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ユーミン、佐野元春、松田聖子、寺尾聰。。 1980年、 シティポップ元年の名曲プレイリスト Vol.2

1980年シティポップのプレイリスト第2回目。この年は佐野元春、松田聖子と象徴的なミュージシャンがデビュー。そして、シティポップを担うセッションミュージシャンも、ティンパンアレーが消滅後はパラシュート所属のミュージシャン達が活躍していく。さらには大瀧詠一がロンバケに向けて始動し寺尾聰もひっそりとシングルを発売するなど、未来への種蒔きも行われていた。


シティポップ元年;1980年のプレイリストVol.2

夏休みを海辺のカフェ・バイトで一月半過ごした自分は、頭の中がリゾート一色となり、テクノの文字は消え去り、シティポップ的な楽曲を集めたカセットを編集し、ウォークマンもどきのプレーヤーで聴く毎日となる。
大貫妙子Carnaval」、EPODown Town」、山下達郎Ride On Time 」など1980年の曲に紛れて、松任谷由実潮風にちぎれて」、ムーンライダーズスカンピン」なんて言う古い曲も入っていた。
秋となりキャンパスに戻ると、同じ学科の女の子がいつの間にミニコミ誌のライターとなって、佐野元春という新人歌手にインタビューしたと言う。彼女は佐野元春にすっかりご執心で熱く語り、その影響で自分も佐野を追いかけ始める。

ストリートとニュー・ウェイヴ

1.アンジェリーナ/佐野元春

アンジェリーナは、1980年3月にEPICソニーから発売された佐野元春のデビューシングル。佐野は立教大学社会学部に入学、その後広告代理店に入社しラジオ番組の制作に携わり、その後プロの歌手に転身しこの年デビュー。
当時佐野の編曲を手がけ、ギタリストでもあった伊藤銀次大瀧詠一による『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』に山下達郎と共に参加、その縁で後に佐野元春も『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』に参加した。
アンジェリーナはシティポップにおける重要人物大村雅朗による編曲。
佐野は1980年4月TVK(テレビ神奈川)の音楽番組「ファイティング'80s」に登場しインパクトを与え、一部に熱狂的なファンを獲得するが、82年の「SOMEDAY」まではセールス的には苦戦する。
80年の年末には沢田研二に曲(彼女はデリケート)を書き下ろすなど、ストリート発のミュージシャンとしてジワジワと支持は広がっていた。

2.モダーン・ラヴァーズ/ムーンライダーズ

モダーン・ラヴァーズは1980年1月、前年リリースの『MODERN MUSIC』よりシングルカットされた。作詞は鈴木博文、作曲は先日逝去した岡田徹と鈴木博文。
ムーンライダーズ
は前身はちみつぱいを経て、アグネスチャンのバックバンドを担当しつつ鈴木慶一らを中心に1976年にデビューした。
『MODERN MUSIC』の頃にはディーヴォのような格好をして、ニュー・ウェイヴ的なバンドと化していた。
メンバー全員が作詞・作曲を手掛け、作曲家、プロデュース、スタジオ・ミュージシャンもこなせるという稀有なバンドでもあった。
バンドのサウンドは当初のアメリカ的なものからイギリス的になり、当時のテクノやニュー・ウェイヴからの影響を感じさせるものとなった。

フュージョンからの風

3.Kowloon Daily / パラシュート

パラシュート(PARATHUTE)は当時流行りのTOTOやスタッフのようなセッションミュージシャン集団として、林立夫斎藤ノブマイク・ダン松原正樹今剛安藤芳彦小林泉美により結成。
1980年5月に1stアルバム『PARACHUTE from ASIAN PORT』をリリース。Kowloon Daily小林泉美がボーカル全体に漂うオリエンタル・ムードは林が細野と目指したトロピカル路線とも通底していた。
長らくシティポップを支配してきたティンパンアレーが自然消滅し、名リズムセクションの細野晴臣はYMOを結成し、林立夫パラシュートを結成。その林立夫に加えて松原正樹今剛は多くの名盤に貢献し、シティポップはパラシュートの時代へと変遷した。
この後に小林泉美が脱退するとその後任には加入するのが後述するシティポップのキーマン井上鑑だ。

4.ASAYAKE/カシオペア

カシオペアは1978年デビューの野呂一生、櫻井哲夫、向谷実、神保彰らによる日本のフュージョンバンド。ASAYAKEは日本の3大カッティングイントロ曲の一つとも言われる彼らの代表曲だが、ドラムの神保彰はまだ参加していない。1979年11月発売の『Super Flight』により世に出たが、1980年の日本の夏でこのカッティングが鳴り響いていた。
所属がアルファだったためかYMOと同様に後に海外進出を試みる。

5.BLUE LAGOON/高中正義

BLUE LAGOON高中正義が1980年にリリースした5枚目のシングル。5thアルバム『JOLLY JIVE』からのシングルカットで、パイオニアのステレオのCMに使用され、山下達郎同様に本人が出演したため爆発的に知名度が上がる。加藤和彦高橋幸宏、そして高中とミカバンドが輩出した人材が、シティポップの流れを支えていたのがこの時代。
今は軽井沢で悠々自適の暮らしを楽しんでいて、ブログで同じく軽井沢住まいの名ベーシストWillie Weeksと交遊する姿を紹介している。

シティポップの名曲たち

6.クルージング・オン/ ブレッド&バター

70年代シティポップ名曲のピンクシャドウでも知られる茅ヶ崎市出身の兄弟デュオのブレッド&バター。徹底的に湘南にこだわった詩とサウンドはリゾート・ミュージックの先駆けとして、日本版ヨットロックと言っても良いだろう。同じ茅ヶ崎だが加山雄三やサザンとは違う、ソフト&メロウで洗練された音だった。
クルージング・オンは1980年6月の日本版ヨットロックの名作「MONDAY MORNING」に収録された。アルバムはYMOで著名なアルファから出た。
パラシュート (林立夫、松原正樹、今剛、斎藤ノブ、マイク・ダン、安藤芳彦)が全面的に参加し、彼らの極上の演奏が堪能できる一枚。

7.Lonely Lonely /門あさ美

前年にデビューした門あさ美はポプコンから出たシンガーソングライター。
八神純子と同期であった。メディアへの露出が極めて少なくミステリアスな存在。Lonely Lonelyは1980年6月にシングルとして発売。この曲が入った『SACHET』はチャート16位と全くのメディア露出なしの割には健闘した。世間的には無名だったが、自分が通っていた私大では人気があったし、バイト先の海の家でもヘビーローテションされていた。
アレンジに鈴木茂、松任谷正隆、大村雅朗が、バックは林立夫 、後藤次利 、松原正樹、斉藤ノブ、岡沢章、鈴木茂、高水健司等が参加!

8.アスファルト・ひとり…/EPO

Down Townがカバーなので自作アーティストのイメージはないが、実はDownTown以外は彼女の自作。アスファルト・ひとり…はシティポップの隠れた名曲と言われている。
アレンジもEPO自身。サックスソロは山下達郎との共演でも知られる土岐英史。Drumsは渡嘉敷祐一、GuitarとKeyboardsは清水信之。
デビューにしてこの作曲とアレンジのクォリティは素晴らしい。
アルバム「DOWN TOWN」はシティポップという枠で名盤を一枚と言われたら、選びたくなるThis is City Popな名作。
(アスファルト・ひとり…は7曲目、 20:36より)

9.Day Dreamin'/広谷順子

アイドル系をはじめとするコーラスやコンポーザーとして知る人ぞ知る存在だった広谷順子が1980年に発売した「Blendy」より。廃盤だったがシティポップ現象に乗って、まさに発掘された。アルバムには佐藤準(key)、岡沢茂、高水健一(b)、今剛、鳥山雄司、吉川忠英 (g) ほかが参加した。

1980年のユーミン

荒井由実時代の最後の作品「14番目の月」が1976年に1位となった後、松任谷由実に改名したが以降アルバムチャートNo1から遠去かったユーミン
とは言うもの、年に2回のアルバムリリースを果たし作家性の高い作品群の内容は充実していた。シングルも76年の翳りゆく部屋以来、ベスト10入りすることはなく1980年まではセールス的に低迷期と言われる。

10.よそゆき顔で/松任谷由実

よそゆき顔では1980年3月リリースのシングルESPERのB面として発表され、その後『時のないホテル』にも収録された。歌詞に「白いセリカ」が登場するため、ドライブ好きの先輩の車の中で繰り返し聴かされ脳に染み付いている。
時のないホテル』のレコード帯には「Featuring Masaki Matsubara on guitar solo」とあるが、松原正樹のギターが存分に堪能できる。
シングルB面ながら2022年のベストアルバムに選ばれている。

11.水の影/松任谷由実

時のないホテル』は1980年6月にリリースされたユーミンの9枚目のアルバム。松任谷名義では5枚目となりチャート3位と今回も1位はならず。

余談だが本作ではその後山下達郎バンドに入る青山純も起用されているそして松原正樹林立夫斎藤ノブ今剛パラシュート勢も起用されている。
水の影は『時のないホテル』ではB面最後のオーラス曲。SHANGRILAでも最後に歌われたように、隠れた名曲として今も人気がある。

12.サーフ天国、スキー天国/松任谷由実

1980年12月21日にリリースされた『SURF&SNOW』は夏と冬のリゾートライフを題材にしたコンセプトアルバム。
恋人がサンタクロース」や「サーフ天国、スキー天国」など今や定番となった人気曲が入っているので大ヒットアルバムの印象だが、チャート7位に止まっていた。
1980年時点でのユーミンはその程度の存在だったが、このアルバムが後には若者のライフスタイルの羅針盤となり暫く君臨することになるのは間違いない
ドラムに林立夫、ギターは松原正樹今剛とパラシュート勢が本作にも参加し、コーラスには須藤薫が。
後年繰り返し苗場のスキー場で聴かされうんざりしたこの曲だが、改めて聴くと林立夫のドラムのグルーブと透明感ある須藤薫のコーラスに魅了されてしまう。

1981年大ブレイクの予兆

1981年6月、守ってあげたいのヒットで低迷期を脱するとユーミンブームが始まる。
前年の1980年アルバムチャートで山下達郎が初の1位獲得、シングルもトップ10入りと、自分のコーラスをしていた山下のいつの間に後塵を拝し、焦りがあったのではとも想像する。
流石のユーミンも角川映画『ねらわれた学園』に相乗りして、何とか復活の狼煙を上げた。守ってあげたいはオリコン2位、年間10位という大ヒットとなり、ユーミンブームのプロローグとなる。
11月発売の『昨晩お会いしましょう』で1位を奪還すると17年間、17枚連続で、オリジナルアルバムが1位を獲得するという快挙を成し遂げた。

そして、ヒットを連発する松田聖子時代の訪れ。
さらに予期せぬ大瀧詠一のブレイク、また寺尾聰旋風も吹き荒れた1981年。そんな予兆を感じさせる曲達を紹介して本章は幕を閉じる。

13.潮騒/松田聖子

潮騒は、1980年にデビューした松田聖子の一枚目『SQUALL』(8月1日発売)の中の一曲。前月には青い珊瑚礁が発売、第2位のヒットとなっていた。
先行シングル2曲のヒットで、1枚目のアルバムにしてオリコンのLPチャートで2位を獲得。全曲を作詞・三浦徳子、作曲・小田裕一郎のコンビが担当というアイドルとしてはチャレンジングな作りとなった。
潮騒は、編曲は大村雅朗、ギターは松原正樹、ドラムは島村英二、ベースは岡沢茂、 Keyboardsは佐藤準という歌謡曲とは思えないシティポップ的な布陣となった。

この年の後半から1981年にかけてNo1ヒットを連発し松田聖子時代が始まる。そしてシングルの連続1位は24作まで続くが、その中には10月発売の大瀧詠一作曲による風立ちぬがあった。

14.あなただけ I LOVE YOU/須藤薫

あなただけ I LOVE YOUは1980年6月発売の須藤薫のデビュー作「CHEF'S SPECIAL」に収録。作詞作曲編曲は全て大瀧詠一

須藤薫は「SURF&SNOW」などユーミンのバックコーラスで知られている。

翌年1981年3月21日にリリースされた大瀧の大ヒットアルバム『A LONG VACATION』(ロンバケ)の序章的な存在として伝説的な重要曲でもある。
1980年3月に行われたあなただけ I LOVE YOUの録音では、スタジオに4台のピアノ、4台の打楽器、5台の生ギター、ベース、エレキギター、ドラムで同時に演奏。後に和製スペクターサウンドや「ナイアガラサウンド」と呼ばれる独特の響きを獲得し、その音がそのままロンバケに継承された。

この時の録音メンバーでドラムのつのだひろ以外、村松邦男(G)、長岡道夫(B)、安田裕美(Ag)、井上鑑(P)、松任谷正隆(Sy)は、その後のロンバケにも参加しているが、特に井上鑑が印象的なピアノソロを聴かせる。
この後1980年4月の君は天然色から「ロンバケ」の録音が開始されたが、君は天然色須藤薫のために書かれた曲だったが男性用ではないかと意見があり須藤薫用としては不採用になったものだった。

『結果的には「あなただけ-」「天然色」の録音の予行演習となりましたが、この「天然色」の成功がなかりせば「ロング・バケーション」も、このCBSソニー時代も、輝かしいものにはならなかったであろうことを考えると、この曲には特別な感慨があります。薫ちゃんは残念がっていましたが、「天然色」を私に返してくれた川端氏(CBSディレクター)に感謝いたします。』
と大瀧は語る。
何にしてもこのあなただけ I LOVE YOU無くして、名作ロンバケは生まれなかったという歴史的な名曲なのだ。
ロンバケはオリコン1位は獲得できなかったものの最高2位まで上がり、発売1年で100万枚を突破した。

15.SHADOW CITY/寺尾聰

ロンバケは1981年年間売上アルバムの2位となったが、1位を阻止したのは寺尾聰の1981年4月に発売された『Reflections』である。
それに先駆け前年の1980年8月にシングルSHADOW CITYが発売された。
発売時には話題にならなかったが、翌1981年2月にリリースした「ルビーの指環」がじわじわと売れていき、オリコンチャートで3月30日で1位を獲得した。その余波でSHADOW CITYもチャートを再浮上し、トップ3にランクインした。

『Reflections』の成功の陰に、絶妙なアレンジを手掛けたのは井上鑑の活躍があった。当時はパラシュートに在籍していたが、『Reflections』にはこのパラシュートのメンバーが全面的に参加している。
大滝詠一の『A LONG VACATION』にも井上鑑はミュージシャンのひとりとして参加している。その後井上鑑は大滝詠一に気に入られて『NIAGARA SONG BOOK』(1982年)というインスト作品のアレンジを任されている。1981年のtwo topの『A LONG VACATION』と『Reflections』の両方に貢献した井上鑑こそ1981年シティポップのキーマンと言えよう。
以下によると「ギターとキーボードでどういう風に組み立てていくとスティーリー・ダンの「ガウチョ」みたいになるか? という一種ゲームっぽい感覚でチャレンジしていた時期なんですね。」なので、寺尾聰とスティーリー・ダンという意外な関係性も浮き彫りとなる。

寺尾聰 と井上鑑 (Key)、 今剛 (G) 、高水健司 (B)、 ヴィニー・カリウタ (Ds)という豪華な共演映像。

70年代のシティポップ・サウンドを支配したティンパンアレーは空中分解し、名リズムセクションを形成した細野晴臣はYMOを結成。シティポップにもYMOの風を吹かせたが、如何せんYMOが多忙なためベースからは遠ざかる。一方の林立夫パラシュートを結成し、1980年のシティポップを席巻した。同時にパラシュートの松原正樹、井上鑑らも引っ張り凧となる。
独自の道を歩む山下達郎青山純伊藤広規という自前のリズムセクションを獲得し、パートナーの竹内まりやにも起用して存在感をアピールした。
(この投稿後に音楽プロデューサーの松尾潔氏が、山下所属事務所のスマイルカンパニーから契約解除されたことを晒して話題になった。理由はメディアで松尾氏がジャニーズ問題に言及したことにあり、山下達郎もその圧力に加担したのではないかと憶測を呼んだ。その背後にいると目されるのが元スマイル社長の小杉理宇造氏である。
そしてこの年には近藤真彦のシングル『ギンギラギンにさりげなく』のB面「恋のNON STOPツーリング・ロード」を手がけ、翌年1982年には「ハイティーン・ブギ」も手がけている。つまりジャニーズとの関係が1981年に始まり、それを繋いだのは小杉氏に他ならない。)

パラシュートは35周年を迎えて皆健在だが、残念なことにシティポップでの貢献度No.1の松原正樹はこの世にはいない。
松原正樹
は2016年2月十二指腸がんのため死去。61歳だった。

シティポップ元年;1980年のプレイリストVol.1

はこちらから。

そして1981年のプレイリストは以下から。






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