世界史 その31 エジプト新王国末期

 子どもたちに歴史の知識を伝える助けになれば、と思って始めた世界史シリーズですが、気づけば中断期間が1年半にもなっていました。直接的には「海の民」について良い資料に巡り合えなかったのが原因ですが、世界史シリーズ自体も途中から完全に自分のお勉強ノートになってしまっていましたし、また高校世界史レベルでざっと世界史を説明してから各論へという最初の構想もどこかへ行ってしまって、ついつい細かいテーマに立ち入りたがる性格のせいで各章がどんどん細かくなっていっているという悩みもありました。文体も二転三転してますし、長期間の中断を機に最初からやり直したい誘惑が・・・。
 気を取り直して、シリーズ再開といきましょう。

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 ヒクソスが政権を打ち立てる第2中間期よりかなり前から、エジプトにはアジアや他の地域からの移民で、少なくとも人種的には(彼らがアイデンティティの面で、自分たちをエジプト人と考えていたのか、出身集団の一員のままだと考えていたのかはまた別の話)かなり多様化していたということは、第2中間期の記事で少しだけ触れました。この傾向は新王国時代にはさらに進み、多くの人々がエジプトの富と安定を求めてやって来ます。メンフィスをはじめ、サイス、ペル=ラムセス、ヘリオポリス、テーベといった都市は人口が膨れ上がり、各種の専門的な労働力をエジプトにもたらしました。文字資料にはギリシア、バビロニア、クシュの出身者とみられる名前が多くあります。そしてエジプトの富を求めてやってくるのは、このような平和的な移住者ばかりではありませんでした。
 こんな中、ラムセス2世(在位前1290~24年頃)の長い長い治世の後を受けて、第13王子メルエンプタハ(在位前1224~04年頃)が王位につきます。彼はエジプトの外からの新たな脅威への対応に追われることとなります。
 メルエンプタハ治世5年にカナンに遠征したことを記録する石碑に、初めて「イスラエル」の名前が登場します。同じ年の後半リビアの首長メリウイの率いるリビア諸部族と「海の民」の連合軍がデルタ西部に侵入、エジプト軍はペルイレルでの会戦でこれを破り、戦死者6000以上、捕虜9000以上の大被害を与えました。リビア人は以前からエジプトに侵入を試みたり平和的な移住を果たしたりしていましたが、ここに新たに「海の民」と呼ばれる人々が加わったのです。「海の民」は単一の民族集団ではなく、紀元前12世紀の前半に東地中海で起こった民族移動によってエジプトやヒッタイトなどその時代の事情が比較的良く知られている地域に現れた多数の民族の総称で、近代になってから名付けられたものです。エジプトの当時の資料には数多くの民族のリストとして表れます。

 メルエンプタハの後、4人の王が次々交代した後、セトナクト王が即位し第20王朝(前1186~1070年頃)が始まります。宰相やヌビア総督が留任したことがわかっているので、王朝の交代は大きな混乱を伴うものではなかったと考えられています。
 このセトナクト王も2年の治世で終わり、ラムセス3世(在位前1184~53年頃)が即位。治世5年にリビア人が侵入しこれを撃退。治世8年には「海の民」が来寇。「海の民」はメルエンプタハの時代とは別の民族が中心となって、アジアから侵入しました。エジプトの記録では彼らはヒッタイトを滅ぼし、アルザワ(小アジア西部)、アラシア(キプロス)、カルケミシュ(北シリア)など地方を荒らしながら妻子を伴って陸路でエジプトに侵入、また海路からも押し寄せてきたとされています。治世11年には再びリビア人が、こちらも妻子を伴って来寇。ラムセス3世はこれらに勝利することはできたものの、一部には傭兵として植民することを許したようです。この3回の戦争の後はエジプトは平和であったと記録されていますが、この3回の戦争は全て防衛戦争で外征を行う余力はもはやエジプトにはなかったのかもしれません。
 ラムセス3世の治世末期には王家の谷で王族の墓所を造営する労働者たちが史上初のストライキを行い、またラムセスに対する暗殺未遂事件が発生するなど、王権に衰えが見えるようになっていきます。

 ラムセス3世の後、第20王朝の終焉までの80年強の間にラムセスの名を持つ王が8人即位します。第20王朝は初代のセトナクト王以外ラムセスを名乗ったため、ラムセス王朝とも呼ばれるそうです。
 最後の王ラムセス11世(在位前1099~70年頃)の治世11年、ヌビア総督パネヘシがテーベを占領しアメン神官団の大神官アメンヘテプを退任させるという事件が起きます。パネヘシは7年あまりにわたりテーベを占領していましたが、ラムセスの治世19年に神官団の巻き返しにあって追放されました。新しい大神官ヘリホルは南エジプト全体を掌握し、一時は王を名乗るほどになりました。その後は王権を認めながら、南エジプトを事実上の神権国家としていく方向にシフトしたようです。追放されたパネヘシも本来の任地であるヌビアで事実上の独立国を築き、王の支配地域はエジプト北部に限られるようになりました。
 ラムセス11世の死後、下エジプトの摂政スメンデスは自分の任地であるタニスへ遷都し第21王朝を開きました。こうしてエジプト新王国による統一は失われ、エジプトは第3中間期に入っていきます。

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 元々、ヒッタイトが終わったら、ヒッタイト滅亡くらいまでのエジプトとギリシャの歴史を纏めて、最後に「海の民」の記事でこの3地域を一つに結び付けてしまおうと目論んでいたわけです。ところが調べてみると「海の民」についての資料が少なくて、更には「海の民」の影響は過大評価されているとか、ヒッタイトが滅んだのは「海の民」のせいじゃないとか、そういう意見もたくさん見えてきてしまいまして。というわけで一年半もの中断となってしまいました。
 この間に歴史系のフォロアーさんがあまり活動されなくなってしまったり、新しいフォロアーさんは生物、古生物系の方が多かったりで、色々心配な点はありますが、こちらも続きを書いていけたらなと思っています。

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