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あなたとわたし/未来と今

(221025)まや
人に対して何かアドバイスとかするの難しくなるってわかる。
年齢とか経験的に(特に劇団ではベテランと言われるようになってしまった)
される側だったのがいつからかする側になり、
割と思ったこと言ってしまう性格なこともあって沢山言ってみるターンを経て、
あれ?と。
響くアドバイスをするのって本当に難しいというか、
思考回路の相性みたいなのもあるし、
逆効果になることすらあるなーって。
無駄に縛ってしまうというか。

中学の時バレーボール部で、後輩がサーブ打つ前に無駄な声かけをしてしまってサーブが入らずネットにかかってコーチに叱られたことがある。
「今のミスはお前のせいだぞ」って。
その後輩はちょうどいい塩梅でサーブ打ってて全然アウトになる感じでもなかったのに、
全く深く考えず「押しすぎないで〜」みたいな声かけしちゃったの。
そしたら弱くなってしまって相手のコートに届かないという。
コーチに言われたことは納得せざるを得なかったからその時の光景は今でも覚えてて。


相手のために

あの時ほど何も考えずに発言することはないけど、
アドバイスって結局相手に響いて初めて価値があるし、「自分が言いたいから」の理由で喋ってることは相手にバレるよね。
お喋りもそうかな。
自分のために喋ったって全然いいのだけど、
時々、相手のために喋る人というか、質問の仕方とかすごくうまい人に出会った記憶が過去何回かあって。
そういう人と出会うと、自分と立ってるステージが違くて良くも悪くもドキドキする。

ざっくりしてるけど、この人すごいなって思うような人は今まで、いた?


(221027)干城
いたのかな、思い浮かばないなぁ。
これまでに出会わなかったのか、僕が感知したり認識したりできなかったのか。
だからあんまり分かってないのかもな、まやの言っているような人。

相手を受け入れつつ、相手の自主性に働きかけることができる人は、素敵だな素晴らしいなと思う。
そうするには、お互いが自立しているっていうような前提がないと、あるいはそれを作らないと、難しいように思う。

っていう意見というか考えはあるのだけど、でもなんかやっぱり、わかるような感じはしつつも掴みきれてない感じもしてる。
「相手のために喋る人というか、質問の仕方とかすごくうまい人」っていうのは、どういう感じの人? どういう体験だったの?


(221102)まや
私が思い浮べたのは2人いて、友人(仮にAさん・Bさん)なんだけど、これ以上話すことないってくらいずっと聞いてくれたというか、
質問も沢山してくれて、しかも本当に興味を持ってる感じなんだよね。
インタビュー的な感じに近かったかな。
自分の話をあまりしない人、とも言えるかも。語るより聞く人。
2人ともコーチングという技術を学んだとは言ってて、私は詳しくはわからないけど、会話の中でおうむ返ししたりすると良いと聞いて、別の友人(Cさん)と話すときに実験してみた。
そしたら案の定「聞き上手だね」的に言われてびっくりしたんだけど、
でも、少し疲れちゃったというか。
Aさん、Bさんからは疲れた感じは感じなくて。興味も本当に持ってくれてる感じもして。
全部私の思い込みかもしれないけど、とにかくあーこの人すごいなって思った。


(221103)干城
なるほど。
ちょっと話がずれるのだけど、コーチングといえばというか、
FOOT×BRAINっていうサッカーに関わるあれこれをテーマにした番組があって、そこでちょくちょく育成の話題になってて。

こないだ、ビジャレアルってスペインのサッカーチームで、そこで育成に携わった佐伯夕利子さんの著書の、
『教えないスキル ビジャレアルに学ぶ7つの人材育成術』という本を読んで。
人口5万人程度の都市のクラブなんだけど、元々育成のビジャレアルって呼ばれるくらい下部組織からの育成に定評があるチームで。
で、この本は、そんな定評のあるチームが、その育成方針をここ数年で変えました、っていう本なんだけど。
組織として育成や指導における価値観やマインドセットを変えるんだっていう取り組みをしていて、それがすごいし、佐伯さんがそれをオープンに平易な言葉で語っているのもすごいんだよね。

今回の話題が出たときに思い浮かんでいたのだけど、なんかどう接続したら良いか分からなかったのが、コーチングって言葉が出てきたから、どこかつながるかなと。
ここで僕が内容について端的に書くのが難しいし、単に紹介をしたいから、ネットの記事のリンクをいくつか貼るね。

https://bunshun.jp/articles/-/43360
https://www.parasapo.tokyo/topics/65778
https://the-ans.jp/coaching/train-up/230015/
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2022/03/19/doingbeing/

と、試しにというか、紹介で終えてみる。


(221106)まや
記事読んだよー。すごく面白かった。(演劇にも子育てにも犬の躾にも通ずる。)

読んでいて、指導者的な立場の人には「待つ力」も問われると思った。
育てる対象が自ら考える力・判断する力を引き出すために問いを投げかける。
問いに答えるまでの時間、答えの方向性が違っても否定せず、答えに辿り着くまでのプロセスを見守る。つまり、待つ。
話を引き出すのがうまい私の友人も、きっとそういう力を持ってるんだろうな。

聞く力、つまり、相手の思考が移り変わる時間・言語化するまでの時間を待つ力。無意識でも意識的にも選ばれた言葉を否定せず、自分の言葉でも塗り替えず、ただ受け取る。

おうむ返しにもそういう役割があると思った。
最近見てるインスタのアカウントで、キッズコーチングの資格を持った人がいるんだけど、その人のお子さん(4歳くらいだったかな)が
「おうむ返しして」ってお母さんに言ってきたことがあると読んでびっくりしてたんだけど、
おうむ返し=自分の考えをそのまま受け止めてくれる行為、によって人は安心感を得たり自信を得ることができるのかもしれないね。


喜びの持ち方

いろんな場面で自分が年上になることが増えたし、もちろん何より親になったことで、
あと犬がきたことで犬の躾のリーダーも家庭内ですることになり、
指導者というか聞き役というかそういう立場に立つステージに入って来てるんだろうなとも思いつつ、
根本的に私受け止めてほしい側というか包容力?とか尽くしたい欲求?とか結構薄い方で‥
コーチよりは断然プレイヤーをしたくて、プレイヤーとしてもキャプテンとかやりたくない的な。

だけど結局そういうリーダーシップをとるタイミングでは背負ってとらないと、効率悪いし簡単にカオス化するなと思う。
デスクワークとかしてる友人も「部下が可愛い」とかそういう話よくしてるし、そういう世代なんだよなーと。
本質的に向いてない(やりたくない)から、力の抜き方も上手くなくてまだまだ上手く行かない日も多いのだけど、
佐伯さんだったり広田さんだったり、そういうことをそもそもやろうとする人の気持ちがあまりわからない。
どんな価値観なんだろう。どんな喜びを見出してるんだろう。
誰かを育てることで喜びを得た経験が我が子以外でまだあまりないから、それが増えてきたらまた変わるんだろうけど‥。


(221109)干城
言葉にしてくれてありがとう。
紹介されるのって、(何かしら言語化の)リアクションを期待されるから、
(特にこの公開を前提としつつなやり取りだと)、過剰な負担になったら申し訳ないなと思いながらだったけど。

なんか最近どこかで、先回りするな、みたいな話を読んだ覚えがある。
幼児が何かできないでいるなかにはこちらからは見えない沢山の試行錯誤があって、幼児はそのトライアンドエラーを楽しんでいる、みたいな。
それはとてもとても大事だから、先回りして教えるな、みたいなことを目にしたなぁ。
おうむ返しって、目の前にいる人も一緒に、その途中経過というか今って時間を共有してくれてるって感じなのかもしれないと思った。

そう考えると例えば、コーチとして育てるって感覚より、プレイヤーとしてシェアするって感覚を持ち込めたりするのかなと思った。
まやが昔、WSを開いてくれたけど、それって、自分が新たに学んだり体験したりしたことを自分でも深めるためにシェアする、みたいな感じだったように、記憶してる。
それでも主催というかファシリテーターというかの役割はしなきゃになるんだけど。

最近、4タイプ判定テストってのをやって。
https://four-types.appspot.com/
僕は中央に近い司令型寄りの注目型になったのだけど、これ結構納得できて。
https://four-types.appspot.com/About4types.html
(僕は極端なところも多少あるように思うけど、穏当にこのあたりが根本なような気がしてる。)


僕は教えるとか指導的な立場には(演劇、子育て、犬の躾ともに)ないから、想像になるんだけど、
たぶん同様の立場になっても、別の誰かとは違う喜びを持つんだろうなと思う。

立場や役割のもつ特徴自体に、そもそも人のもつ欲求特性が付属しているようなところもあるけれど、
タイプの違うリーダーがいるように、同じ役割であっても、それぞれが自分の価値観や喜びに近づけるんじゃないかなと。
僕はどの欲求特性のタイプとも近いと自分自身思うし、それぞれの喜びも結構理解できるような気がしているから、そう思うのかもしれないけど。


(221112)まや
コーチとして育てる、じゃなくてプレイヤーとしてシェアするっていいね。

思い返せば、今まで関わってきた演出家ってみんなコーチのようではなくて、演出というフィールドでプレイヤーだなって思ってきた。
指導者とか教師とか、親にしても、コーチとして育てなくては・教えなくては、と思うと私はあんまり興味を持てないけど、
確かに、そのフィールドで自分はプレイヤーなんだ、言い換えとして適切かわからないけど主役なんだって思えたら、楽しいかもな。

自分に置き換えれば、
子供が小さくてほとんど毎日24時間一緒なこともあって、
今、どこか子供のために生きてるような感覚に陥りそうになる瞬間があるけど、「お母さん」というフィールドで私は十分プレイヤーなんだと気付かされた。

youtuberでカリスマ助産師のHISAKOさんが、
いろんなことに対して「ママが良いな/好きだな/楽しいなと思うかどうかを重要視するのでいい」的なことを言ってるんだけど、
それってきっと「ママが好きだな」=「エゴ」を思い切り投影することで、自分じゃない誰か(子供)の人生に興味を持てたとしたら、
子育てがただ尽くすだけの、自己犠牲の義務の時間じゃなくなるというか。
なりたくないコーチになるんじゃなくて、プレイヤーのままでいられるのかなって思った。
どんな役割や立場にあっても自分らしくいることって、とても大切だよね。

昔やったWS、懐かしいね。
そうだね、あの時も全然、教えるという感覚は1ミリもなくて。
ただ一緒にやってくれる人の存在が欲しかった。
ファシリテーター的に仕切るのは割と苦手じゃないっていうか、元来仕切り屋なんだよね。
ああいう時間、また持てたらいいな。


私は注目型だそうです。笑



小角まや、干城の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m5e18eb4b7f06


読んでくださり、ありがとうございます。 このnoteの詳細や書き手の紹介はこちらから。 https://note.com/beyond_it_all/n/n8b56f8f9b69b これからもこのnoteを読みたいなと思ってくださっていたら、ぜひサポートをお願いします。