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鎌倉殿の13人 北条家の未来 信州別所温泉編

信州で出会った北条家の痕跡

「鎌倉殿の13人」もいよいよ佳境。
これから次々と御家人が滅亡し、如何に北条家が鎌倉を牛耳る存在に成り上がるかが描かれる。

伊豆の小豪族だった北条氏は政子が頼朝の妻となったことで運が開ける。
それでも、比企、梶原、和田、千葉などの有力武士団に比べれば軍事力もなく、頼朝時代は妻の縁者(外戚)というだけで要職に就くこともない地味な存在だった。
時政に至っては頼朝と衝突して伊豆に隠遁したり、さしたる軍事的な功績もない。
それが、頼朝の死後、13人に選ばれると時政の謀略と尼御台と呼ばれた政子の後ろ盾で比企能員などのライバルを滅ぼし、実朝の代となり遂に時政は初代執権となる。
さらに畠山を滅ぼし伊豆に続き武蔵を手中に収める。

しかし、その時政も暴走が過ぎ、息子義時に伊豆に追放される。

二代目執権となった義時は承久の乱に勝ち権力を盤石にすると、その息子・泰時は名宰相として御成敗式目を制定するなど、北条家の権勢は確立する。

この夏、家族旅行で訪問した信州の地でも北条氏の名残に遭遇することになり、関東のみならず、信濃にまでその所領が拡大していたことに驚く。

訪問したのは上田より電車で30分の別所温泉。

平安時代末期には木曾義仲が入湯したとの伝説がある温泉地。

別所温泉の優位性は入湯と共に史跡巡りが同時に楽しめること。
北鎌倉辺りに温泉もあると想像すると理解しやすい。

特に「八角三重塔」は特筆すべき存在。
長野と言えば善光寺だが、それを凌駕する価値ある史跡ではないか。
長い階段を登ると、山腹に建つ八角三重塔が登場する。
1952年長野県内の建造物として最初の国宝指定を受けている。

長い階段を登ると見えてくる

八角三重塔は木造の八角塔としては日本に一つしかないという貴重な建築。
立年代は鎌倉時代末期から室町時代初期までのあいだと言われてきたが、正應二年(1289年)ということが判明。鎌倉幕府滅亡は1333年なので鎌倉時代末期には建立されたことが明らかとなり、最古の禅宗様建築であることが証明された。

国宝級の佇まい

https://youtu.be/7kE6S7LRSGM

この八角三重塔は安楽寺という寺院の境内にあるのだが、その案内看板に北条氏の文字を見つけて歓喜した。
ここにある「塩田北条氏」とは何者なのか?


安楽寺と北条氏の関係とは

「鎌倉殿の13人」に義時の二番目の妻として「比奈」という女性が登場した。史実では「姫の前」として伝わるが、比企氏の出のため離縁された悲劇の妻を堀田真由が好演していた。
義時との別離のシーンは屈指の名場面となっていた。

比奈には2人の男子がいて、1人は朝時、もう1人が重時である。
朝時は父の逆鱗に触れ蟄居するなどさえない存在となる。
一方重時は長男泰時の補佐役として六波羅探題を長く務め、その後は極楽寺流という分派を形成し子孫は繁栄する。
江ノ電の「極楽寺駅」にはその極楽寺が史跡として存在している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%A5%BD%E5%AF%BA_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82)

2001年の大河ドラマ「時宗」にも重時は登場、キャストが平幹二朗でこの時代には執権・時頼の補佐役として連署(執権に次ぐ役職)になっていた。
重時には義政という息子がいて、連署として時頼の息子・時宗を補佐するのだが、突然出奔して善光寺にて僧形となり、塩田荘(上田)に遁世し塩田北条氏となる。
この北条義政が「安楽寺」を庇護し、また塩田荘に寺社を多数建立し鎌倉文化の担い手になるのである。

別所は温泉街に近接して安楽寺、常楽寺、北向観音といった塩田流北条氏ゆかりの史跡があることから「信州の鎌倉」と呼ばれている。

この地に着いた時に、北鎌倉の空気感とデジャブを感じた理由がこの史実を知り飲み込めたのであった。

北向観音

勿論、別所温泉のお湯は最高で翌日は肌がスベスベになる程。

お湯と史跡と一度で二度美味しい、価値ある観光地である。



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