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「幾千万の自分への裏切りの果てに。」   阿利明美

あなたは、自分に毎時間、毎分、毎秒、正直でいますか?

私は、もしかして、子どもの頃からカウントすると、
かなりの回数、自分を裏切ってきたんじゃないだろうか?

ふと、コーチングについて考えていた時、そんなことを考えました。

自分のものさしと、世の中のものさしとは違うけれど。

人間は、社会性の生き物。
仲間の中で共に生きることで、発展してきました。

その仲間の中で生きるには、
「自分がしたいこと」ばかりしていては、なかなかうまくいかない。

小さな集団だった仲間は、時代を経て、
社会が広がり、つながるにつれて、大きなシステムになっていきます。

私たちは、そのシステムの中でうまく立ち回るために、
家族や学校、地域の中で、(もしくは現代はインターネットの中でも)、
無意識のうちに大きなシステムのものさしをインストールしていきます。
意識的に、もしくは強制的に。

それは、子ども時代。
「自分のものさし」を確立する前に、
システムのものさしをインストールされていきます。

学校での立ち回りも、成績も。
学歴も、会社も、収入も、
悪いと思っていないのに「ごめんなさい」と言わされる習慣も。

うっかり、
親の、先生の、社会の、上司の、地域の…
自分以外のものさしを重視してしまいます。
もちろん、そのものさしが、自分の本来の在り方と違和感のないものなら、なんの問題もない。

だけど、それらが、微妙に自分のものさしとずれていたら?
かなり大きく自分のものさしとずれていたら?
そう考えると、私たちは、毎秒毎秒、自分を裏切っていることになるのではないでしょうか?

絵を描いていて、気づいたこと。

私は、絵を描くことが好きです。
そして歌を歌うことも。

その趣味について描いたエッセイを、雑誌「めぐる、」が掲載していただきました。同時に、たまたま表紙に私の水彩画を掲載してもらいました。
この時に、あれ?と思ったのです。
なぜ、私は絵を描くことをしっかりと学ばなかったのだろう?
なぜ、私は歌を歌うことをしっかりと学ばなかったのだろう?

美術大や音楽大に行った人は周りにはいなかったけれど、そもそも美術や音楽が仕事になるとは思わなかった。
もちろん、自分に芸術の才能があるかどうかは知りません。
学び続けたからと言っても、ものになったという確証もありません。

評価されていても、
その評価が、
自分のものさしと違ったものさしでの評価だったなら?

ただ、私は、学校の成績が良かったから、当然にそのまま難関大学に入って、官僚になったり有名企業に入ったりすることを求めているし、求められていると思って、そっちの方面に邁進してしまいました。

いまだに進学校での高校生活は、楽しかったと同時にトラウマにもなっているのです。

さまざまなものさしが当時の校内、クラス内にはあったけれど、一番、力を持っていた(と私が思っていた)ものさしは、「成績」という数字でした。
夢のために、という名目で受験勉強を頑張ってはいたけれど、副産物としての「成績」によるものさしによって、先生たちから高評価を得ている自分にとても満足してもいました。
受験の結果も、先生方からは、大変満足のいく進学先に決定し、学校の評価も高めることになったわけです。

受験勉強そのものは嫌いではなかったけれど、
でも、
私はたぶん、ランク付けされていることにかなり傷ついていたのだと、今頃になって気づき始めています。
その中で優秀であると評価されていたにもかかわらず。
なぜなら、それ以外に、当時は自分の軸となるものがまだなかったから。

「たぶん」という言葉がたくさん続きますが、
それはまだ私が、この自分を裏切り続けてきたことを発見したてだから。
まるで世界や人生がひっくり返るような、価値観の転換だから。

必要以上に、自分を裏切っていませんか?

自分のものさしが社会生活の中で、いつも正しいとは限らない。
社会の中で生きていくために、自分を裏切る必要もあったでしょう。

でも、たぶん、私は必要以上に、自分を裏切り続けてきたんじゃないだろうか?
ちょっとそんなことに気づくようになったのです。

かといって、私自身が、これまでの人生が失敗だったとは思ってはいません。
「今」という自分に気づいたこの瞬間に至るための道のりだったのだから。

あなたは、何度、自分を尊重してきましたか?

自分に対する裏切りを、
積み重ねて、年を重ねて、
また、自分に気づいていくのが人生の一つのあり方なのかもしれない。

長い、旅の途中。

あなたは、これまでの人生で、
自分を何回、裏切ってきましたか?
あなたは、
自分の声を何回、尊重してきましたか?

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