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やまのぼり

山登りが好きだ
暇があれば登る

でも演劇も好きなので、山に登りながら演劇のことも考える
たまに台詞も言う
でもしんどいんだなこれが
ただでさえ登るのがしんどいのに、覚えたての台詞が出てこなくてつまるとしんどいし、
息切れしてるのにしゃべる時は息を吐いてるわけだから拍車のかかるしんどさだ
しんどいけれど、そうやって覚えた台詞はだいたい忘れなくなる
でもそれはいつもルーティンで登っている地元の山にかぎるので、
初めて挑む山では台詞覚えはしない
新しく登る山はいつも新しい発見と驚きに満ちていて、我を忘れるほど夢中になってしまう
ベタな言い方だけど、本当にそうなのだから仕方ない

なぜ人は山に登るのか?

これはもう正直言ってよくわからない
とくに理由がなくても人は山に登るし、登っていいと思う
しかしながら、わたしの場合、ただなんとなしに登ってるかと言えばそうでもない
おぼろげながら哲学はある、たぶん

なぜ人は演劇をやるのか?

こうなると急に身近な問いになってきてなんだか緊張してくる
答えられないと、おいおいおまえそんなんで演劇やってんのかマジかよ、とかいう声が脳内に響いてきそうで億劫だ
いや億劫ってほどでもないけれど、腰が重くなる
答えをもっていることはもっているけれど、その手の問いはひとまず置いといて

山の話だ

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東京にいたころは、高尾山から陣馬山までの縦走と青梅の雲取山を中心に登っていた
雲取山は実は東京都の最高峰で、標高は2017mある
いまは三重県に住んでいるので、近所の鈴鹿山脈にばかり登ってる
もともと両親がアウトドアな人たちなので、子供のころから神奈川の丹沢や長野の上高地に連れられて、山小屋に泊まったりテントを張ってキャンプファイヤーを楽しんでいた

以来、こつこつと登山を繰り返してきたけれど、さいきん山に入る目的みたいなものがむかしと比べてふつふつと変わってきている
以前は、足腰も鍛えられるということで、トレイルランばりの小走りをしながら、いかに標準コースタイムより短い時間で登り下りできるかを競っていた(基本一人なので競う相手はいないが)
早駆け早下りはたしかに気持ちよく、まだお昼にもなってないのに、山を下りている自分がえらく格好良くみえたものだ

さいきんの登山はその逆になっている
いかに長く山の中に居られるか
これに尽きる
日帰りの場合、夕暮れまでには下りていたいので早朝に出発することになる
日が出る前に家を出るのであたりは真っ暗だ、っていうか夜だ
目的の登山口に着くころ、空にはまだ月がのぼり、星がまたたいている

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平日の早朝なので、すれ違う人はほぼいない
まだ暗がりの中、ライトをつけて準備をし、そろりそろりと山の中に入る
やがて日がのぼるとわかっていても、ライトの明かりだけを頼りに足場の不安定な闇の中を進むのはとても恐い
聞こえるのは自分の息づかいと、小枝や土を踏みつける自身の足音だけ
黙々と進んでも景色が見えないから先に進んでいる感じがしない
たまにガサっと音がしてふりかえっても、闇の中なので動物なのかなんなのか確認のしようがない
まるで脅かす役がいないお化け屋敷を延々と歩いているような得体の知れない不気味さと、自分の誇張された想像力で内臓がきゅーっと縮んでいくのがわかる

GPSと地図で位置を把握しながらおそるおそる歩いていると、やがて空が白みはじめる
真っ暗な闇がだんだんと灰色をまぜたようにぼやけていき、白、赤、青、緑と、黒一色だった周りの景色が少しずつ色づいてくる
朝焼けのはじまりだ

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このころには闇への恐怖は薄らいでくるので、やっと余裕がでてきて思考も働いてくる
それでも夜明け時の、しんとした冷たい静けさは全身の肌を緊張させ、体はほてり、高揚し、見たことのない景色の連続と、張りつめた孤独がないまぜになり、一種のトランス状態を起こす

これは大げさではなく、わりとそうなる
少なくともわたしの場合はそうなる
こうなると禅寺で体験するような瞑想に近い状態になってくる
体はグルグル動いたまま、意識はくっきりしてるんだけど、混濁とのスレスレみたいな、
全能感と無能感が肩組んで俺と一緒に仲良く歩いてるみたいな、
わかるかな、
もうあれだ、
トリップしちまうんだ!最高かよ!!!

それはまあいいとして、
そんな状態なのも手伝ってか、早朝の山では信じられないような景色やモノに出会うことが多い
魔物や妖怪などに出逢う時刻、逢魔が時(おうまがとき)というのは、昼から夜にかけての黄昏時だけど、
暁光(ぎょうこう)に照らされる朝方の山中にもやはりモノノケの類いはいるだろうなと、内心びくびくしながらも、そうだったらいいなと思っている自分がいるのも確かだ

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「見えるもの」と「見えないもの」があるとして、
山道や樹林、明け方の太陽は見えるもの、
鳥や虫、たまに聞こえる鹿の鳴き声も、持ってきた弁当も見えるもの、
それらは自ら触って、つかんで、辿れるものだ
見えないものは、
張りつめた朝の空気、気温の変化、
後ろの気配、闇の中のナニカ、
伝承の妖怪、土地の産神、山岳信仰の神々など
視えず、悟れず、触れられず、いつも人間から近からず、遠からずのところにあって得体が知れない
そういったものと出逢いたくて、わざわざ深夜に起きてまでわたしは山の中に入っている

宗教における神のような存在は、いると証明することが難しいのと同じように、いないと証明することもまた等しく難しい
居るのか居ないのかで頭を悩ますよりは、シナイ山よろしくまず山に入ってから天を仰ぎたい
わたしにとって大事なのは、
自分が生まれる何十年、何百年も前からずっとその土地で、脈々と、淡々と織りなされてきた伝承と習慣があり、それに動かされてきた人々の営みと物語があるということだ
そういう文脈を知るには人気の濃い街もいいけど、山の方がくっきりとした輪郭で残っていることの方が多い
そういった痕跡を見つけるたびに、今まで別々のものだと思っていた「見えるもの」と「見えないもの」が繋がっていくのがおもしろい

だから、なぜ山に登るのかと聞かれたら、
人間のことが知りたいから、とわたしは答える
それは演劇でも同じことなのだろう

苦労してたどり着いた山頂からすべてを見渡すと、
最高の景色が待っている
言葉のボキャブラリーは標高があがるにつれて体力と共に崩れていくので、
やっと一番高いところに立った時には、
すっげ!すっげ!としか言えないアホの子と化す

願わくば、演劇でもそんなアホの子でいられる時間を大事にしていきたい


小菅 紘史

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小菅紘史の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m1775a83400f9


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