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名盤と人 第25回 結成秘話 『Eagles』 イーグルス

Eaglesと言えば「Hotel California」だが、最近では初期のカントリーロック期の作品が再評価されている。彼らにはデビューに至るまで、周辺でサポートした様々な支援者達がいた。リンダ・ロンシュタット、ジャクソン・ブラウン、デビット・ゲフィン、グリン・ジョンズ等々。彼らの動きを探りつつ、一枚目では主導的な活躍をしたバーニー・レドンにもフォーカスしデビュー作「Eagels」の魅力を深掘りした。

再注目される初期イーグルス

ロンドンで録音されたデビューアルバム

The Eaglesのデビューアルバム「Eagels」(イーグルス・ファースト)は1972年6月1日に発売された。
プロデューサーはビートルズの「Get Backセッション」でも近年知られるイギリス人のGlyn Johns(グリン・ジョンズ)が担当。レコーディングは1972年2月、ロンドンのオリンピック・スタジオで2週間かけて行われた。「AbbyRoad」の一曲Somethingのオーバーダビングも、アビイ・ロード・スタジオではなくオリンピック・スタジオで録音されたが同じ場所だ。
ウエストコーストロックの象徴でLAを拠点としたEagelsだが、デビュー作は意外にもロンドン録音であった。

が、そもそもイーグルスの4人でLA出身者はおらず、アメリカ各地からの寄せ集めだった。
バーニーレドン(BernieLeadon)vo、g、banjo、steel guitar、mandolin
1947年ミネソタ州ミネアポリス出身
ランディ・マイズナー(RandyMeisner)vo、b
1946年ネブラスカ州出身
グレン・フライ(GlennFrey)vo、g、key
1948年11月6日ミシガン州デトロイト出身
ドン・ヘンリーDon Henley)vo、ds
1947年テキサス州ギルマー出身

デヴィッド・ゲフィンアサイラム・レコードと契約し、GlennFreyJackson Browneの共作による先行シングル「Take It Easy」が12位にまで上がるヒットとなる。

アルバムもチャートで22位を記録するスマッシュヒットとなり、創設したばかりのアサイラムとしては彼らを猛プッシュして行くことになる。

Side A
1.テイク・イット・イージー - Take It Easy 
2.魔女のささやき - Witchy Woman 
3.チャグ・オール・ナイト - Chug All Night 
4.哀しみの我等 - Most of Us Are Sad 
5.ナイチンゲールの歌 - Nightingale 
Side B
1.今朝発つ列車 - Train Leaves Here This Morning 
2.テイク・ザ・デヴィル - Take the Devil 
3.早起き鳥 - Earlybird 
4.ピースフル・イージー・フィーリング - Peaceful Easy Feeling 
5.トライイン - Tryin' 

ジョシュア・ツリーで一晩過ごし撮影
写真はCSNなどで知られるヘンリーディルツ

デビューアルバム発売後の(1973年)のLIVE映像

Eaglesへの失望

自分は最初に洋楽に接した中学生の時、AMラジオの洋楽ベスト10のトップが呪われた夜(1975)だったことを記憶している。

この曲のヘンリーのソウルフルなボーカルやDon Felderのギターに、また「いつわりの瞳」の爽やかなコーラスもにすっかりと魅せられ、彼らの魅力にはまっていく。
「呪われた夜」、そしてその前作「On the Border」を手に入れたが、初期のカントリーロック期の2枚にはなかなか触手は伸びなかった。
バンジョーが鳴るカントリー風味が苦手で、AORが出始めた当時だとサウンド的にも古臭く感じた。

そして、1976年発売された「Hotel California」に仰天する。
初期2枚に貢献したバンジョーの名手Bernie Leadonが脱退し、ハードロック要素の強いJoe Walshが加入しFelderとのツインリードになり、ヘンリーのボーカルとツインリードに支配されたハードなサウンドに変貌する。
Eaglesは実態を超える巨大な幻想を纏い、全米随一のバンドにのし上がる。

勿論、自分はイーグルスを追いかけ、79年の来日公演、解散後の再結成ライブはハワイのアロハスタジオで観た。

ところが、ある時期から全くイーグルスとは疎遠になり、特にグレン・フライに対しての印象は悪化する。
その要因がドン・フェルダーの解雇とその後の裁判沙汰。
そして、フェルダーの暴露本の発売。

その後はイーグルスに対して嫌悪感さえ持つようになった。

だがその後Punch Brothersのようなブルーグラスに関心を持つことで、そのジャンルで活用されるバンジョーやマンドリンという楽器やそれらを駆使したカントリーロックに関心が湧く。そして、そのルーツ的な存在のFlying Burrito Brothersや、そのメンバーだったバーニーレドンが活躍していた初期イーグルスを、改めて聴くことになりその魅力を再発見したのだ。

Linda Ronstadtが語るイーグルス結成秘話

Don HenlyとGlenn Freyの出会い

一般的にイーグルスはLinda Ronstadtのバックバンドだった、というのが定説だが、実際に4人揃ってツアーに出たり録音したという事実はない。
事実は数日、ディズニーランドのステージで4人がリンダと共にライブで演奏したに過ぎないが、それが結成のきっかけであることは間違いない。

Linda Ronstadtは自伝の中で、イーグルス誕生の経緯を語っている。
「当時、プロデューサーだったJohn Boylanが、私のサポートバンドを作ろうと奔走していた。ある日トルバドゥールでドン・ヘンリーのドラムを耳にしたとき、スゴイって思った。だからジョンに、ドン・ヘンリーにドラムをやってもらうように言った」

Don Henlyはテキサス州ギルマーという町の出身で、ノーステキサス大学に進む。その後LAでSHILOH(シャイロ)を結成、ケニー・ロジャースのプロデュースでレコーディングされ、1970年「SHILOH」はリリースされるが、不発に終わる。
ヘンリー以外にはAl Perkins(Steel & Electric Guitar)、Jim Ed Norman(Organ, Piano)と後にイーグルスと関わるメンバーも属していた。Perkinsは後に Flying Burrito Brothers、Manassasに加わり「On the Border」にも参加、Jim Ed Normanはイーグルスのストリングス・アレンジャーとしても活躍した。

『ギタリストは最初バーニー・レドンが欲しかったんだけど、彼はその頃すでにフライング・ブリトー・ブラザーズで活動していたからダメだったの。それで私、「わかった、じゃグレン・フライにするわ。彼はすごく上手いわよ」って言ったの。当時私はJ.D.サウザー(後にイーグルスと多くの楽曲を共作した)と住んでいたんだけど、グレンはJ.D.の友人でミュージックパートナーだったのよ』

デトロイト出身のGlenn Freyは現地ではボブ・シーガーと懇意にしておりレコーディングにも参加していた。故郷からLAに出てくると同郷のJD Southerロングブランチ/ペニウィッスル(LONGBRANCH/PENNYWHISTLE)を結成。70年にデビューするがパッとせず解散する。

JDとフライは共同生活を送っていて、彼らの階下に住んでいた人物がJackson Browneだった。後にJ. D.SoutherとJackson Browneは曲作りに不安を抱えていた、ヘンリー&フライのブレーンとして大きな貢献をするのである。

『バックバンドのメンバーとしてツアーに帯同してくれていたグレンとドンはずっと相部屋だった。そうして一緒に過ごすうちに2人は、片方が優れたシンガー(ドン)、もう片方が優れたソングライター(グレン)だってことに気づいたのよ。グレンは「いつかヘンリーと一緒にバンドをやるよ」ってよく言ってた。私は「それはいいアイデアね」って勧めていたのよね』

Bernie LeadonとRandy Meisner

『ジョン(John Boylan)は「2人がバンドを結成するなら、僕が力になれるよ。レコード契約が獲れるまで、リンダのバックで演奏したり、ライブやったりしてればいいさ」って言った。それで私はもう1人のギタリストとして前バンドを脱退したバーニーレドンを提案し、ジョンはベーシストとしてランディ・マイズナーを提案した。これが、イーグルスの誕生よ』

Bernie Leadonはギター以外にbanjo、steel guitar、mandolinも弾きこなすマルチプレイヤー。
リンダはレドンとは既知の仲で、69年にリンダがソロになった際のバックバンド、コーヴェッツに属していたことがあった。

1964年故郷からサンディエゴ、そしてフロリダに移住したレドンは後にイーグルに加入するDon Felderに出会い友人となる。67年にはHearts&Flowersに加入してLAに移り住む。
1968年バンジョー奏者ダグ・ディラードと元バーズのジーン・クラークが結成したディラード&クラーク(Dillard&Clark)に参加。レドンはバンジョー、ギター、ベース、バッキングボーカルを担当した。また、6曲で作曲にも大きくかかわり、レドンとクラークの共作による収録曲 Train Leaves Here This Morning (B-1)は、後にデビュー作「Eagels」にも収録された。

1969年、ディラード&クラークを脱退。クリス・ヒルマングラム・パーソンズが結成したFlying Burrito Brothersに参加し「Burrito Deluxe」(1970)、「The Flying Burrito Bros」(1971) の2枚のアルバムに参加するが脱退。
グラム・パーソンズについては下記の記事も参考にしてほしい。

と、既にウエストコーストロックの歴史の中で、それなりの実績を積んでいたのがレドンだった。

ベースのRandy MeisnerRichie Furay、Jim Messinaと知り合い、Pocoの結成に参加するがデビュー直後に脱退する。
マイズナーは有数のハイトーンボーカルを誇り、彼の高音のコーラスが当時のイーグルスのシンボルでもあった。
マイズナーのボーカルによるTryin'(B-5)を、デビュー当時の貴重なライブ映像で。

この2人はFlying Burrito BrothersPocoというカントリーロックの有名バンドにいたため知名度は高く、その後にバンドを支配するフライとヘンリーより格上として扱われたため、デビュー時は4人の均衡は保たれていた。

さらに、フライからはJDをイーグルスに入れるプランが提示されたが、Randy Meisnerに拒否される。理由は「フライと親しいJDが入ることでバンド内のバランスが崩れる」ことだった。当時からフライに支配志向があった証で、これは近い将来に明らかになる。

デヴィット・ゲフィンとグリン・ジョンズ

Asylum RecordsとDavid Geffen

イーグルスはなぜか当時の日本の宣伝ではアサイラムの寵児」と呼ばれていて、中高生の自分にもそのレーベル名はしっかりと刻まれた。
アサイラム(Asylum)はウエストコーストロックに特化したレーベルで、この分野を探すならアサイラムと呼ばれるほどの信頼のブランドになっていた。
自分もこのレーベルから新人が出ると注目していたものだった。

アサイラム(Asylum)は後にエンターテインメント業界の成功者となるデヴィットゲフィンが設立したレーベル。設立者のゲフィンは60年代末から、CSNYなどのマネージメントを行っていた。70年にはJacksonBrowneとマネジメント契約を結びレコード・デビューにむけ奔走していた。結局自らアサイラム・レーベルを設立してデビュー作「Jackson Browne」を出すことになった。
Glenn FreyはJackson Browneよりゲフィンを紹介され売り込むが、ソロではなくバンドなら契約すると言われてバンド結成を目論んでいた。

そして1972年1月記念すべきアサイラム第一回の新譜「Jackson Browne」が発売される。
4人組のバンドになったEaglesもゲフィンを訪ね売込み契約を勝ち取り、アサイラムよりデビューが決定する。
アサイラムは同年には Joni Mitchellの『For the Roses』などをリリース。
Linda Ronstadtも1973年に発売された「Don't Cry Now」より移籍。
その後もTom WaitsNed Doheny、さらにはBob Dylanのような大物を獲得しレーベルとして巨大化。ゲフィンは後にアサイラムを売却、ゲフィンレコードを創設し、さらにはスピルバーグとドリームワークスを創立する。
結局、イーグルスとゲフィンは曲の権利を巡って争うのである。

グリン・ジョンズとの確執

1971年11月、デビッド・ゲフィンは敏腕プロデューサーGlynJohns(グリン・ジョンズ)に電話をして自信満々に「ぜったいに売れるバンド」だと1作目のプロデューサーへと勧誘する。
ジョンズはストーンズのエンジニア、ザ・フーのプロデュースなどを歴任し、当時は売れっ子プロデューサーとなっていた。
コロラドのクラブでの演奏を観に行くと、ロックンロール主体の演奏は光るものは無くぎこちなささえ感じるもので、失望して帰ったと言う。

ゲフィンはあきらめることなく、再度LAで演奏を見学するよう懇願。しかしロックンロール主体の演奏には演奏には見るべものはなく結果は同じ。
帰ろうとしたジョンズにメンバーは「グリンにもう1曲、Most of us are sad(A-4)だけ聴いてもらおう」と提案。Randy Meisnerがリードを歌う曲で、彼らはその曲をベースとドラムなし、生ギターをバックにコーラスを披露した。

「そのハーモニーは天からの贈り物だった。わたしは唖然となった。4人とも優れたリードシンガーで、それぞれがまったく異なる声を有していた。その四声が合わさると、この上なく美しいサウンドを創りだす。」

サウンドマン グリンジョンズ

デビュー当時のフォークのトラディショナル曲Silver Daggerをハモる映像。こんな感じだったのか。こうして、4人のハーモニーの力でデビューを勝ち取ったのである。

ロンドンで録音が開始されると上から目線のジョンズとメンバーとの対立が露わになる。まず全ての薬物を禁止する方針にヘンリー以外が反発。
さらにロックンロール路線のフライ&ヘンリーとジョンズのカントリーロック路線の対立。
リーダー志向のフライをジョンズは認めずに、経験豊かなレドンを評価し彼を中心としてカントリーロックスタイルに仕立てる。
Take It Easyには彼の指示でレドンのバンジョーが入り、さらにカントリーテイストが増した。
レドンのバンジョーがフューチャーされたEarly Bird(B-8)は最もカントリー色の強い曲。

グリン・ジョンズは、エコーなどの残響効果を多用し、ギターやコーラスの広がりが今までのアメリカンサウンドとは違った。そのためカントリーロックでありつつも土臭さはなく、それ故にメジャーになった。
それがゲフィンやジョンズが彼らをロンドンまで送り込んだ思惑だった。

グリンジョンズとイーグルスの関係は2作目の「ならず者」、そして3作目の「On The Border」まで続くと思われたが、「On The Border」で2曲を録音しビル・シムジクに交替となる。
カントリーロック路線を維持したいジョンズだが、ハード路線に舵を切りたいフライやヘンリーの逆襲で解雇されたわけだ。
このアルバムからカットされたBest of My Love。レドンのスティール・ギターが効果的なバラードはイーグルス初の全米一位をもたらす。皮肉なことにこの曲は解雇したジョンズが担当した2曲の中の1曲だった。

Take It Easyとフライの死

Take It Easyとジャクソン・ブラウン

当時グレン・フライと同じアパートの階下に住んでいたジャクソン・ブラウンは『テイク・イット・イージー(Take It Easy)』を作っていた。しかし歌詞を仕上げられず、書き足して完成を手伝ったのがフライだ。そしてジャクソンは気前良く、その曲をフライに提供した。
曲の出来栄えを気に入ったグレンは、デビュー・アルバムのオープニング・ナンバーに『Take It Easy』を収録した。
全米12位のスマッシュヒットを記録、イーグルスは新進のカントリー・ロック・バンドとして認知された。
ジャクソンも2枚目の「For Everyman」でセルフカバーしている。自分が観たジャクソンの初来日公演でも初曲で演奏された。

ジャクソン、リンダ、イーグルス という豪華メンバーによるTake It Easy

ジャクソンは本作にNightingale(A-5)という曲も提供している。ヘンリーの歌うこの曲はロンドンでの録音はジョンズに却下されたが、ゲフィンのゴリ押しでLAで再度録音された。ヘンリーのハスキーボイスを気に入ったゲフィンの意向だったが、その後のイーグルスでのヘンリーの活躍を考えるとゲフィンの商売的な勘は当たっていた。

ヘンリーは2曲歌っており、もう一つがA-2のWitchy Woman(魔女のささやき)である。これはレドンとの共作だが、ヘンリーは歌詞の提供に止まり本作では曲の提供はない。本曲はTake It Easyを超える9位まで上がっている。

JDとイーグルスとの関係は長く解散まで続くが、ジャクソンとイーグルスの曲作りは「ならず者」のDoolin Dalton、「On The Border」のJames Deanまで続くがその後は途切れる。

グレン・フライの追悼に参加したバーニー・レドン

イーグルスをビッグにした立役者グレン・フライだが、2016年1月67歳の若さで逝去する。

そして第58回グラミー賞授賞式にて、グレン・フライの追悼としてTake It Easyを、ドン・ヘンリー、ジョー・ウォルシュ、ティモシー・B・シュミットという現メンバー、共作したジャクソン・ブラウン、そして脱退したバーニー・レドンも参加して演奏された。

フライと最も対立し、脱退したレドンの参加は感慨深い。

レドンは「On The Border」の録音の際に、旧知のドン・フェルダーを5人目のメンバーとして招き入れる。
が、皮肉なことにフェルダーの参加がハード路線に拍車をかけ、カントリー志向のレドンは耐え切れず、「呪われた夜」リリース直後に脱退する。
レドンがイーグルスを脱退する間際には、グレン・フライの頭にビールをぶっかけて去って行ったという逸話がある程、二人の仲は険悪だった。
レドンが最後に残した「魔術師の旅」はインストルメンタルで、バンジョーとオーケストラの組み合わせという異色の曲。「プログレッシブ・ブルーグラス」とも言うべきこの方向性が、当時のイーグルスとは合うはずもなく、これがレドンの置き土産となる。

その後ドン・フェルダーは名曲Hotel Californiaを作曲し、素晴らしいギターソロを弾き名盤の成立に貢献する。
が結局フライと対立し、最終的には解雇され、裁判を繰り広げる。
それ以前にはマイズナーもフライと対立して脱退した。

全米随一のバンドに成長したイーグルスだが、稼げるバンドになるために対立劇を繰り広げ、後味の悪い道のりとなった。
フライは企業のリストラ役のように邪魔者を排除し、ヘンリー&フライ体制でバンドを支配した。

フライはバンド運営についての基本的な考えをこのように話していた。
「すべてを計画的に実行してきた。私たちはポコやザ・フライング・ブリトー・ブラザーズなどが、初期の勢いを失っていったのを見ていた。自分たちは同じ間違いは決してしないと決心し、ベストを尽くして取り組んだ。みんなルックスを良くし、上手に歌い、上手に演奏し、いい曲を書く。私たちはすべてを求めていた。同時代の人たちから評価され、AMラジオでもFMラジオでも曲が流れ、No.1シングルやNo.1アルバムを多く出し、優れた音楽を生み出し、そしてたっぷり稼ぐ、とうことだ」

Peaceful Easy Feeling

最後にデビュー作からシングルカットした名曲Peaceful Easy Feelingで締めくくる。
本記事ではフライを批判的に書いてきたが、この曲のボーカルは素晴らしく、何とも気持ちが和む。
また、レドンのハーモニーボーカルとBベンダーがのどかな雰囲気を演出している。Bベンダーとは、ペダルスチールのニュアンスをエレキギターで出すために開発されたギターで、レドンは得意としていた。

本曲や「過ぎた事」(Already Gone)の作者として、JDやジャクソンと同様に貢献してきたのがジャック・テンプチン(Jack Tempchin)である。

彼はイーグルスのグレン・フライがソロとなっても付き合いは続き、ソングライト・パートナーとして「The One You Love」「Sexy Girl」「Smuggler’s Blues」「You Belong To The City」などを手掛けてきた。

Peaceful Easy Feelingは同じくイーグルスのブレーンであったジャクソン・ブラウンにも歌われていた。

「だって今は穏やかでくつろいだ気持ちなんだ、僕はもう大地に足をつけて立ってるんだ」
という歌詞が胸に染みる、テンプチン本人の歌うPeaceful Easy Feelingで本稿を締めくくりたい。

Side A
1.Take It Easy (Glenn Frey Jackson Browne) Vocal;Frey 
2.Witchy Woman (Don Henley Bernie Leadon) Vocal;Henley 
3.Chug All Night (Frey) Vocal;Frey 
4.Most of Us Are Sad (Frey) Vocal;Randy Meisner 
5Nightingale(Browne) Vocal;Henley 
Side B
1.Train Leaves Here This Morning (Leadon Gene Clark)  Vocal;Leadon 
2.Take the Devil (Meisner) Vocal;Meisner 
3.Earlybird(Leadon Meisner) Vocal;Leadon
4.Peaceful Easy Feeling(Jack Tempchin) Vocal; Frey 
5.Tryin'(Meisner) Vocal; Meisner 

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