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追悼ロビー・ロバートソン 名盤と人33回 『Music from Big Pink』 ザ・バンド

2023年8月9日、ロビー・ロバートソンが80歳の生涯を終えた。
『Music from Big Pink』はザ・バンドが1968年7月に発表したデビュー・アルバム。ザ・バンドの代表作であるだけでなく、クラプトンやジョージ・ハリスンなどミュージシャン達に与えた影響は、計り知れない歴史的な作品でもある。
彼らを大きく変貌させたディランとの『地下室』でのセッションも含めて掘り下げ、ロビーの生涯も探る。


ジャケットのイラストはボブ・ディラン作

Music from Big Pinkを知るためのプレイリスト

地下室」でのセッション音源から、「Music from Big Pink」、そして様々なカバー、「偉大なる復活」から「ラストワルツ」まで、ディランとザ・バンド、ロビー・ロバートソンの歴史が知れるプレイリスト。

ザ・バンドの終焉

ザ・バンドは1976年11月25日、ラストコンサート「ラストワルツ」をサンフランシスコにて行い解散する。
その後1983年にロビー・ロバートソン抜きで再結成しツアーを行ない、アルバムもリリースするが、世間的にはザ・バンドはラストワルツで終結したと見られている。

1986年3月、リチャード・マニュエルが自殺。
1999年12月、リック・ダンコが死去。
2012年4月、リヴォン・ヘルムはニューヨークで死去。
そして2023年8月9日、ロビー・ロバートソンが80歳没。
5人いたザ・バンドは1937年生まれ86歳の最年長のガース・ハドソン1人が生き残るのみ。

ディランとの出会い

今となってはアメリカンロックの最高峰という揺るぎない評価のあるザ・バンド(The Band)だが、当初はボブ・ディランのバックバンドという注釈が必ず付いて回った。
まずはザ・バンドの原点とも言えるディランとの出会いと軌跡について紹介したい。

1965年夏、ザ・バンドはその前身とも言えるリヴォン&ホークスとして活動していた。メンバーは言わずと知れたロビー・ロバートソンリック・ダンコガース・ハドソンリチャード・マニュエルリヴォン・ヘルムの5人。
リヴォン以外はカナダ人ということもよく知られた事実だ。

1965年当時のディランは『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』、『追憶のハイウェイ61』とエレクトリック楽器を取り入れた作品を次々と発表していた。

中でもアル・クーパーマイク・ブルームフィールドらの参加でバンド演奏を全面的に取り入れた『追憶のハイウェイ61』からのカット、ライク・ア・ローリング・ストーンが、全米シングルチャートNo.1となった。
ブルームフィールドはディランと一緒にツアーをしないことを選択し、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドにとどまることなり、ディランはエレクリックセットを実現できるバンドを探していた。
ホークスの存在を知ったデュランはロビーとリヴォンを起用し、アル・クーパーと共にエレクトリック・デュランに加わる。
(この時、ディラン側はロビーだけをスカウトするが、ロビーはバンド全体を起用することを主張し、それが認められたと述懐している)
その後にクーパーが抜けると、ホークスは丸ごとディランのバックバンドとなる。
そして9月から全米ツアーするが開始するが、フォークからロックに転向したディランは各地でブーイングを浴びまくるのである。

Blonde on Blonde

同時にディランは「Blonde on Blonde」の録音をNYで開始する。当初ホークスと共に始めたレコーディングだが、スタジオに慣れないホークスとは上手く行かなかった。結局66年リリースの「Blonde on Blonde」にはロビーとリック・ダンコがレコーディングに参加したスーナー・オア・レイターのみが収められた。

録音に不満を持ったディランは「Blonde on Blonde」の録音をナッシュビルに移す。ニューヨークからディランに同行したアル・クーパー加えて、ホークスからはロビーのみが参加。
この時期、ロビーはいち早くディランの信頼を得て、またこの期間に彼からソングライティングについて学んだようだ。
後には、マーティン・スコセッシの知己を得るように、ロビーは単なるロッカーではなく知識人と渡り合う頭脳明晰さがあったようだ。
それによってザ・バンドは成功もするが、他のメンバーとの軋轢も生んだのだろう。

また、ステージでのディランのエレクリックサウンドに対する否定的なブーイングに落胆したリヴォンは、1965年の秋にグループを去る。LAに移り、ジェシ・デイヴィス等とバンド活動を試みるが、挫折する。
そしてメキシコ湾の油田で働くことになり、音楽からは一時身を引くのだ。

地下室

ディランの事故

1966年4月からはリヴォン抜きのホークスは、ディランと共に世界ツアーを開始する。
そしてブーニングをかき消すような激しい演奏で知られる、アルバートホールのライブは録音でも聴ける。

しかし、7月にディランはウッドストックでオートバイ事故を起こし、隠遁生活に入る。
(ウッドストックはニューヨーク州にある避暑地で、芸術村としても知られている。ウッドストック・フェスティバルは、ウッドストックで開催が計画されたが、町が開催を断ったので、隣りの郡ベセルで開かれた)

予定されていたコンサートのスケジュールはすべてキャンセルされ、ホークスの仕事もなくなった。

ビッグ・ピンク

1967年になってディランは怪我から回復し、2月にまずロビーが呼ばれ、残りの3人もウッドストックにやって来た。
リックリチャードガースの3人はやがて、ウッドストックから数マイル離れたウエスト・ソーガティーズのストール・ロードにある「ビッグ・ピンク」(Big Pink)と呼ばれていた家を借りて移り住む。
ロビーは、その後妻となるカナダ人ジャーナリストのドミニクとウッドストックの別の家に住んだ。(ロビーはディランとのツアー中にドミニクと出会い、彼女の影響下で文学的な詩を書くようになる。)

1967年春、ディランと4人のホークスは、自宅のリビング・ルームで非公式なレコーディング・セッションを始める。
6月頃、セッションの場所は「ビッグ・ピンク」の地下室に移された。

Big Pink

当初はディランはカバーばかりを歌っていた。
ジョニー・キャッシュハンク・ウィリアムスなどのカントリーやプレスリーシナトラジョン・リー・フッカーなど、幅広くアメリカの音楽のルーツを探るような選曲だった。
異色はロビーがディランに紹介したカーティス・メイフィールドによるPeople Get Readyで、ディランのソングライティングに変化をもたらしたとロビーはいう。

そして、ディランのマネージャーでもあるアルバート・グロスマンは収入を得るため、他者に提供する新曲を要求し、そこで生まれたディランの曲が日の目を見る。
まずToo Much of NothingPPMによって歌われてヒット。

1967年2月から秋にかけてディランは30曲以上の曲を作った。
I Shall Be Released火の車(リックとの共作)、怒りの涙(リチャードと共作)はザ・バンドが取り上げ、You Ain't Goin' Nowhereバーズがカバー、マンフレッド・マンによるマイティ・クインは全英シングル・チャートで1位を獲得した。

このセッションを通じてブルーズバンドだったホークスは、ディランからカントリーフォークを学んでいくが、それが後のザ・バンド独特のアメリカーナ的なサウンドとして結実する。
(ブルースバンドだったストーンズグラム・バーソンズからカントリーを学び変貌した過程と似ている。)

この1967年6月~10 月のセッションは『地下室The Basement Tapes)』として、ロビーによってオーバータブが施され1975年にリリースされた。アルバムはビルボードトップLPで7位に達した。

『地下室(The Basement Tapes)』(1975年)

さらに余計なオーバーダブを拝しザ・バンドのみの曲目が除外された完全版が『The Basement Tapes Complete』として2014年にリリースされ、全貌が明らかととなる。

リヴォンの復帰

リックはリヴォンに電話をかけ、9月にはリヴォンはウッドストックに合流し、再び5人のメンバーが揃い、ホークスがザ・バンドへと進化していく。
67年9月には地下室でのレコーディングは終わり、ディランはナッシュビルに単身赴き『ジョン・ウェズリー・ハーディング』を録音し12月に発売。
ディランのマネージャーでもあるアルバート・グロスマンは、「ディランのバッキングバンド」としてホークスのレコード契約を売り込み、キャピトルレコードと締結。最初はクラッカーズという名前で署名した。
そして録音後もザ・バンドという名前はなく、初版にはバンド名の記載がなく、その後メンバーの意思に反して「ザ・バンド」と名付けられた。

The Basement TapesComplete』に収録された1967年12月に録音されたBlowin' in the Wind。リヴォン復帰後のザ・バンドとのリハーサル音源。

Music from Big Pinkの誕生

ジャニスジョプリンの『チープ・スリルズ』のプロデューサーとしても知られるジョン・サイモンと出会った後、バンドは1968年初頭にNYのA&Rスタジオで、後に『Music from Big Pink』となるデビューアルバムを録音し始めた。
つまり、このアルバムはタイトルのごとくに、ビッグ・ピンクでは録音されていない。
バンドはTears of RageThis Wheel's On Fire、Chest FeverWe Can TalkThe Weightをこのセッションで録音し、それ以外はLAのキャピタルスタジオで録音した。
ロビーは、サイモンが彼らにどのように音を鳴らしたいかを尋ねたとき、彼らは「地下室でやったように」と答えている。
本作はビッグ・ピンクでは録音されていないが、彼らの脳裏に残像のように残るビッグピンクでの音像を再現したと言えるのではないか。

Music from Big Pink

怒りの涙(Tears of Rage)

Tears of Rage怒りの涙と邦訳されて、「Music from Big Pink」の一曲目として知られている。
「地下室」の録音時、ディランから渡された詩をもとに、リチャードがメロディを付けた。この時点では、ディランがボーカルを担当している。

また当時の常識には抗いスローな曲を敢えてアルバムのトップに配置した。「リチャードは彼の人生で最高のパフォーマンスの1つを歌った。」とリヴォンは語る。リヴォンは同時期にリンゴ・スターもトライしていた啜り泣くタムタムスタイルを披露した。頂点でドラムの音を歪ませて音程を変え、ドラムの音がベルのように持続して聴こえる。
ガースのオルガン、そしてダビングされたガースのサックスとジョン・サイモンのチューバが物悲しさを倍化させる。

Tears of Rageは多くのカバーが生まれたが、1966年にバーズを脱退したジーン・クラークのソロ「ホワイト・ライト」のものが秀逸。プロデュースはジェシ・エド・デイヴィス

さらにジェリー・ガルシアのカバーも彼にぴったりの選曲。

火の車(This Wheel's On Fire)

邦題は火の車と付けられたThis Wheel's On Fireリック・ダンコとディランの共作。
ディランの歌詞にリックが歌詞を付け、まずは「地下室」で録音された。

1968年、ジュリー・ドリスコール、ブライアン・オーガー&ザ・トリニティのバージョンはバンドに先駆けて英国でヒットし、英国シングルチャートで5位を記録した。

さらにはバーズもカバーしている。

思わぬヒットでリックには多額の印税が入る。そしてそのマネーはドラッグや酒に費やされ、彼らの亀裂を生んでいく原因ともなる。

I Shall Be Released

このI Shall Be Releasedと上記2曲を含む3曲が「地下室」の際に録音された曲を本アルバムとして再録したもので、いずれもディラン絡みの曲。
本作が「地下室」でのディランとのセッションと、地続きなのがよく理解できる。

「今すぐに、今すぐにでも 俺は解放されるべきなんだ」という歌詞がこれを歌うリチャードの行く末を想うと、より歌声は切なく響く。

オリジナル・ヴァージョンは1967年にビッグ・ピンクの地下室で録音され、1975年の「地下室」には収められず、「The Basement Tapes Complete」に収められた。ディランのボーカルにリチャードのファルセットが絡む。

「地下室」バージョンとは別に1971年9月にディランはハッピー・トラウムと共に録音、『グレーテスト・ヒット第2集』に収録。

無数のカバーがあるが、クリッシー・ハインドのカバーが秀逸だ。Guitarに Steve Cropper、 Organに Booker T. Jones 、Bassに Donald Dunn 、DrumsにJim Keltner、ギターはGE Smith等の鉄壁の演奏陣。ディランのデビュー30周年ライブより。

海を越えて同時期のビートルズにも伝わった。(Get Back sessions)

ザ・ウェイト

ボイス・オブ・ザ・バンドとして、多くの代表曲でボーカルをとるリヴォンだが、この一枚目では意外にも一つしか単独のリードボーカルはない。
それが後にはこのバンドのキラーチューンとなるザ・ウェイトだ。
2年間もバンドを留守にしていたリヴォンに遠慮があったのか、この時点でのバンドのメインボーカルはリチャードだった。
そのリヴォンに手を差し伸べたのが、ロビーというのが興味深い。
「リヴォンにしか歌いこなせない曲を書こうと思った。僕は彼の実力をよく知ってたからね」とロビーは語る。「彼は僕の親友だったし、彼に相応しい特別な曲を書きたかったんだ」とも。

「僕自身は他に選択肢がない場合のバックアップ程度に考えてた。いろんなバージョンを録ったけど、どれも出来は今ひとつだった」と語り、当初は収録が見送られる可能性もあった。
しかしガース・ハドソンのピアノによるアレンジが見事で「録り終えて聴き返した時には全員が驚いてた。確かな手応えがあったからね」という経緯で収録に至る。
2018年に出されたリミックスでは、正規盤で外されたリチャードのオルガンが聴くことができる。

また、同曲は映画『イージー・ライダー』でも使用されたが、サントラには別のミュージシャンのものが使用された。

2019年にPlaying For Changeのバージョンにリンゴ・スターと共にゲストで登場。これがロビーが映像でウエイトを演奏した最後か。

そしてカバーはアレサ・フランクリンが極め付けで、アルバムは70年『This Girl's in Love with You』から。ギターでデュアン・オールマンが参加。

「Music from Big Pink」の勢力図

本作では2作目以降とソングライターやボーカルの担当の勢力図に、大きな違いが見れるので分析してみた。
()内が作者で、→の後がボーカル。

sideA
1. Tears of Rage(Dylan,  Manuel)→Manuel
2. To Kingdom Come(Robertson)→Robertson,Manuel
3. In a Station(Manuel)→Manuel
4. Caledonia Mission(Robertson)→Danko
5. The Weight(Robertson)→Helm with Danko
sideB
6. We Can Talk(Manuel)→Manuel, Helm, Danko
7. Long Black Veil→Danko
8. Chest Fever(Robertson)→Manuel
9. Lonesome Suzue(Manuel)→Manuel
10. This Wheel’s on Fire(Dylan,Danko)→Danko
11. I Shall Be Released(Dylan)→Manuel

2作目以降、ソングライティングはほぼロビーが独占するが、本作の段階ではリチャードロビーが分け合う。
リチャードは単独で3曲、ディランとの共作で一つと4曲に絡む。ロビーは単独で4曲。
7のLong Black Veilはカバーで、11はディラン。
そしてリックがディランとThis Wheel’s on Fireを共作し、リヴォンはソングライティングに関わっていない。

ボーカルの配分を見ると、リチャードが単独で5曲と目立つ。また共同ボーカルの2曲を入れると11曲のうち7曲と、デビュー時のメインボーカルはリチャードであったことが理解できる。
次がリックで3曲+Weightでのセカンドボーカルと共同ボーカルのWe Can Talkで5曲。遅れて参加したからかリヴォンThe Weightと共同ボーカルのWe Can Talkの2曲のみと意外にも少ない。
また珍しくいやほぼ唯一とも言えるロビーのボーカルがTo Kingdom Comeの1曲あるが、この後にザ・バンドで彼が歌うことはない。(事実はIslandsで1曲歌っている)

そしてザ・バンドの象徴である3人のボーカリスト。
リックリチャードリヴォンが3人でボーカルを受け持った We Can Talk。ライターはリチャードである。3人が歌い回し、ゴスペルのコール&レスポンスからの影響を感じる。

ガースもクレジットはないが、アレンジとマルチプレーヤーとして演奏面での貢献が大きい。特にChest Feverでのオルガンは素晴らしく、映像は再結成後1983年後の演奏だが、ガースの勇姿が拝める。
本作時点では、リチャードとロビーをメインとしつつも、5人の貢献度は均等であったのが、ザ・バンドの強みであった。
その均衡は2作目から早くも崩れ始める。

「Music from Big Pink」のその後

ジョージとクラプトン

「Music from Big Pink」は1968年7月にリリースされ、全米チャート30位を記録。シングルザ・ウェイトは全米63位に達した。セールス的にはそこそこだったが、本作が音楽界に与えた衝撃は多大だ。

この年の11月、ジョージ・ハリスンはロビーの誘いで渡米し、ディランとザ・バンドを訪問。ジャムセッションに興じたという。そして本作を大量に買い、帰国後「これは傑作だから、絶対に聴け」と配りまくった。
翌年録音されたビートルズ流のルーツ回帰アルバム『レット・イット・ビー』(Get Back)の音作りにも影響を与えている。
ジョージ・ハリスンオール・シングス・マスト・パスはザ・バンドに大きな影響を受けており、曲を書いているときにリヴォン・ヘルムがそれを歌うのを想像したと述べてもいる。

自作での共演はならなかったが、リンゴ・スターの1973年の「Ringo」に収められた、ジョージ作のSunshine Life for Meにザ・バンドが参加。
リンゴのドラム、ジョージはギター&ボーカル、ロビーのギター、リヴォンはマンドリン、ガースがアコーディオン、リックはフィドルで参加し、夢を果たした。
David Bromberg – banjo, fiddle、Klaus Voormann – standup bass

ハリソンと同様に、クラプトンもまたウッドストックを訪れている。「本当は私をバンドに加えてくれと頼むつもりだったんだが、勇気がなくて言い出せなかった」と1994年にザ・バンドがロックの殿堂入りを果たした際に語っている。
No Reason To Cry」 (1976)ではザ・バンドをゲストに迎えている。Sign Languageはディランの作品でデュエットしているが、演奏はザ・バンドでディラン&ザ・バンドにクラプトンがゲスト参加しているかのよう。

亀裂

この後の彼らの軌跡は以下の記事でも書いたが、苦々しいものとなる。
次作の「The Band」はベスト10入りし本作と並ぶ傑作と評価される。
一方ロビーは全曲にクレジットされるが、リチャードは単独クレジットはなくロビーとの共作のみとなる。
リチャードの創作意欲の低下により、ロビーへの負荷は高まり、結果としてはロビーのクレジット独占という形になり、バンドは軋んで行く。
そして1970年8月にリリースされた次作『Stage Fright』はグループとして最高位であるアルバム・チャート第5位まで上昇する。

しかし、その後はロビーと他のメンバーの確執が大きくなり、最初の2作を上回る作品を生み出せなくなってしまう。
デビュー作では均等だった貢献度がロビー1人に偏り始め、バンドは不協和音が出始め崩壊に向かう。

1971年の「CAHOOTS」は21位と前作からチャートは下落。
72年はライブアルバム、73年の「Moondog Matinee」はカバーアルバムと、オリジナルアルバムのリリースがない状態が続き、このままだと先細りが危惧された。

再び、ディランと

Before the Flood

空白期間が続きザ・バンドが世間から忘れ去られようとした時に、恩師とも言えるディランと再度組むことが発案された。

1974年1月にリリースされたディランの「Planet Waves」のバックをザ・バンドが務める。
スタジオ作品でディランのバックをザ・バンドが担当するのは、意外だがこのアルバムが初めてのことだ。

その後にはディランとザ・バンドの全米ツアーが開始された。25都市でスタジアム級の会場で40公演を行う巨大なものだった。
その記録が6月には「Before the Flood」(邦題:偉大なる復活)としてライブアルバムとなり、アルバムチャート3位となる成功を収める。

65〜66年のツアーでは途中離脱したリヴォンも、生き生きとしたドラミングを見せつける。

1974年の再ジョイントの成功は、再度、ディランとザ・バンドの結びつきを世間にアピールする機会となった。
ディランは翌年には「Blood on the Tracks」をリリースし全米1位、最高傑作の呼び声高く、『偉大なる復活』は予言的となり完全復活するのである。

地下室の真相

そして翌年の1975年6月には「ディラン×ザ・バンド」の第3弾として「地下室」(Basement Tapes)がリリースされる。名義はボブ・ディラン&ザ・バンドだった。

「地下室」(Basement Tapes)

再度、ディランとザ・バンドのルーツを発掘した本作は、アルバムチャートで7位に達した。
前述したように『Music from Big Pink』のプレ期にディランとザ・バンドで行われたベースメント・テープスをまとめたもの。

編集はロビー・ロバートソンで、編集に際してはディランの16曲に加えて、ディラン抜きのザ・バンドによる8曲が加わり、全24曲の2枚組になる。
このザ・バンド単独の8曲が、じつはベースメント・テープスのものではなく、中には75年の時点での新録も含まれている。
また、ディラン参加の曲にも、ザ・バンドによるオーヴァー・ダブが施されるなど、かなり手が加えられているという。
これらは、このアルバムの編集にあたったロビー・ロバートソンによる歴史の改変ではないかと批判も巻き上がった。

Katie's Been Goneは1967年半ばにリチャードとロビーが書いた最初のナンバーの1つである。収められたのはBig Pinkのアウトテイク。

Bessie Smithはリック、ロビーとの共作によるものだが、珍しくロビーが主旋律を歌い、リックがハーモニーを歌う。1969年の「The Band」と翌年に発売されたサード・アルバム「ステージ・フライト」の間のどこかで録音されたらしい。

近年ではBessie Smithノラ・ジョーンズのレパートリーとなり知られる。

ディランのDon't Ya Tell Henryに至っては、1975年に録音されていて、それがなぜ「Basement Tapes」に入るのかと、批判も受けた。

ラストワルツで強制終了

その後、同年に初期2作と並ぶ名作と呼ばれた「南十字星」(Northern Lights Southern Cross)をリリース。
これからと期待されたが、1976年11月25日にサンフランシスコのウインターランドで行った「ラスト・ワルツ」で解散してしまう。
ジョージは参加しないがリンゴロンウッドクラプトンニール・ヤングマディウォーターズヴァンモリソン等、アメリカのロック史の一大レビューとなった。
さらにはゴスペルのStaple Singers、カントリーのエミルー・ハリスとザ・バンドのサウンドを総括する様なゲストによるスタジオ録音も追加された。
当然なことながら、ディランも参加。76年というと『欲望』をリリースしチャートで5週連続1位と全盛期を迎えていた時期だった。
そしてディラン作のI Shall Be Releasedで有終の美を飾る。

公開当時は知る由もなかったが、実際はロビーはザ・バンドに疲れており、このライブを持って活動を強制終了したかったようだ。
継続したかった他のメンバーと対立したまま、禍根を残す解散劇だった。
そしてこれが5人揃っての最後の演奏となる。
それでもザ・バンド解散とアメリカのルーツ音楽の総括を融合させて、映画化した手腕には脱帽せざる得ない。

ロビーがディランについて語った映像だが、面白い。罵声を浴びながら屈することなく、やり抜いた66年のツアーについて熱く語る。2人の絆は生半可なものではない。

ロビーの死に対して、ディランは以下のような追悼を述べている。

This is shocking news. Robbie was a lifelong friend. His passing leaves a vacancy in the world.
「ショッキングな知らせだった。ロビーは生涯の友人だった。彼が亡くなったことは世界に空白を残すことになる」

Statement from Bob Dylan on the passing of Robbie Robertson

ネイティヴ・アメリカン、ロビー・ロバートソン

1987年、ロビーはユダヤ系カナダ人と母方のモホーク族インディアンの混血であることを明かし、ネイティヴ・アメリカンの血が流れていることをカミングアウトしている。

1994年にはネイティヴ・アメリカンに関するテレビのドキュメンタリー番組用のサウンドトラック・アルバム「Music for the Native Americans」をリリース。
チェロキー族のリタ・クーリッジ等が参加している。

ネイティヴ・アメリカン血筋の音楽家たちの活動に焦点をあてた映画「ランブル」にもロビーは登場。ジェシ・エド・デイヴィス等も出演する。

ザ・バンドでアメリカ音楽のルーツを掘り起こし「アメリカーナ」と言うジャンルまで作り上げたロビーだが、解散後はさらにそれ以前の先住民達の音楽に関心が移行し「ルーツ探しの旅」を模索したのが興味深い。
1998年には引き続き、アメリカ先住民の音楽を取り入れた「Contact from the Underworld of Redboy」をリリース。
Stomp Dance (Unity)リタ・クーリッジと共に2002年のソルトレイクシティオリンピック開会式で歌っている。

そして2019年に彼のラストアルバムとなる「Sinematic」をリリース。
Once Were Brothers
は映画「ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった」の主題歌ともなった。
この映画でも幼少時代のインディアン居留地での音楽体験が語られる。

公開当時はロビー史観による自己礼賛映画と批判されたが、改めて観ると、ある時はバンドのため、ある時は家族のため、精一杯やるべきことをやり抜いた彼の生き方を噛み締めることができた。
そして飽くなきルーツへの探究心、これが彼の音楽作りの原動力となっていたことは間違いない。

アケイディアの流木(Acadian Driftwood)

最後になるが、1975年のザ・バンドの実質的なラストアルバム「Northern Lights - Southern Cross 」からのAcadian Driftwoodを紹介したい。

すでに内部的には崩壊していたザ・バンドの最後を看取るように、ロビーがまとめ上げた名作だ。
ここでは、先住民のインディアンを語り部として、アケイディアというカナダとアメリカの東部の国境地帯の悲劇を謳っている。
この時点で先住民カナダ人という自分のルーツを歌い込んでいた。
この映像では、その曲をリヴォンの娘であるAmy Helmがカバーしている。
絶縁してたレヴォンの死に目をロビーが訪れた時に、会わせてくれたのがAmyだった
Amyの母は歌手のリビータイタスで、今はリビーの夫はドナルドフェイゲン

世代は子供の時代へと変わり、既に親世代の禍根は消えていると感じ、感極まった。


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