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感受性1000の娘と1の両親の帰結_2/230608

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情緒が無い両親なので恋愛経験もなく、文化的な側面も皆無。
映画、ドラマ、音楽、昭和に流行ったものを何一つ知らない。
だってそこ、情緒しかねぇし…と今は思う。
そりゃ興味ないよね、と。

私が文化的なものを渇望レベルで追い求めたのは、そこなのかもしれないと思っている。
本能的に足らなかったのだろう。
だって情緒1の両親に対して娘は1000。

そしてそれを摂取しすぎてカンストしたらしく、20年前から映画を、5年前からテレビを見なくなった。

親友に「もう親も歳なんだからそこまで言ってやるなよ」と言われることもある。
ここまで読んでそう思う人も多いだろう。

私は両親を許しているしとても好きだ。
だけど、一方で両親が意識無意識関係なく怠ったことも沢山ある。
好きだけど、両親のせいで私は本当に大変だったのだ。

ああいった無理解の言葉で私は深く深く傷つき、宗教を信じるが故に私を蔑ろにした両親によって、今も私は愛着障害という置き土産に苦しんでいる。
その部分は消せないのだ。

だけど、好きだ。
感情は一元的ではない。
好きなところもあれば許せないところもある。
無理に100%許す必要もないし、100%憎む必要は無い。

それは友達でも恋人でも同じだ。

ここは許す、ここは許さない、それでいいじゃないかと思うのだ。
お金を惜しまず与えてくれたこと、その一点で私は両親に感謝し好きになれている。
それでいいのだ。

それに情緒1の両親からすると娘である私が1000であることに手を焼いていたのも今はわかる。
1+1=2が自然の摂理だ。
そこに環境要因などが合わさって子供は1にも3にもなる。

なのに、1000の娘が生まれたのだ。

子供の頃から突飛な行動、発言に困ってもいたようだけど、40歳ともなると「まぁおかーさんにはわからんけど、あんたのことならうまいことやるんやろな」と言うようになった。

母親としては高校の英語科に進んだ私を創価大学の英文科に入れることを夢見たらしい。
短大でもいいから英文科、と。
知らなかったけど。

それもそのはず、進路の話を両親と人生の中でしたことがないのだから当たり前だ。
どうやら勝手に進学するものだと思っていたらしいので私もびっくりだ。

私もびっくりだし、どんなに「親と不仲」と言う人もみんな進路相談みたいな会話をしてきていることに何よりびっくりした。
「ふつーにちゃんと会話しとるやんけ」とも思った。
もちろん問題はそこだけじゃないのもわかっている。

創価大学の英文科を夢見る母親に、高3の終わりに突然「美大行く」と娘が言い出したらそりゃびっくりする。
すまんな。

そして誰もが無理だと思っていたのに本当に入ってしまった。

私の人生はそんなことの繰り返しだ。
誰にも相談しないのも本気で自分で人生を決めてきたのでどうやって相談するのかも、相談する必要もわからなかったのだ。
今住んでいる実家を買うように言ったのも私だ。

今は少し人には相談できるようになったけれど、否定も肯定もなく「なんで人って相談すんの?」とずっと思っていた。

つづく

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