【神奈川のこと45】「いいクラスを作りなさい」とは何事ぞ(鎌倉市/手広中学校)

入学式の季節なので、これを書く。

入学式というのはあまり覚えていないもんだ。

高校や大学の入学式の記憶は、遠く彼方に消え失せた。

昭和51年(1976年)9月、センジョ(セント・ジョセフ・インターナショナルスクール)に入学した日は、同校の卒業生である父に連れられて教室に入ると、自分の机に筆記体で "William Kobayashi" と記されていた。そんなことをうっすらと覚えている。

ただ、そんな不確かな記憶ばかりの入学式の中で、中学校の入学式、あの一日だけはよく覚えている。

昭和58年(1983年)4月。新しく開校した鎌倉市立手広中学校の新一年生として入学した。学校初の一年生、まさしく、ピッカピカの一年生だ。

出来立てほやほやの真っ白な校舎に体育館。ピロティと呼ばれる場所もあった。

入学式の日、六地蔵近くのyawataで買った新品のブレザーに、真っ白なミズノのシューズを履いて登校した。

期待に胸を膨らませてというのは、こういうことだろう。

そして、ピカピカの体育館で入学式が始まった。

もちろん、校歌はまだ無い。ちなみに卒業するまで校歌は無かった。

1年4組だった。

各担任が紹介される。

ドキドキしながら待つ。

紹介された担任は、色の濃い眼鏡をかけた、若いでもなく年老いているでもない男の先生。笑顔もなく、きちんとあいさつするわけでもなく、何となく不安な感じの印象。

入学式が終わり教室に入る。皆、西鎌倉小学校から一緒なので、ワイワイガヤガヤしていたが、一様に担任に対する不安な気持ちを持っていた。

間もなく、担任が入ってきた。

シーンと静まり返る教室。

皆、固唾をのんで担任の行動を見ていた。

優しい女の先生でもなければ、生真面目な男の先生でもない。ましてや熱血タイプの体育教師でもなければ、定年間近の、戦争を体験したような老練な先生でもない。

この新しいタイプの教師像に、戸惑う。

そして、一言。

「まあ、いいクラス作りなさい」

とそれだけを言って、入学式の日は終わった。

「いいクラスを作りなさい」って!

何と無責任な言い様だと思った。

いいクラスにするのは、生徒ではなく、教師のあなたの仕事でしょう。

そう思った。

膨らんだ期待は、しぼんだ。

その後も、担任の発言には、理解不能なものが多かった。

「学校は生徒のものであって、教師のものではない。だから、主体性を持ちなさい」

「クラスが乾いている。もっと湿った関係を作りなさい」

一体全体、この先生は何を言っているのだろうか。

真面目にやりなさいとか、規律を守りなさいとか、服装をちゃんとしなさいとか、そう言った類のことは一切言わなかった。

ある時、学校で「生徒の意見発表会」という催しが行われることが決まった。

生徒達から、大ブーイングの企画であった。

「え~っ、ふざけんなよ~」

「もう、何のためにやるんだよ~」

と言った意見が出た。

担任の提案で、一度、クラスのみんなで話し合おうということになった。

なぜ、この企画に反対なのか。

いくつかの意見が出た。

「恥ずかしいから」という意見に担任は賛同した。

ただ、「言う意見がないから」という意見には、「待った」をかけた。

「恥ずかしい。これは分かる。素直なみんなの気持ちだろう。でもこの、言う意見がないということについては、本当にそうなのかと思うぞ。みんな本当に意見は無いのか?仮に無かったとしたら、本当にそれでいいのか?」

結果的に、全校の意見発表会は開催されることとなった。

先ず、クラスの代表を決めるために、一人ずつが発表する。

担任は、どんな意見にでも「うん、うん」とうなずきながら耳を傾けた。

大した内容でなくても「うん、簡潔にまとめた!」と言って拍手をした。

「簡潔」という言葉はこの時覚えた。

その結果、ウチのクラスからは、警察官の息子、ごーちんが選出された。「妹が生まれて」というような内容だったと記憶している。


「学校は生徒が主体であって、教師が主体ではない。生徒の自主性によって運営されるべきである。だから、皆がもっと自主性を持ちなさい」

「クラスとしてもっとまとまりなさい。協力しあう関係を作って、一致団結しなさい」

「自由が一番難しい、でも、自由でありなさい」

この理解不能な訴えかけは、その後も続いた。

だが徐々に「理解したい」と考えるようになった。

何か深い問いかけをしているように思えてきた。

当時、心のどこかで「早く大人になりたい」と考えていた。

その担任が訴えていることは、大人になるために、必要な考えのような気がしてきた。「早く大人になれ」と言っていると受け止めた。

自分の心にスイッチが入ってきた。

この担任ともっと話がしたい、話を聞いてみたい。

セブンスターをくゆらせ、ホンダのシティに乗り、時にギターを弾きながら、生徒の主体性を訴えかける担任。

手広中学校での最初の一年間は、そんな心の変化が端緒を開いた時期だった。

その後、私の人生にとって、掛け替えのない貴重な財産を残して下さった恩師の中の恩師。

川端 保朗先生。

この続きはいつかまた書く。

真っ白だったあのミズノのシューズも、心の変化と共にくすんだ色となっていた。



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