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Vol.5 「自分の定めを生きる」人たち~ヘラヴェダガマおぼえがき その2~

現代の日本人の感覚とは大きく異なる世界観で生きている、伝承医療ヘラヴェダガマに携わる人々についての語らい、その2。(その1はこちら

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さき: ヘラヴェダガマの現場って、「人が治るってこういうことなんだな」というのが、すごくよくわかる場だと思う。

先生に触れてもらうことで安心する患者さんの感じや、先生の目を見た瞬間に心がゆるんでいく感じ、温かく包んでもらう感じが伝わってきて、そういったことも、先生を訪ねる理由の一つなんだなって思う。

診断してもらうこと以上に「この人に会いたい」というような、人と人の間で起こる良きものの現場という感じがするんだよね。

たま: この間さきちゃんが、医療という字には「癒やし」の意味が入っているって言っていたけど、ヘラヴェダガマは癒やしそのものだよね。

さき: 陳腐な言葉を使うと、ヘラヴェダガマって、医学という知識ベースのツールを提供するだけでなく、その人のもっているヴァイブレーションも含めて受け止めているんだと思う。ヘラヴェダガマの人たちは、言語化されていないけど、必ずそこにあるものに注目し続けていて、さらにそれが、自らの文化であり、常識であり、血肉になっている。すごいよね。

たま: うん。もう一つ、ヘラヴェダガマでインパクトがあったのが、運命を受け入れているということなんだよね。ヘラヴェダガマの先生たちって、医師になるという運命を、子供の頃から受け入れてる。

ヘラヴェダガマの家に生まれても、全員が医師の仕事を継ぐわけじゃなくて、「お前がヘラヴェダガマを継ぐ者だ」って、1人が選ばれるんだよね。

子供が4人いたとして、10代前半で1人が後継者として選ばれて、その子と父親のふたりでの修行の日々がはじまったら(※師や後継者が女性の場合もある)、選ばれた子は、他の3人が遊んでるあいだも、植物を摘みに行ったり薬をつくったり、診察に付き添ったりするわけでしょ?
他の子供たちが「将来〇〇になる!」って自由に未来を夢みてる隣で、修行にあけくれるんだよね。その、受け入れ方がすごいなと思って。

いまわたしがいる「夢をつかみとる!」とか「なりたい自分になる!」っていう世界とは別の、「自分の定めを生きる」という世界観で生きている人たち。そして、その生き方は、スリランカの中でもいまや特殊なんだよね。

さき: 事故や大病をきっかけに、天啓としてそれを受けとる人もいるじゃない?自分の意思とは関係のない、もっと大きな使命を。
ヘラヴェダガマの先生たちも、たとえそれが父親から言われた言葉であっても、天啓と同じような気持ちで聞いているんだろうね。

個人の意思って、大きな流れの中では重要じゃないのかもしれないね。むしろ、自由意志の決定による充足感よりも、大きな宇宙の流れに乗れた時の方が、手応えがあるんじゃないかと思っちゃうのは、東洋的な感覚なんだろうな。

たま: 実際に取材した先生のうちの一人が、常に宇宙とのつながりを感じているって言ってたよ。まあ、アーユルヴェーダやヘラヴェダガマ自体が、天体との関係性の中で生まれてきているものだから、当然と言えば当然なのかもしれないけど。(つづく)

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次回は、ヘラヴェダガマを軸に、運命論で生きていくことは夢や可能性を諦めてしまうことにならないのか?という疑問や、文化の継承について語らいます!

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