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いきなり遊んでと言われて遊べる人はいいけどそうじゃない人はたまらない

今年度から大学で演技の授業を受け持つことになった
主にミュージカル志望の学生が集まり、休み時間になると歌って踊りだすからにぎやかでかなり楽しい
ぼくはオペラ座の怪人やキャッツくらいしかちゃんとミュージカルを観たことがないので、目の前で繰り広げられる学生たちの迫力あるアンサンブルにとまどいつつも、知らない曲をたくさん聴くことができて勉強になっている

学生時代、ぼくは真面目に授業を受けていた方ではなく、当時の先生方がどうやって授業を進めていたのかよく覚えてない(本当にごめんなさい)
だから自分が先生として授業時間に何をするべきなのか、自分と学校側と学生たちと、それぞれ目指していることがあるとして、それらを擦り合わせた上で、どんな授業内容にすれば三方のおさまり?がいいのかが、ちょっとまだよくわからない
もちろん大学にはカリキュラムがあり、それを前もって提出するので、一応全体の内容は決めておくけれど、これをやればOK!という自信がないので、内容については半信半疑のまま学生たちの前でしゃべっていることになる
そんなことで先生が務まるのだろうか
でもこれをやっておけば大丈夫と自信満々に教える先生の方が危うい気もする
だから授業内容については学生も先生もお互いに多少警戒?しているくらいがちょうどいいんじゃないかと思う

さいきんの大学は学生側からの評価が入ったり、自分自身による授業評価も提出しなくてはいけないので、サービス業のように、さまざまな評価にさらされながら教え伝えるというのはだいぶヘビーだ
短期的なスパンで結果を出すことを前提にした教育なんてありうるのだろうかともんもんとしてみても、すでに学校のシステムがそうなっているので、雇われの身としてはなんとも言えないところがある
先生という仕事は大変な仕事なんだといろいろ気づかされる

大学での授業内容は、シアターゲームで遊んだり、脱力や重心の移動など、あとはテキストを使った実際の演技を少しばかりやっていて、演技の授業というよりは、俳優が演劇を通して出会うであろうさまざまな出来事を体験してもらうようなかたちをとっている
もっと技術的なことが多いほうがいいのか、もう少し専門的なところに切り込んでいくほうがいいのか、反省点はいくらでもあるが、そもそも俳優に必要であろう能力についての考えがぼく自身の中でいつも揺れてしまっているので、何を教えて伝えるべきかがけっきょく定まらない

むかしは、声が大きいとか、体がよく動くとか、セリフを噛まないで喋られるとか、そういった能力を伸ばすことが演技力につながると思っていたので、俳優のためのトレーニングもその考え方に準じたメニューをつくってやっていた
たぶんそれは、小中高での授業や、学校の部活動に通っていた中で培われたぼくの身体にたいする考え方が、そのまま演劇での活動にも生かされているのであり、今まで自分の体をつくってきた身体観の蓄積で俳優のトレーニングメニューをつくるのは当然の流れかと思う
(というより、俳優に必要であろう能力について専門的にちゃんと考えたことがなかった)

俳優に必要な能力ってなんだろうか
よく通る声とか、指先までコントロールできるとか、存在感があるとか、そういったピンポイントの能力は、舞台に立つ上で助けになることはあるかもしれない
でも、俳優を続けていくためにはそんなに必要でもないものだと思う
あるにこしたことはないけれど、それはこだわるかこだわらないかの領域のものであって、ないと困るものでもないし、表現の振れ幅を左右する要素のひとつにすぎない、としておく
それよりも、同調力や協調力と呼ばれるような、「他人といい感じで一緒に過ごすにはどうしたらいいか」を体現する能力のほうが、演劇を続けていく上では大事だと思っている
となりに座っている人の動向を読み取るとか、部屋に入ってきた人の息づかいに気づくとか、向こうから怖そうな人が来るから距離をとるとか、
野生の動物が持っているような、最低限、自分の身を心地よい状態に保つと同時に、相手の状態も察知できるような、そういう状況をいつでもどこでも体現できるということが、俳優としてまず必要な能力のひとつじゃないだろうか
それは「空気を読む」とも言えるが、俳優の場合は読むだけにとどまらず、「空気をつくる」ことが不可欠になってくる

でもそういう能力が大事だったとしても、どこでどうやって身につければいいのだろう
社会生活を送るうちに、コツコツと身についていくようなものなのだろうか
日々の生活の中で、自然とそういうことが身についたんだろうなという人はいるにはいる
もし育った環境や接してきた人間関係によってその後の個人のふるまいが決まってくるのだとしたら、もうそれはセンスの問題なのだろうか
いや、そこを個人のセンスとして片づけてしまうのではなく、あくまで演技のための技術として、ある程度共有可能で、再現性も確保できるような、技術の問題として考えたい

では「空気を読む・つくる」、そういう曖昧な領域の能力を、技術の問題として育むにはどうしたらいいのだろう
「そういうのは教えるものじゃない、見て真似るものだ」
一理ある
でも、一理しかない
時間はかかるものだとしても、五里霧中の手探りよりは、少しでも手がかりはほしいのだ
演劇にはさまざまなワーク(訓練や研究などを含む取り組み)があり、個人でやるものから集団でやるものまで、目的によって使い分けられている
今までいろいろなワークに触れてきたが、ひとまず共通して大事だと思えたのが、”遊ぶ”ということだった
毒にも薬にもならないようなことを言っているだろうか
ぼくもそう思う
でもただ遊ぶんじゃなくて、ちゃんと遊ぶことが大事なのだと思う

ぼくが学生のころ、まず遊ぶことが演劇をやる上で大事なことだと聞いて、演劇は遊びだ!と盲信し、とりあえず遊びまくっていた
当時は、遊ぶ=ふざける=逸脱する、みたいな方程式でぼくは考えていたのだろう
おおよそ間違いではないけれど、当時のぼくには”誰かと一緒に遊ぶ”ということが欠けていたはずなので、まわりはだいぶ振り回されていたにちがいない
ベタなところでは、演劇=PLAY=遊び、と書くこともできるので、授業を受ける学生たちにはこう言えばいいのだろうか
「さあ、遊ぼう!」
でもこれだけだとちょっと何を言ってるんだかわからない
遊べってなんだよ
いきなり遊んでと言われて、遊べる人はいいけど、そうじゃない人はたまらない
自由と同じで遊びにも作法がある
遊ぶことがなぜ演劇と関係あるのか、説明がほしい

では演劇における遊びは、じっさいの演劇とどうつながるのだろう
遊ぶということは、普段と違うこと、ハメを外すこと、決まりきった型から抜けること、いったん空っぽになってしまうことなど、そういうものだと仮定してみると、
そして演劇が、その表現が抽象的であろうと具体的であろうと、既にある枠組み(現実)と向き合うものだとしたら、
演劇における遊びの機能とは、その現実によく似た枠組みを見つけて抽出し、普段とは違うかたちの、さまざまなスケールとレベルでの解体と再構築を、自分たちの手の届く範囲でシミュレーションするものだと言える
要はごっこ遊びになるだろうか
そう考えるとたしかに遊びが演劇とつながるところもある

そして、その遊びの過程ではたまに、得体の知れない、混沌とした瞬間に出会うことがある
これなに?なにしてるのわたしたち?と誰もが首をかしげて立ち止まってしまうような時間だ
楽しかった状態は消え、不安と退屈におののき、その場にいることがしんどくなる
なんかつまんねえな、というやつだ
しかしその途惑うということに、遊びのダイナミズムがある
今までうまくいっていたルールが通じないという不安な時間は、やがて次の新しい調和を生むための足がかりとして、既存の枠組みを溶かす混沌として機能する
混沌は何も生まない時間などではなく、枠組みを新しく塗り変えるための準備の状態だ

この一連の流れは、演劇の、稽古場でのリハーサルでもほぼ同じと言える
紙の台本から、ああでもないこうでもないと失敗を繰り返しながら芝居を立体的に立ち上げていくには、さまざまな視点からのシミュレーションを繰り返して、人間関係や空間配置の整合性をとらなければならない
そして、その整合性を高める作業はいつもうまくいくとは限らず、停滞することもある
なんかつまんねえなの時間だ

では整合性さえとれていればいいのかというとそうでもない
整合性がとれるということは、安定しているということでもあるけれど、それは同時に自分たちが想定できる範囲内の、自分たちが寄って立つためだけの安定した部分しか表現されていないとも言える
整理整頓されたものは一見わかりやすいけれど、余計なものがない分、味気がない
閉じた論理展開を繰り返していれば、いつかはどん詰まる
そういったマンネリとした空気を変えるのが、遊びのもつ、枠組みを塗り変える機能ではないだろうか
遊びはその一見不毛な行為の中で、合理的であること、効率的であることだけでは表現しきれない、人間の余分なもの(愚かなもの)をあぶり出す
その余分なものを、次の新しいルールを生み出すための積極的な停滞であるとして、ぼくはそれを「余白」と呼びたい

その余白(停滞)もいずれ時間がたてば落ち着いて、新しく名前がつき、ルールが固まり、次の安定した枠組みへと形を変えていく
しかしながら、遊びがもたらす余白の賞味期限はとても短い
できるかぎりじっくり味わい、早いとこ把握して、次のステップのために醸しておきたい欲はやまやまだが、遊びによって新しく生み出される行為の意味が、理解できようとできまいと、大事なのは参加者がそこに滞在している”時間”の方だろう
さまざまなルールが生まれては消えていく、その流れの中にただ身を投じること、そのものが遊ぶことだとも言える

もし遊びを定義するとしたら、ぼくにとって”演劇的に遊ぶ”とは、そのつど新しい枠組みをつくるということになる
そこに参加している人たちが、ある程度能動的で、同時にある程度受動的でいられるルールをつくること
そこに余白(停滞)が生まれるチャンスが常に流動的にあること
そして”遊ぶ”ということそのものの枠組みも刷新され得るということ
そのことが「空気を読む・つくる能力」を育むことにつながればいいのだが、
じゃあそれをどうやって授業でかたちにしていったらいいのだろう
少なくとも「さあ、遊ぼう!」ではないんだろうな・・・


小菅紘史



小菅紘史の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m1775a83400f9


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