人生の金継ぎ
東京オリンピックの閉会式で日本国旗を運んだ6名の中に、海音さんという方がいました。
5歳からモデルをしていましたが、難病にかかり、中学1年生の夏に右足の膝下の切断手術をして、モデルの夢をあきらめたそうです。
当初は義足を隠し、なるべく人に気付かれないようにしていたのですが、高3の時にパラスポーツ選手を撮影する写真家と出会い、熱心にアプローチされたことにより、再びモデルとなって、写真集やファッションショーに参加しています。
「義足は恥ずかしいものではなくキラキラした存在になれたら嬉しい」と思うようになり、義足を個性として捉えたのです。
そこに至るまで、かなり悩まれたことと思い、その勇気に感動しました。
海音さんの将来に、本人には見えない希望を見た写真家の方がいたのは、素晴らしいことです。
「義足は恥ずかしいものではなくキラキラした存在」という言葉で、日本の伝統工芸である金継ぎを思い出しました。
欠けたり割れたりした陶磁器を漆で接着し、金や銀などの粉で装飾する技法です。
元の状態に戻すわけではなく、傷の跡をそのまま活かして、新しい美しさを生み出し、味わい深いものに仕上げることができます。
優れた職人の手によるものは、傷が付く前の状態よりも価値が出るほどです。
傷ができても捨てることなく、それを個性に変え、よりよい器を作り上げていく・・まるで神が私たちにしてくださることのようです。
聖書は、神を陶器師に、私たちを粘土、また粘土から作られた作品にたとえています。
陶器師である神は、私たちそれぞれを、特別の役割をもった、個性的で特別な器として造られました。
でも、私たちは、生きているだけで傷ができます。
悩み、苦しみ、失敗、試練などによって、心が欠けたり割れたりするのです。
もう自分は何の役にも立たないと、あきらめたくなる時もあります。
でも、神はあきらめません。
神が愛してやまない作品である私たちを、見捨てたりはしないのです。
神は、ただの粘土を美しい器に作り上げる陶器師であるとともに、割れた器を修復する金継ぎ師でもあります。
傷んだ部分を、深い愛と慰めによって修復し、前よりもさらに価値あるものにしてくださいます。
修復された後でも、私たちは基本的に同じ自分ですが、試練や失敗を経験し、悲しみを味わうごとに、前よりも深い味わいと魅力が加わった、より価値のある器に生まれ変わることができます。
私たちがすべきなのは、欠けた部分を正直に神に見せ、修復していただくこと、それだけです。
自分の状態にあきらめそうになり、希望を失った時でも、神はあなたの将来に希望を見ておられることを覚えていましょう。
【今回引用された聖句は、新改訳2017からのものです。】