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差別と疎外感

毎週日曜日に行っていたチャリティー乗馬スクールでのボランティア活動をしばらく休むことにしました。ずっとなんとなく感じていたモヤモヤと馬たちと過ごす時間を天秤にかけては、多少もやっても馬たちと過ごせる時間に価値を置いていたのですが、12月中にレッスン、ボランティアとそれぞれ1回ずつ先方の都合で急遽キャンセルになったにもかかわらず、ちゃんとした連絡がなかったこと、さらに、元旦のボランティアをクリスマス前に先方に懇願されて承諾したという経緯があったにもかかわらず、当日行ってみたら誰もいなかったこと、が重なって、そこにどんな理由があれ、短期間になんどもそういう連絡漏れがあるということ(そして、そうしてもいい相手だと思われているようにも取れること)をいつまでも受け入れる気にはさらさらなれなくて、少し置こうという結論に至ったわけです。

お金を払ってレッスンを受けている限りは、それなりにお客さん扱いをされるのでそこまで敏感になることも少ないのですが、いくら無償労働を提供していても、中の人たちの一員になろうとした途端に、見えない壁を感じることは他のスクールも含め、度々ありました。それはただ単に、多くの人が子供の頃から経験を積んでいる人たちの中に、大した経験も知識もない(しかもエスニック・マイノリティの)大人を相手に、あれこれ説明するなどという面倒なことはする気になれないだけかもしれません。

ただ、日頃から、あからさまでは無いにしても、ほのかに感じる人種差別的な経験を日常的にしていると、何が実際に起こっていることで、何がただの被害妄想なのかが、よく分からなくなってくるように感じています。これは、この国にやってきた当初、まだ英語もろくに話せなかった頃には、言葉が不自由だからそういう扱いを受けるんだろうと思っていたことが、日常会話に不自由がなくなた今でもさして変わっていないことに気づき、と同時に社会の仕組みや問題もわかってくると、やはりそれは人種的なものなのではないかという考えに至っていたのでした。

面白いのが、白人英国人と結婚していた頃には、そういう風に感じたりしなかったということです。エスニック・マジョリティのパートナーという立場で、自分もそのグループの一員だという認識だったのかもしれません。

そんなことを今日、久しぶりにあった友人とワインを飲みながら話していました。彼は生粋のイギリス人かつ白人で私の父親くらいの年齢。年末にようやく売りに出していたフラットの買い手が決まって、その売買契約が完了したら、どこか暖かいところで隠居生活を送ろうと計画中です。

それは楽しみだね、と話しながら、私もどこか別の土地に暮らしたいな、もう人種差別の対象者として暮らすのに疲れたよ、と愚痴をこぼしたのが発端でした。私が極東アジア人としてそういう風に感じるのがよく分からないという彼に、どうして私がそんなふうに感じるのか、それはあからさまな差別というよりは、相手にされなかったり無視されたりという分かり辛いものであることが多いと説明し、それに対してマジョリティの立場である彼のの見解を聞いたり。色々とディスカッションをしていくうちに、人種的な差別はもちろんあるにはあるけれど、それは人種だけでなくて、白人間でも例えばフランスはイギリスが嫌いだとか、ロンドナーvs地方の人々だとか(これはロンドンのお金持ちに人気の地方でロンドンの人々が家を買うことで相場が上がり、地元の人が家を買えなくなる事態になっている問題など)、UK内でもイングランド人はイングランド外のUKの人々に良く思われていないだとか。それは外国人の私が外から見ていても、まあ確かにそうなんだろうなと薄々感じていたこともあるのだけれど、彼の話によると、場合によっては嫌がらせも結構あるだとか。結局のところ差別だとか、外の人に対する嫌悪感だとかはそこら中に転がってるのね。

そしてどうしてこの数年、私がこの案件に対してすごく敏感になったのか、を考えてみたら、エスニック・マイノリティが超マイノリティな馬コミュニティに足を踏み入れたというのはもちろんながら、今住んでいるエリアに引っ越してきてからかも、ということに気づいたのでした。ロンドンは人種の坩堝であるにはあるのだけれど、エリアによってその坩堝の程度は色々。そういえば、今ほど白人の割合が高くてアジア人があまりいないエリアに住んだことがなかったな、って。

外国に暮らしてもマイノリティだし、もはや今となっては自国に暮らしてもマイノリティになりそうな感満載だしで、なかなか厳しいけど、まあしょうがないよね、というところで話は落ち着き、2人ともいい感じに酔っ払い、珍しく1日中顔を見せていた太陽も就寝モードに傾いたところで解散したのでした。

自転車だと酒気帯び運転が許されてしまうのはどうなんだろうね、と思いながら無事に帰宅し、お茶を飲みながらnoteタイムを楽しんでいたところで、こちらの記事に遭遇しました。

自分がいくらみんなの一部のつもりでも、周りがそれを認めていなければ、ひょんな拍子に疎外感に苦しむことになる。自分の想いだけでは不十分なことがあるのだ。

私が人種差別をされていると感じることの多くは、「自分はみんなの一部のつもりなのに、周りがそうとは認めていないと思い知らされたことに、疎外感感じている」ということが根底にあるからなのではないか、と。だから、結婚していた頃も、ヨガコミュニティにどっぷり属していた頃も、わかりやすい「みんなの一部」だったから、その自信というか安心感から、差別を受けていると感じることはずっと少なかったのかもしれません。

それに引き換え今は、仕事でさえもどこにも属していないので、ある意味いつでも戦闘モードなのかも。人より動物と一緒にいる方がずっといいなどと抜かしている私でも、所詮、社会的動物である人間だということなのね、と思ったのでした。

ちなみに「人間=社会的動物」という言葉を探すのに「人間 群れ」で検索していたら、検索結果に上がってきたこの記事がなかなか面白かったので、リンクを貼っておきます。

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