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片山杜秀「スポーツは野蛮である」(その1)〜『スポーツ劇』(2016)特設サイトより

KAAT神奈川芸術劇場と地点による共同製作作品『スポーツ劇』。その特設サイトにリレー形式で寄せられたエッセイの紹介です。
第2回目からは、初回の三輪眞弘氏のエッセイ「オリンピックに向かう社会」とイェリネク『スポーツ劇』のテキストから触発されたことを、各執筆者の研究分野と結びつけて自由に書いていただきました。
今回は片山杜秀氏の「スポーツは野蛮である」全3回の1回目です。

※《CHITEN✕KAAT》特設サイトの本稿掲載ページはこちら

かたやま・もりひで
1963年生まれ。音楽評論家、思想史研究者。専攻は政治学。2006年京都大学人文科学研究所より「戦前日本の作曲界の研究」で人文科学研究協会賞を授与される。2008年『音盤考現学』『音盤博物誌』で吉田秀和賞およびサントリー学芸賞受賞。2012年『未完のファシズム──「持たざる国」日本の運命』で司馬遼太郎賞受賞。慶應義塾大学法学部教授。(2016年時点の情報)

私は断じて思うのだが、スポーツは野蛮である。
 春の早朝、学校のグラウンドに居た。小学校2年生のとき。サッカー部の練習だ。授業前の午前7時台に集まらねばならない。小学校といっても家の近所ではない。東京の都心の私立学校である。自宅から片道45分はかかった。午前6時すぎに家を出る。まだ満7歳だというのに。重いランドセルを背負い、電車に揺られ、最後は急勾配の坂の上を目指して懸命に駆け上がる。それでようやく学校だ。教室でサッカー着に着替え、運動場に整列。朝のグラウンドには、その頃、日が射さなくなってきていたのではなかったか。すぐ近くに建築中の高層ホテルの背が伸びてきて、次第に朝日をさえぎりはじめていた。そのせいで朝の寒さがいちだんと身に染みたように思う。
 だったら行かなければいいではないか。サッカー部ということはクラブ活動だろう。入りたい者だけが入って、練習したい者だけが早朝に行くのだろう。すると私はサッカーがしたかったのか。サッカー部の早朝練習に参加したかったのか。そうではなかった。私にとって、運動は幼稚園の頃から走ることを除いては苦手だったし、でんぐりがえしにも鉄棒にも苦労していた。楽器の練習でも、指回りがあまりに悪く、教師を呆れさせていた。運動部に入りたいなどとは断じて思わなかった。ところが入った。なぜか。事実上、強制入部だったからである。
 私の通っていた私立学校ではサッカーが校技として位置付けられていた。制服は、ヨーロッパのサッカー好きで有名な某国の昔の軍服を模しており、校内の催事として毎学期、クラス対抗のサッカー大会が催されていた。運動会と別にサッカー大会がある。運動会は秋だけだが、サッカー大会は年に3度もある。その日は一日中、サッカーをしている。体育の時間でも年柄年中、サッカーをしている。大会に勝つために練習をしなければならない。その練習時間に体育の授業があてられていた。
 そのほかにサッカー部の活動もあった。小学校1・2年生時のクラス担任だった老教師は学校愛に充ち満ちていた。校技がサッカーであることを他の教師たちよりも一段高いレベルで誇りにしていた。サッカーが規律と道徳を生む。子供に秩序をもたらす。団体競技は魂の鍛練場である。担任教師の信念だった。
 「サッカー部強制入部」はそんなクラス担任の独自方針。同じ学年でも他のクラスは違っていたと思う。緩かったはずである。だが私のクラスでは、校技であるサッカーを心の底から愛せない者は学校の門をくぐってはならず、教室の椅子に座る資格もなく、そういうサッカー愛の生徒自らによる表現の最善の手段はサッカー部への入部と早朝練習の参加と、相場が決められていた。
 小学校2年生の一学期の始業式の日。ホーム・ルームの時間で担任教師から渡されたのは、学費の振込み票、給食費の降り込み票、それとサッカー部費の請求書だった。さすがに心も身体も幼すぎる小学校1年生はまだサッカー部に入部したくとも確か禁止であった。2年生からなのである。2年生から入れる。いや、入らねばならない。否も応もない。サッカー部に入らず早朝練習に参加しない者は校門をくぐってはならない。「非生徒」「クラス構成員外」のレッテルを貼られる。私はそのように認識していたし、クラス・メート全員がそのように考えていたし、入部の手続きをしたはずである。私でさえ入ったのだからそうだったのであろう。「非国民」のそしりからは免れたい。人はしばしばそう思うものだ。子供はいちだんとそうだ。敏感だ。私はきちんと空気を読み、体操着とは別のデザインの、学校指定によるサッカー着までわざわざ購入して、週に何度かの早朝練習に参加するようになった。
 まだ何回目かというときのことだったろう。その日の早朝練習の課題はヘディングであった。ボールをヘッドで受ける。額の上のあたりで跳ね返す。サッカーの基本的な技のひとつである。私もサッカーの真似事を幼い頃からすでに何度もしていたし、体育の授業でサッカーをやりはじめてもいた。テレビ等でサッカーの試合を観戦することもあった。幼稚園のときのメキシコ・オリンピックで多少は火の付いた日本におけるサッカー・ブームの様子も少しは分かっていた。ヘディングについても知らないことはなかったし、体育の教師や上級生が間近でヘディングを行うのを実見してもいた。
 しかし、自分でやるとなると話は別である。まだ一度も経験したことはなかった。ところが、その日の朝、いきなりヘディングをやれという。馬鹿な! サッカー・ボールだぞ。痛いに決まっているではないか。大いにひるんだ。でも練習せねばならないという。しないわけにはいかない。何しろサッカー部員なのだ。上級生が顔めがけてボールを投げつけてくる。みんな簡単にこなしている。私の番がきた。ただちにサッカー・ボールが飛んで来た。眼前に。どうする! からだが固まっている。何もできない。動かない。まずい。少し前に首を傾げて、ボールを受ければいいだけ。でも硬直しているものはしようがない。ぶつかる。ぶつかった。顔面に。強烈に。痛い。気が遠くなる。ボールを投げた上級生がすぐ正面に立っている。その目が点になってゆくのが朧気に分かる。熱いものが溢れてくる。鼻血だ。しかも両鼻からだ。噴出する。どんどん! グラウンドに血が垂れる。血だまりができる。血だまりに倒れ込む。ノックアウトされたボクシング選手のように。
 つまりはサッカー・ボールを思いっきり鼻で受けて血まみれになって気絶したというわけだ。私はその日をもって、サッカー部を辞めることができた。練習の足を引っ張る不適格者と認定されたのだろう。ヘディングもできない前代未聞の生徒。いちおう傷痍軍人のようなものだから、サッカー部から退いてもクラスで「村八分」にされることはなかった。「名誉の負傷」、いや、あまりの不成績による「不名誉の負傷」とやはり言うべきなのかもしれないが、「命令」を守って「クラス構成員の義務」を果たし、健気に早朝練習に参加しての大流血事件だったから、まずは円満除隊。そういう体裁をとることができた。
 そうして私はいちはやくサッカー部から解放され、早朝練習を心配することもなくなった。喜びを満喫した。だが、スポーツの暴力の神は私をまだ許してはいなかった。

その2につづく

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