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大海を日々、休みなく

私が起き出す頃には母はすでに着替えてコーヒーを入れていて、脇には洗われた洗濯物がカゴに収まっている。身だしなみも整えて、何年も続いてきている日々のルーティンをこなしている。

もう40年以上前に立てられた我が家の、いつもの整ったキッチンに立ち、フルーツを切りながら、足にまとわりつく飼い犬に話しかける。「ああ、ごはんの時間やねー、ちょっと待ってなー」
家が立った40年前は私はまだ3歳頃で何もかもが新しく、眩しく見えた。その頃から毎日綺麗に、丁寧に手入れをされているキッチンは古いはずなのに清潔で、時を経ても白く保たれている。

キッチンのカレンダーには家族の予定が書き込まれ、習い事の太極拳の時間から、飼い犬のワクチン接種の予定までが連なり、白いキッチンとは対照的に雑多だ。

いそいそと手に小さなお椀を持って庭先へ早足で駆ける母の足元に絡みつくように飼い犬が伴走する、犬のごはんの時間だ。さっきまでフルーツを切っていたはずなのに、テーブルにはもう、綺麗な三日月のようなオレンジが北欧アンティークの皿に盛られて置いてある。

コーヒーを飲み、トーストをかじり、庭の方を眺め、新聞に目を通す。春の日差しに誘われるように庭へ降りると朝の空気が冷たく残る木陰と眩しい光の心地よい温かさが混じる。

頭上でギシギシとビニール板が足音で擦れる音がして見上げると、母が上階のベランダで洗濯物を干し終えてハンガーを整えながら行ったり来たりしていた。
さっきまで犬のごはんをやりに行っていたはずなのに、テレポーテーションでもしたのだろうか。

簡潔に、清潔に整えられているリビングのカウチに座りながら庭先を眺める。そういえば、日中母がリビングで横になっているだとか、このカウチでだらっとテレビを見ているなどという姿はこれまで一度も見たことがない。私にとっての母は、いつも何かしていて、生き急いでいるように見える。疲れないのだろうか。今日はパジャマで一日ごろんと過ごしたい、なんて思わないのだろうか。

「そんなん嫌やわ。止まった方が疲れるやん。やることないなんてないしな。」言いながらも今度は朝ご飯の片付けをしている。見事に毎日多くのことをこなし、いつも動いている。落ち着いているなと感じるのは、朝ごはんを片付け終わってキッチンをまた元通りに清潔な状態に戻して椅子に腰掛け、「買いものリスト」を書き始め、「今日は夜、何しよ?」と考えている時間くらいだ。

「だからな、私は例え今日死んでも後悔ないねん。毎日納得して終わってる。」

誰かが言った、「毎日が全人生」という言葉がよぎる。

「椿の花みたいな、な。パッと咲いてぼとんと落ちるの、ええな。」

楽観的に笑うそんな彼女の「日常」を、いつも感心しながら見ている。時間を持て余してはソファに横になり、時間潰しの動画を見て、気づいたら寝落ちしている自分のだらしなさと比較してしまいながらも、いつか私もこの地点に辿り着けるだろうか、本当はたどり着けたらいいな、なんて思っている。

そんな、帰省、2022春。


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