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Vol.6 伝統文化を継承することの現実~ヘラヴェダガマおぼえがき その3~

ヘラヴェダガマ継承者としての指名を天啓のように受け入れて生きていくことの意味について想いをはせた前回。今回は、「消えゆくものをどう受け止めるのか」へと、話が広がります。

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たま: 取材していて、ヘラヴェダガマの先生たちの運命との向き合い方というか、生きざまに感動する一方で、起こることのすべてを運命として受け入れてしまうことが、奮起する力や変革・革新の原動力を奪うことにならないか?とも思ったの。それが、ヘラヴェダガマがいま消えつつあることにつながっているのでは?と。

ただ、彼らが生き残りたいと思っているかどうかもわからないんだけどね。それが宇宙の流れなら、受け入れますよってことだと思うから。

さき: 文化として俯瞰して見ると、ヘラヴェダガマって、まさに消えつつあるものなんだよね。もはや多くのスリランカ人が、ヘラヴェダガマにそれほど愛着をもっていないようにも見えるし…。

スリランカの消えゆく文化のひとつに伝承舞踊があって。やはり世襲制で、その踊りをやっている家に生まれた者が引き継いでいくものなの。

知り合いのスリランカ人がまさにその担い手なんだけど、彼が「自分たちの踊りは元来ダンス教室で教えてもらえるものじゃないし、誰もができるものでもない。そういうものだからこそ、自分の代がもう最後で、今後は永久に絶えてしまうかもしれない」と言っていたんだよね。

イギリスのデイリーミラー誌が彼らを取材にやってきたそうで、その記事にも、「伝承舞踊の家に生まれても、子供たちは踊りでは食べていけないから、就職して別の仕事で自活していきたいと言っている」という記述があって。

お金とか、街での暮らしとか、そういう魅力に、伝承舞踊やヘラヴェダガマが太刀打ちできなくなってきている現実があるみたい。

たま: だからって、私たちが「もったいない」とか「これは素晴らしいものだから、引き継いだ方がいいよ」とか、そんな無責任なこと言えないよね。まったく違う場所から、高みの見物のように。

さき: そうなんだよね。勝手に「私たちが失ってしまったものがまだそこにある」「いまこそ大切にしていかなきゃ」とか思ったりね。そういうのも実に、失礼極まりない話だよね。

自分は忘れてしまったものを、誰かにバッファのようにもっていてもらって、気が向いた時に都合よくそれを見て思い出したい、というのは、非常に傲慢だなと私も思ってた。

たま: 思い出したところで、薄っぺらい感激だったりするのにね。あ、わたしのことね(笑)

さき: 伝承舞踊の人たちも、自信を失っているんだよね。いいものを見せても、わかる人がいない。同じようなものをちょっとだけ習って披露している人との違いを、観る側は感じない。

たま: 踊りを見る人の大半は、祭りやツアーのアトラクションとして観る観光客だろうしね。

さき: そう。これじゃあ、やってても意味がないんじゃないの?っていうような、諦めや虚しさも、事実あるんだよね。

たま: 文化ってパフォーマーだけで成り立ってないもんね。伝統的なものほど、観る側の力量や教養が問われる。

さき: だから、彼らが無力感を感じてしまうこともわかるの。そういう意味では、アーユルヴェーダは、伝統的なものの中では、制度化されて、政府の支援も受けて、生き残ってきた強者だと思うんだよね。

ただ、ヘラヴェダガマの人たちが、アーユルヴェーダと同じようにシステム化して、権威に保護されてたいとは思っていない気がする。
アーユルヴェーダに転向することもできるのに、それを拒んでヘラヴェダガマであり続けようしている人たちだけに。
(つづく)

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次回も引き続き「継承」について考えます。また、固定概念への気づきについてのおしゃべりも。

photo: Satoshi Osaki

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