見出し画像

片山杜秀「スポーツは野蛮である」(その2)〜『スポーツ劇』(2016)特設サイトより

KAAT神奈川芸術劇場と地点による共同製作作品『スポーツ劇』。その特設サイトにリレー形式で寄せられたエッセイの紹介です。
第2回目からは、初回の三輪眞弘氏のエッセイ「オリンピックに向かう社会」とイェリネク『スポーツ劇』のテキストから触発されたことを、各執筆者の研究分野と結びつけて自由に書いていただきました。
今回は片山杜秀氏の「スポーツは野蛮である」全3回の2回目です。

※《CHITEN✕KAAT》特設サイトの本稿掲載ページはこちら

その1を読む

かたやま・もりひで
1963年生まれ。音楽評論家、思想史研究者。専攻は政治学。2006年京都大学人文科学研究所より「戦前日本の作曲界の研究」で人文科学研究協会賞を授与される。2008年『音盤考現学』『音盤博物誌』で吉田秀和賞およびサントリー学芸賞受賞。2012年『未完のファシズム──「持たざる国」日本の運命』で司馬遼太郎賞受賞。慶應義塾大学法学部教授。(2016年時点の情報)

 私がサッカー部の練習で「名誉の負傷」をした翌月か翌々月のこと。昼休みに級友たちと運動場で野球をやっていた。野球といってもビニール・ボールとプラスチックのバットによる簡易なものだ。真似事だ。でもいちおう野球のつもりだった。
 その野球はどんな状況下で行われていたか。広々とした草っ原で呑気にやっていたのか。そうではない。学校の運動場はコンクリート舗装だった。転ぶと極めて痛い。そこでサッカーも野球もしていた。しかも、そう広くはないグラウンドに、1年生から6年生までがひしめいている。何百人もがまちまちに動き回っている。過密も過密。おまけに、私たちが野球をやっていることから類推されるように、道具の使用も球技も禁止されていない。私たちの野球で内野手をやっている友達のすぐ横に、別の野球をしている上級生が背中を向けて立っている。そんな具合だ。狭いグラウンドの中でさまざまな球技の縄張りが幾重にも重複している。そのうえ野球のみならずサッカーをしている者まで居る。今、思えば、猛獣の居るアフリカの平原に裸で捨てられたくらいに、いや、東名自動車道か何かの道の真ん中に丸腰で捨てられて「どうぞ、はねられてください」と言われるくらいに危険である。それでも休み時間はグラウンドで遊ぶのが良い。運動をするのが良い。スポーツへの憧れを育てるのが良い。これはもう一種の信仰であろう。しかも、その信仰の上に日々繰り広げられる、「交通戦争」も真っ青の過密なグラウンドでのドラマから、大きな事故が起きたり、怪我人が出たという話は、不思議と聴いたことがなかった。その日の私の事故までは。
 私はそのとき野球でピッチャーをしていた。フライやゴロや送球を捕球するような運動神経を有していないと周囲から認定されていたので、投げる役しか残らなかったのである。何球目だったろうか。投げようとした。投球フォームらしいかたちをしてみせた。サウスポーなので右足を上げて投げようとした。そこで記憶はとだえた。気が付くと医務室に寝かされていた。
 聞くところによると、私が投球すべく片足立ちで腰高に不安定になった一瞬の虚をつくように、サッカー・ボールを追う上級生が横からしゃにむに突撃してきて私を突き飛ばしたのだという。私はグラウンドを覆うコンクリートにひどく頭を打ち、またも気絶した。ヘディングに失敗して血染めにしたばかりのグラウンドに、それからわずかの日を経ただけで再び沈んだ。サッカーの次は野球。ぶつかってきたのはサッカーをやる上級生。
 私は意識を回復してからしばらく茫然としていた。ただ寝ていた。しばしたって母が迎えにきた。担任の教師が電話で自宅に知らせたものであろう。医務室の看護師は、ぶつけた頭が心配なのですぐ病院に連れてゆくようにと、母にすすめた。いま思えばなぜ救急車を呼んでくれなかったのか不思議な気もする。ともかく、自宅もよりの総合病院に、学校の近所からタクシーを拾って向かった。着いた病院の待合室で私は激しく嘔吐した。そのときの周囲の大人たちの戸惑いが忘れられない。私ももう駄目かもしれないと思った。
 ようやく診察の順番が来た。医師は糸でつるされたコインを振り子の要領で左右に振ってみせた。そしてコインが幾つに見えるかと尋ねた。私はひとつに見えた。ひとつしかないものがひとつに見える。これでは異常なしではないか。けれど私は頭がまだボンヤリしていたし、ひどく調子が悪かった。野球とかサッカーとか学校とかいう危険な世界から離脱するように、私の心に何者かが絶対的命令を発していた。
 「2つに見えます」。何の躊躇もなくそう答えた。医師は即座に私の入院を決定した。それから短いあいだ、私は危険から身を潜めて療養することができた。
 そのあと、当然ながら長い学校生活が続いた。小学校、中学校、高等学校。同じ学園で12年をすごした。サッカー部からは小学校2年生の入部直後に真っ先に退けたとはいっても、校技のサッカーはいつまでも付いてまわる。サッカー大会に体育の時間。サッカーをやる。けっきょく高校までサッカーである。高校生のときの体育の授業では、グラウンド半面を使い、11人対11人ではなく、6人対6人で、ミニ・サッカーと称するものをやり続けた。リーグ戦で学期中ずっとやっている。6人は、フォワードとハーフが2人ずつ、バックとキーパーが1人ずつに編成されていたと思う。私はバックである。後衛である。サッカーをやるのは、特に小学校2年生の頃からもちろん猛烈に嫌いだが、観戦はそれなりに楽しめる人間に育っていた。授業でサッカーとなれば仕方ない。バックとして真面目に捨て身でゴールを守った。よく血みどろになった。顔面をサッカー・ボールが直撃することはどうしても時折ある。そういうときは鼻血である。眼鏡が鼻の表皮にめり込んで、裂傷を作って血が流れることもあった。
 それからこんなことも。 ロング・シュートを阻止しようとした。着地点に先回りする。そのつもりだったのに目測を誤った。振り返ってボールを胴体に当てるはずだったのに、その前に、ボールに先んじて走っているつもりの私の後頭部をボールが直撃した。なぜだあ! ここまで見事に命中せずともよいではないか。けれど、不思議と衝撃は軽かった。カラスに蹴られた程度。なんともなかった。眼鏡を除いては。眼鏡は飛んでいった。走っている私の顔から眼鏡が離れた。ロケット・エンジンでも付いているかのようにビュワーンと飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ。走っても追いつかない。眼鏡がゴール・インした。キーパーの目が点になった。超現実的だ! これこそシュールだ!! と思ったら転んだ。膝を派手に擦りむいた。眼鏡はゴールの網にひっかかっていた。
 体育の毎時間、捨て身の防衛戦が続いた。私は満身創痍である。そのかいあって、と私は信じていたのだが、チームの失点はとても少なかった。相手に1点も与えない試合も幾つもあった。ところがその学期についた体育の点数はとても低かった。100点満点で55点である。しょっちゅう負傷しているというのに、これはおかしい。体育の教師に文句を言いにいった。だが、彼はまったく動じない。データに基づく合理的採点を行っているという。キーパーは失点の少なさが評価につながり、他の生徒はシュート数や得点数をポイント化して、基礎点数に上積みして最終成績を出しているという。そう言えば体育の教師は毎回の授業終わりにその種のデータを生徒からの自己申告にしたがってまめまめしくとっていた。
 「だからね、君の場合は、キーパーでもないし、シュートもしていないし、もちろん得点もあげていないわけだろ」。「そうですけど」。「だから基礎点数に何の上積みもないわけ。よって不合格にならないギリギリのところでね、55点のままなんだよ」。「でも眼鏡は壊すは、血も出して、顔だって傷だらけだし、眼鏡代だけでものすごいお金になってるんですよ。このディフェンスの仕事は評価されないんですか」。「専守防衛じゃ、点にならないよ。他の生徒はバックったって、前にあがってシュートすることもあるんだ。みんなそうなんだ。君だけだよ。このクラスで一回もシュートしたという申告にこなかったのは」。「でもディフェンスなんですから。役割に徹すればシュートしにいくはずないでしょう」。「専守防衛は国際的評価に値しないんだよ。攻撃に加わらないと。分かりますか」。「個別的自衛権だけではだめなんですか」。「駄目ですね。評価されたかったら、眼鏡を壊すだけではなく、シュートしなさい、シュート。男ならシュートだよ。男はシュートするんだ。分かったか。君は55点が正当な評価なんだ。くやしかったら攻撃しなさい」。
 以上の会話の一部は、今日の状況をふまえた創作だけれども、大筋はそのままである。とにかく専守防衛が評価されなかったことの悔しさは三十数年経っても忘れられない。私の内に今も怒りがこみ上げてくる。

その3につづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?