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地続きの場所で

 ロシアのウクライナ侵攻のニュースを見ていて、地名に聞き覚えがあるのは、チェーホフの戯曲に出てきたからだと気づいた今日この頃。時代や地域を越えて、彼の作品の登場人物たちの葛藤が他人事とは思えないように、この戦争もまた地続きの場所で起こっていることなのだ。
 

 先月までの3ヶ月間、「ライフワークとしての演劇」というテーマで、社会との接点を模索しながら各地で演劇活動をする方たちにインタビューをしてきた。最終回は再び、わたしと演劇とその周辺へ。


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変化していく自分と折り合いをつけること

 「わたしと演劇とその周辺」に寄稿していたこの1年間は、4歳の娘と1歳の息子の育児に追われながら、なんとか活動を続けようとてんやわんやだった。わたしが事務作業のできる時間帯は、子どもたちが寝静まった深夜が中心。「子育て中の母親は仕事ができない」と評価されてしまうかもしれないという不安がずっとどこかにあった。今になって気づいたのは、仕事の遅さやミスに誰よりもがっかりし、「子育てを言い訳にしてはいけない」と言い聞かせていたのは、わたし自身だったのだということ。育児との両立において、周りの人に理解や協力を求めることは必要だけれど、自分自身の変化を受け入れ、折り合いをつけることこそ重要かもしれない。それが一番難しいことでもあるけれど。


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成功する根拠ではなく、覚悟があるか

 昨年の夏に岡山で若手育成のための公演を行い、秋に携わっていた芸術祭が終わった時、自分がすかすかの空っぽになってしまい、中からはもう何も出てこないような気持ちになった。思い返してみると、アウトプットをし続けるばかりで、インプットをする余裕はなかなか無かった。演劇などの芸術体験は「生活を豊かにしてくれる」と言ってきたけれど、そもそも生活に余裕がなければ享受することができないものだと身をもって分かった。もっと日常の暮らしに寄り添ったところにあって、自然と出会えればよいのに。

「その人がどう生きていて、その活動をどういうものとして捉えているのか」

そんな時にふと、わたしも周りの演劇人にそのことについて聞いてみたいと思った。子育て、兼業、地方へのUターンをしながら、プロとして各地で活動する知人たちに「ライフワークとしての演劇」というテーマでインタビューし、記事にすることに。

 岐路に立った時に「演劇をやめるという選択肢は無かった。どうやったら続けられるか、それだけを考えていた」全員が口をそろえて言っていたこと。演劇を始めることは、誰でもどこでもできるけれど、続けていくことが難しい。続けるために大事なことは、成功する根拠があるかどうかではなく、覚悟なのだろう。それがあれば、どんな環境でもきっと演劇を楽しみ続けられる。インタビューをしながら相手からエネルギーをもらい、「自分が本当にやりたいことは何か?」に改めて向き合う充電期間になった。「ライフワークとしての演劇」またいつかどこかでやってみたい。


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演劇という境界線のない世界で

 東京在住のわたしが、出身地の岡山でも活動をするようになって9年になる。地方の演劇は県境という行政の境界線を越えていくのが難しいように感じてきた。プロになりたいという若い人たちは都会に出てしまい、新しく県外から入って来ようとする人材には受け皿がなかったり、その地域で助成を受けることが難しい。著名な演出家を招致し、ワークショップを開催したり、市民劇を作ることは、関心を持ってもらうきっかけになるし、大きな刺激にもなる。けれど、さらに本当の意味で地域の演劇のレベルを上げるためには、地元の人材を活かしながら、演劇のプロが継続的に活動できる風通しのよい環境が必要だと思う。様々な表現や創作の現場に実際に触れる機会が増えることが、そこで創作される作品の質を上げることに繋がっていく。

 岡山で演劇活動をする若手からベテラン5名に参加してもらい、地方からオリジナリティのある作品を発信し、地域で演劇のプロとしてのあり方を模索する3年間の企画「Cultivation program」を今年から始めることに。メンバーは、岡山や近県在住の小学校教諭や大学の研究者、会社員、大学生。それぞれの生活とのバランスを取りながら活動していく。彼らの仕事や日常での経験が演劇に新しい視点を与えてくれたり、演劇活動で得たものが生活に還元されればよいなと思う。演劇のプロが東京のように大勢ではないけれど、身近な存在になるような活動を目指してゆきたい。

 確かに、この企画には即効性はなく、3年間でいきなり技量が上がったり、環境が良くなることは難しいと承知している。けれど、こうした取り組みをしていく中で、まずは意識が変わることが何よりも重要ではないだろうか。岡山に集まり、拠点として演劇活動をする。それはアイデンティティに関わるとても大切なことだけれど、そこは境界線に囲まれた場所ではなく、東京やもっと遠い場所、過去や目には見えない様々なものと既にわたしたちは繋がっていることに気づくこと。演劇の世界は、国境や政治を越えて地続きで、わたしたちは自由だし、可能性は開かれているのだと。


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ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!

 最後に、太宰治の『正義と微笑』から「カルチベート」について語られている部分をご紹介。

「(前略)日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても。その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものなのだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!(後略)」


米谷よう子


岡山で主宰するOTOの活動についてはこちらをご覧ください
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米谷よう子の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/me1e12a71d670


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