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主に薪割ってます

晴れた日は薪を割っている
言葉と体にまつわる稽古として5年ほど続けている

薪を割るためにはまず丸太が必要なので、森からとってこなければならない
近くの裏山には倒木やななめに倒れかけた木などがあり、それらを切って薪用にさせてもらっている
30mをこえる杉やヒノキの木の重さはだいたい1トンくらいなので、自分の体重の10倍以上の質量をもつ相手と向き合うことになる
一番緊張するのは伐倒時で、木の重心を慎重に見極めないと思わぬ方向に倒れたり、チェーンソーの刃が挟まってとれなくなる

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丸太はまず120cmの長さに切り分け、この時の重さはだいたい100Kg未満
同じサイズに切ったらこつこつとかついで運ぶ
どうしようもなく重いけれど、やはり重心をうまいこと動かして体に乗せて運ぶ
体に乗せられない重さのものはコロコロと地面を転がして運ぶ
背負っても転がしても、自分に都合よく動いてくれるわけではないので、自身の重心を変えたりして、なんとかうまく事が運ぶようにする

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だいたい20本を50m運んだらもうその日は何もしたくなくなる
夏場だと10本くらいで汗が滝のようにおちてきて目が見えなくなる
あんまり放置するとカビが生えるし、たまに蟻が巣をつくってしまうので、なるべく早く家に持って帰りたいのだ
でも運ぶだけでしんどいので何日かに分けて移動する
車両で搬出できる広場まで運んだら、40センチの輪切りにして重ねておく
バームクーヘンみたいで美味そう

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切り口から水分がどんどん抜けていくので放っておけば丸太は日々軽くなっていく
この状態で3日くらい放置するとかなり軽くなる
木の重さのほとんどは水分だということがよくわかる
やっとこさ家の敷地に運び入れたら、ここからやっと薪割り稽古がはじまる
使うのはフィンランドのフィスカース社の斧
これはグリップエンドの作りが秀逸
持ち手がすっぽ抜けにくくなっているので、とても使いやすい

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薪割りの時も大事なのは丸太の重心
丸太の核心部分に向けて、何度か斧をふるう
この時、刃先からの力が木の内部にしっかり浸透するように斧を打ちつける
丸太の表面だけに力を与えても割れずに木屑がこぼれるだけなので、できるかぎり正確に、丸太のもつ重心に向けて少しずつ力を伝えていく

薪割り以外に道具を扱う稽古として、木刀をふっている
薪割りによる力の伝達と、木刀による素振りとの関係はとても深そうなので好んでよくやっている
ただし木刀素振りの場合、丸太のような対象がないのでそもそも目的の次元が違うのは否めない

理想的には薪割りの斧もこの映像のようにストンっとおろしたいけれど、現実はむずかしい
丸太のような対象が目の前にあると、欲がわいて思いきり打ちつけたくなるのだ
割らなくては、と思ったときにはもう全身は硬直し、斧の刃先はブレてしまう
武道でいうところの「居着いた」状態だ
当たり前のように斧を「ただおろす」だけ
書けば簡単だが、実際やるとなるとさまざまな言葉が頭をめぐり、体は迷宮入りしてしまう
そして、スコンっと丸太がきれいに割れたときに限って、自分が今何をしたのかを覚えていない
「ただおろす」だけをやれたのか、それとも別のことなのか
まちがいなく体は充実しているのだが、それを説明することはむずかしい
では言葉はなにを目指せばいいのか
言葉を扱うとはいったいなんなのか

薪割りの動作を順序立てて言葉で説明するとすれば、
まず、斧をふりかぶり(先端の重みを利用して)、斧が自分の頭上をこえると同時に、足裏の力を抜き(全身が一瞬崩れる)、抜けていく体の重みにたいして、足首、膝、腰、背骨、肩、肘、手首などの各関節を繋げて、重心をひとまとめにする
ひとまとめにした重力を手のひらから、斧を介して、丸太に届ける

書いていながらホントかよと思うのだが、
薪を割るの一言にしても、体の細かな部位の働きに注目すると、さまざまな言葉に分解できる

言葉は人の思考や行動を規定するものだとしたら、
森に入り伐倒する木を選ぶときは、無事に仕事を終えるための行動と言葉を選んでいる
斧をふるうということは、斧を扱うための言葉と向き合うことになる
丸太との距離感は、その身体を規定する言葉との距離感でもある
舞台の稽古と同じように、言葉にできることと実際にやってみることとの差異や合致を見つける作業の繰り返しが、言葉と体の関係を明らかにし、その結束をつよくする
しかしながら、言葉が人を規定する時、同時にその体の矮小さと向き合うことにもなる
体はもっと自由であるはずなのに、知らず知らずのうちに言葉のイメージが人の身体を一方的に拘束し、行動を過度に制限してしまう時がある

物事を言語化することはとても大事なことだけれど、言語化することによって見落とすものもあることを忘れないようにしたい
言葉によって規定される以前の体がそれだ
まだ未決定の、散らかった状態のそれは言葉の規定の外にありながらも厳然と存在している
その名づけようのない曖昧な不安定さは、愚直で堅牢な言葉の檻を簡単に破りもすれば、壊れて欠けたところを支えるように補完するものでもある
少なくとも役者として言葉に向き合うのなら、言葉によって縛り縛られる自分と相手との関係において、すべてを言葉にしてしまうことの寂しさと危うさに視線を向けておくにこしたことはない
言葉のみが人間をあらわすのではなく、人間をあらわす幾多の断片のひとつが言葉なのだ

と、観念まみれになったところでまたふり払うように斧をふるう

割れた、割れない
割れた、割れない
言葉、言葉、言葉

こうして今日も日が暮れていく

小菅紘史

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https://note.com/beyond_it_all/m/m1775a83400f9


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