで、右手首を骨折した時は、お袋が慌てて本牧外科に連れて行ってくれたっけ。あれは痛かったな~。車の中でずっと泣いてたな~。

そうそう、ガソリンスタンド洗車!あれさ、車から降りないで乗ったまんま入るのが、怖くて楽しいんだよね~。そんな時は弟もさすがに起きてたと思うよ。

家探しに行った時には、鎌倉のハイランドの住宅地の中を、親父がハンドルを抱えるように持って、身を乗り出して家々を物色しながらゆっくり走ったな。あれは a little bit 退屈な時間だった。弟はきっと寝ていただろう。

昭和53年(1978年)、西鎌倉に引っ越してから割とすぐにコロナに替わって、日産プリンスのブルーのスカイラインが我が家にやってきた。

with コロナという言葉に触れる時、グリーンのボディに2ドア、オートマチックのトヨタコロナを思い出す。たくさんの思い出の詰まったあの車を。そう、根岸不動下の信号を待っている時、グレン・キャンベルの「カミング・ホーム」が流れているのさ。





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