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人の気持ちがわからない

ぼくは人の気持ちがわからない
目の前の相手が今どんな気持ちでいるのか、よくわかってない
子どものころ、相手の気持ちになって考えなさいと、そう言われてたような気がするけれど、大人になった今でも、人の気持ちはいまいちよくわからない

舞台での演技には「気持ち」というものがついてまわるときがある
この場合の「気持ち」は、「心」や「感情」とも言い換えられるかもしれない
「感情」という言い方になると、神経生理学の方の話になると思っているので、この言葉を演劇の稽古場で使うことはあまりない
「気持ち」や「心」も、ぼくにとっては意味が不定形すぎてとらえどころがないので、やはり稽古場で使うことは避けている

「相手の気持ち」「心をこめる」「感情のこもった」など、身のまわりには気持ちにまつわる言葉使いが多い
でも、あらためて気持ちってなんだろうと考えると、いまいちよくわからない
目に見えないし、言葉にするのもむずかしい
そのよくわからないものを、ぼくは息でも吸うようにあたりまえのように扱っている時がある
そういう時、気持ちは大事だと思いつつ、気持ちってなんやねん?とモヤモヤすることの方が多い

演技と気持ちの関係はだいぶ根深いように思う
それがいつどこで出会い、その関係が育まれたのか詳しくはわからないけれど、いま「あたりまえ」のように行われている物事には、たいていあたりまえじゃなかったころの歴史があるので、気持ちの通わない演技をしていた時代もあったということになる
気持ちがまったく関与しない演技とはどんなものだったのだろう
能や歌舞伎が生まれるもっと前、古代ギリシアの広場で演じられていたものよりさらに昔だろうか
発話や文字を含むような、言葉を介さないコミュニケーションが全盛だったころなのだろうか

スタイルの差はあれ、見た目やスケールは今と昔でそんなに変わらなかったのじゃないかと想像する
心の生まれた歴史がどういう過程であれ、心理の有無を認めようと認めまいと、少なくとも今この時代では、気持ちというものが、他人同士であるわたしたちを、時に繋げ、団結させ、距離をとりながらも、人間関係をとりなすメカニズムとして機能していることは明白なので、役者に準ずる限りは、その常識にできるかぎり沿うようにはしたい
沿うようにはしたいけれど、わからないものはわからない
いつもいつも、謎なのだ

舞台に物語を求める観客がいるように、役者に心を見ようとする観客がいるかぎりは、気持ちの問題はついてまわる
気持ちのこもった演技というものがあるとすれば、それはいったいなんなのだろうか
演技とは気持ちをこめるものなのだろうか
気持ちのこもった演技は「いい演技」なのだろうか
では、気持ちの見えない演技があるとすれば、それはつまらないものなのだろうか

学生の時、ある先生に車で駅まで送ってもらったことがある
稽古中の演目の話になり、ぼくが自分の役の気持ちについて話したところ、「心理で芝居をしちゃダメなんだよ」とその先生がおっしゃった
「ダメなんだよ」か、「しないほうがいいよ」なのか、どんな語尾だったかは忘れたし、その先生の真意も今となってはわからないけど、とにかくそういうニュアンスのことを言われたのだった

大学では演劇書を読みあさり、いろいろなタイプの舞台を観劇し、授業ではさまざまな出自の先生たちに演劇のことを教えられたけれど、バレーボールとサッカーの球しか追いかけてこなかったぼくとって、演技とは、ガラスの仮面とアル・パチーノと劇場のいい匂いのする座席が、ごちゃごちゃと混ざったようなものでしかなかった

学生のころ使っていた台本を思い返してみると、台本の余白部分には、登場人物の心理状態が一言一言びっしりと細かく書いてある
当時のぼくにとっては、まず役の気持ちを理解することが演技の第一歩だったし、気持ちを理解していればそれを表現できると思っていた
なぜそう思ったのかはわからないけれど、誰かを演じるということはそういうものであると、抵抗もなく考えていたと思われる

それまでとくに演劇的な教育を受けてこなかった素人のぼくが、なぜ一番最初に気持ちを理解することを選んだのか、なぜ演技は気持ちでつくられると考えていたのかはとても興味深い
でも、それしか舞台に立つ方法を知らなかったぼくは、とにかく自分が向き合うべき気持ちをつくることに専念した
台本にびっしりと書き込んだ心理描写をもとに、飛んだり跳ねたり叫んだり、とにかくがんばってはいたが、演技だけを抜いて見れば本番の結果はさんざんなものだったと思う

心理から芝居をしないことを伝えてくれた先生は、今も心理を優先することなく前線で舞台作品をつくっている
そしてぼくはといえば、人の気持ちはわからないなどと言いながら、いまだに気持ちの謎について日々考えている
先生はしっかりと先生の役割を果たしたのだった

演技を造形する上で、気持ちについて考えないことはない
自分の演じる登場人物が作品の中においてどんな役割で、どんな人間関係の中にあって、どんな行動をとろうとしているのかを想像するとき、その人物の心理状態を無視して演技プランを組むことはまずほとんどない

でも、その心理はあくまでただの心理であって、じっさいにそれをどう表現するかは別の話になる
その人物が「悲しい」という気持ちを抱えていると仮定したら、その悲しいという状態を具体的に表現する方法はたぶんいくらでも出てくる
この時、舞台表現として問題なのは、役者本人が悲しいかどうかというより、見せ物としてどうしたらその姿と状況が悲しく見えるかどうかだと思うので、悲しいことが読みとれるであろう身体情報や、まわりの人間との距離関係、あるいは空間構成をあれこれ悩んで模索することになる

気持ち以外にも演技を造形する上で使えるものはたくさんある
音の高低や、声の強弱、体の緊張、目線、圧力、言葉選び、身体的特徴、常識と非常識、社会的背景など、使える選択肢にはキリがない
気持ちについて考えないことはないけれど、気持ちは身体表現のために準備された数ある材料の中の一つにすぎない
気持ちをまったく利用しないときもあるし、気持ちの助けを借りようと思うときもある
少なくともぼくにとって「気持ち」とはそういうものとして距離をとっている

だからと言って、ぼくが感動も何もしない機械のような人間なのかというとそうではない
ぼくも人並みに感動するし、傷ついたり笑ったり、ときどきYoutubeに流れてくる3分で感動みたいな動画で涙するし、車で煽られたら即座に舌打ちしてF〇〇K  YOUを連呼しながらイラついている
だから、「気持ち」に対して距離をとるというのは、ぼくの役者としての職業病みたいなものでもあるので、世間一般の「気持ち」にまつわる諸事情に理解は示すけれど、そこに深く共感はしませんよ、という程度のものである

ではじっさいの演劇の稽古現場ではどうなのだろうか
日本にはさまざまな劇団があり、その背景も歴史も思想も、表現方法もいろいろなので、「気持ち」にたいする取り組みもそれぞれにカラーがある

ぼくの所属している劇団では、まず「気持ち」について役者が言及されることはほとんどない
劇団では、物語をいったん分解し、ある特定の視点から見た人物達の関係性が舞台空間にフィクショナルに浮き立つような、そういう作品をつくっているので、登場人物の個々の情感にくっきりとフォーカスがあたることはあまりない
かといって、役者が「気持ち」を表現しないというわけではなく、そういったことは役者が各々で考え、演出に沿った空間構成に見合うかたちで成立するように舞台に立ってもらう、という稽古スタイルになっている
要するに、心理をどう表現するかはある程度は役者に任せます、ということになる
ぼくの日常生活での「気持ち」とのつき合い方は、この劇団のスタイルの影響をだいぶ受けているはずなので、「人の気持ちがわからない」ということが比較的言いやすい環境にあると思う

一方で、「気持ちがわからない」ことを示すのがなかなかむずかしい現場もあるように思う
気持ちは持っていて当然だ、気持ちを表現することが大事だ、という前提がつよければつよいほど、その現場における「気持ち」の役割は大きくなり、「気持ちがわかりません」とは言いづらくなる
「どうしてこの気持ちがわからないんだ?」と言われると、自分が何か人間として欠けているんじゃないかと思うかもしれない
でも、そんなことはまったくない
人間はお互いの気持ちをわかることはないし、気持ちを伝える必要もない、という前提に立てば、わたしは相手の気持ちがよくわかる、なんてことを言ってると、「なんだおまえ気持ちわるいな」と言われることもあるかもしれない
そもそもの前提が変われば、状況も結果も変わる

もし、人間には心がある、という前提に立つなら、その心の扱いに長けている人が世の中にはもっとたくさんいてもよさそうだけれど、そういう人が「あたりまえ」のようにいるようにはぼくには見えない
そして、演劇の現場では、その心の扱いにはいつも困難がつきまとう

登場人物である「他人の気持ち」を扱おうとする役者自身の、その「本人の気持ち」がどう扱われるかは、とてもむずかしい問題だ
創作の現場に限ったことではないけれど、気持ちにこだわり過ぎると、感受性の強要、という状況になることがある
そして、心理を優先して演技を組み立てるような現場ではなぜかそういう状況が起こりやすい

役者が「気持ち」と向き合うとき、何か人と違うところがあるとすれば、「気持ち」の扱いに対する免疫が人よりもあるかないか、ということくらいであって、役者=人前に出ても恥ずかしがらない気持ちのつよい人、ではない
役者も変な目で見られれば人並みに傷つくし、舞台上で大勢の視線にさらされることには基本的にストレスがかかる
もちろんそうではない例外の人もいるし、すべての役者に当てはまることではない

それでも役者は、観客が舞台上で起こる出来事を読みとれるように、「気持ち」を含めたさまざまな身体情報を観察し、理解し、コントロールしようとし、それでも漏れ出してしまう正体不明なノイズと向き合うことに時間を費やす
そして、さらにはそれを自分たちの身体を使って表現するという、なんだか書いていてもちょっとげんなりするくらい大変なことをやろうとしている人たちなんだなと、あらためて思う

精神疾患のための医療現場が万能ではないように、稽古場における役者の心理ケアも万能ではない
各劇場に専属の心理カウンセラーを常駐させるわけにもいかないので、作品づくりで手一杯な集団はそれぞれがメンバー内で独自のケアをおこなうしかない
ゆえに「気持ち」に対する捉え方は集団によって異なることになる
だけどこれはもう現状しかたないところがある

基本的には、創作においての気持ちの扱いと、日常生活での気持ちの扱いは分けて考えたほうがいい
たとえ心理から演技を組み立てることを信条にしている役者がいても、その姿勢がイコールその人の日常での気持ちの汲み取り方をただちに決めるものではない
そもそも気持ちの表現に対する評価のスケールが人によってバラバラだ
たとえ気持ちをコントロールできたとしても、観客や共演者相手にその気持ちが伝わったかどうかはどうやって確かめるのだろう
たとえ伝わったとしても、当の本人が気持ちを十全に表現できたと誰がわかるのだろうか
素晴らしい演技というものがあるとすれば、それははたして気持ちによるものだけだろうか

もし創作上、何か特殊な状況や、狂気に満ちたような表現を達成したい場合、最初に狂気的な感情を追い求めることだけはおすすめしない
感情も心も気持ちも、ひとつところにとどまるようなものではなく、常にゆれ動いてコロコロと変化していくので、本番へ向けて同じことを積み重ねるのがむずかしいからだ
少なくともぼくは今日の朝起きた時の気持ちをもう覚えていない
心理から演技を構築していく方法は、ときに爆発的な成果を生むことがあるけれど、それはそのやり方がたまたまうまくハマったときだけのことであって、演技に関わろうとする人みんなが自分の心理の扱いに慣れているわけではない
気持ちが強かろうが弱かろうが、役者は壊れる時には簡単に壊れる
正確に狂うためには、技術とそれを導くためのガイドがいる
稽古場での狂気は行き当たりばったりで起こすものではない

たかだか20年ちょっとの演劇経験の中で、ぼくは真摯に人の気持ちと向き合い続けてきたわけではないけれど、ささやかな仮説を立てるくらいのことはできる
演技は技術の問題であり、気持ちの問題ではない
そして演劇において、気持ちの共有と表現には限度がある
そして、あまりに謎に満ちている

「気持ち」あるいは「心」とは、あくまで人間の営みを構成しているであろうさまざまな要素の一つであって、気持ちが感じられないからといって、その人が人間らしくないということにはならない
むしろ、「気持ち」を持たないという在り方も、人間らしさの一つとして認められてもいいはずなのだが、一般論として通用するには現状ではちょっときびしい

でももし、いろいろな人間がいてもいい、ということを信じるなら、気持ちをこめることのない人も肯定するということになる
あくまで気持ちのこもった行動を善しとするなら、そうじゃない行動を認めるのは、気持ちをこめることを前提として生きていると、なかなかむずかしい
心無い人を前にした時、「どうしてあなたは心をこめて生きないのですか?」ということになる
なら心をこめて生きることがなぜいいと言えるのだろうか
心はこめた方がいいのだろうか
心をこめない生き方は人としてありえないことだろうか

現代社会では、「人間には心がある」という前提をもとにした人間観が、目に見えない空気のように浸透しているように見える
相手の気持ちがわかると言う人にも、相手の気持ちがわからないと悩んでいる人にも、そのプレッシャーは等しく与えられている
その透明な圧力のもとで培われた目は、自分や他人を評価するとき、その人がどんな心を持ち、どんな気持ちでいるかという判断を基準として持つことになる

「今のお気持ちをお聞かせください」とたずねるテレビのインタビュアーは、視聴者の見たいものを代弁しているとしたら、ぼくらは画面の向こうにいる犯罪者や、被害者や、街角の普通の人たちに対して、どんな気持ちでもってその質問に答えるのかを期待して見ていることになる
その視点は舞台上でも無縁ではない
観客が役者の心理を追うように観劇するなら、役者は観客がその心理を読み取れるように演技を造形することが求められる
それは確かに人間の一面を捉えるには効果的な表現方法のひとつだけれど、人間という生物をあらわす唯一の表現方法ではない
心を持つことは人間らしさの一つかもしれないが、心が無いからといって人間らしくないとはいえない
これは荒唐無稽な話だろうか
そうは思わない
そもそも、生まれてすぐの赤ちゃんに心はあるのだろうか
赤ちゃんが泣いたり笑ったりすることが、いまの気持ちをあらわしているのではなく、外からの刺激に対してのただの生理科学的な反応だとしたら、わたしたちはいったいいつどこで心というものを知り、気持ちをあらわそうとするようになったのだろうか
そして、なぜ相手も自分と同じように感じていると信じていられるのだろうか

心という概念が発明されるよりもはるか昔から、人間は人間として生きてきた
それならこれから先、心が無いことが人間の豊かさを示す指標にならないともかぎらない
心の豊かさを唱えるなら、心のわからなさも同様に掘り下げないと、何度も足元をすくわれることになるだろう
不安定な心はいつもあちこちに漂い、その場にとどまっているとはかぎらないのだから

演劇に関わるかぎり、この「気持ち」というものはいつもついてまわる
ぼくは、気持ちをこめようがこめまいが、心があろうがなかろうが、感情を表現しようがしまいが、どちらも等しく人間の行為だ、という前提を信じる世界の方が居心地がいいと思っている
そしてやはり、ぼくは人の気持ちがわからない
もし相手の気持ちがわかるという人がいたら会ってみたい
たぶんぼくはその人を驚きと敬意の眼差しで見つめながら、「いまのぼくの気持ちがわかりますか?」
と聞くことになる


小菅 紘史



小菅紘史の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m1775a83400f9


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