人類学の道第三回「Making:Anthropology, Archaeology,Art and Architecture(1)」


はじめに

私事ではあるが、5月11日に、前回紹介した「人類学とは何か」、そして今回から取り上げる「Making(邦訳:メイキング)」を著したティム・インゴルドの自宅にお邪魔することになった。自分としてはてっきり現在もアバディーン大学で教鞭をとっているものだと思っていたので、「授業やチュートリアルにお邪魔できれば幸い」程度に考えていたのだが、実はだいぶ前に退任しており(これだからウィキペディアは信用できない)、代案として本人から自宅にこないかと言われたのがことの始まりである。こんな何処の馬の骨かもわからない学生を自宅に読んでしまうその懐の広さにはひたすら脱帽せざるおえないが、兎にも角にも彼に会うにはまずは彼の有名な書物くらいはは押さえておかなければならないと思って始めたのがこのnoteの活動だったりしなくもない(もちろん院試が個人的には先決なのだが)。というわけで前回に引き続き、インゴルドの書物を読んでいるわけだが、今回は原著を読んでみることにした。すると、実は二つの書物は独立したモノではなく、むしろ「人類学とは何か」で述べられていた主張が、この「making」ではインゴルドの経歴や過去の活動を通して鮮やかに描かれていた。では早速みていこう。ちなみに今回も何回かに分かれる予定である。目指せ4回連載。

復習:「人類学とは何か」

その前に、前回取り上げた「人類学とは何か」に書かれていたステートメントをまとめてみようと思う。インゴルド主観から見た「人類学の歴史」の誤りと過ちを記述し、それらを乗り越えるための新たな「人類学」の制定。これが「人類学とは何か」の大まかな主張である。

一九八八年のあの運命的な日に私が気づいたことは、片足を自然に、もう片方を社会に突っ込んで、二つに分かれている人間的なるものの概念を捨てなければならないということであった。というのも、遺伝的つながりと社会的なカテゴリー化の間には、生の居場所はないからである。生は、亀裂に落ち込んでしまう。生において、諸関係があらかじめ与えられるのではなく、絶えず作り出されなければならないのだ。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p115

曰く、西洋的二元論やカテゴリー化は、「生」を「deanimate(活力を奪う?)」してしまい、「生」の本来あるべき姿を隠してしまう。ゆえに生きている「人間」とは、生物遺伝の観点からその全てを理解できるわけでも、はたまた社会的制度から全てを理解できるわけでも、ましてやその二つの相互作用から理解できるものでもない。「人間」とは、「生の運動」そのものなのである。ゆえに「人類学」とは、インゴルドの言葉を借りれば「生」の実践なのである。

できる限り幅広いアプローチから学ぼうとする学にご登場願おう。それは、背景や暮らしや環境や住む場所がどのようなものであるかを問わず、世界中に住まうすべての人の知恵と経験を、どのように生きるのかというこの問いに注ぎ込む。これが私がこの本の中で唱える研究分野である。それを人類学と呼ぼう。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p7

人類学とはこの「どのように生きるか」という問いを、分野や垣根をこえて、他者と「共に」実践していく学問である。ではどのようにして「共に学ぶ」のだろうか?インゴルドは「参与観察」という方法を提唱する。

参与観察とは、はたして民族誌という目的に至るための手段なのか?ほとんどの人類学者はそうだというだろう。(中略)でも私の意見は違う。繰り返せば、参与観察は人々と共に学ぶ方法である。それは、他者の生を書くことに関するものではなく、生きる方法を見つけるという共通の任務に他者と共に加わることに関するものである。ここに民族誌と人類学の違いがある、と私は主張する。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p19

画してインゴルドは「参与観察=インゴルド的人類学」と「民族誌=伝統的人類学」を区別する。「参与観察とは他者と共に学ぶ方法」なのだ。それは他者から意見を「借りる」わけでもなく「参考にする」ことでもない。「共に学ぶ」。裏を返せば問題や生への問いに自らが他者と共に巻き込まれていく、その「実践」の中で学ぶことこそが「人類学」なのである。ここでは西洋的二元論やカテゴリー化が入る余地はない。なぜならそこに客観的視点などないのだから。「生」の実践、それは自らの「身体」を巻き込んでいく、いわば「主観的」な試みであり「運動」なのである。それはアカデミズムが提唱する「絶対的客観性」とは相容れない。だからこそインゴルド的には、「人類学」の任務とはこの西洋的思想をベースに構築された「人間」とい定義を、今一度「考え直す」ことなのだ。

人類学の任務とは、このような(人間と非人間の二元論的構図を打開するという)心構えのもと、人間という概念を超えていくこと、あるいは少なくとも別のやり方で人間という概念を捉えなすことだと私は確信している。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳) p40

以上が「人類学とは何か」の大まかな主張のまとめである。もう少し詳しい情報が欲しい方は直接本を買うといい(僕のnoteは所詮まとめである、がとりあえず貼っておく)。

人類学+考古学、芸術そして建築

「人類学とは何か」はそのタイトルが示す通り、「人類学」を中心に展開されてきた。だがmakingでは、人類学(Anthropology)以外に三つのAまでその触手を伸ばしていく。考古学(Archaeology)、芸術(Art)、そして建築(Architecture)。この四つのAこそが、本書の「Making」を構成する重要話らである。

ところで面白いことに、インゴルドはこの四つの領域から「理論的」に思想を引用しているわけではない。この4Aは実践、もっと言えばインゴルドが携わっていた、アバディーン大学のカリキュラムに由来する。ではその4Aとは一体何を目的に設立されたものなのだろうか?インゴルドは次のように説明する。

The aims of the course were to train students in the art of inquiry, to sharpen their powers of observation, and to encourage them to think through observation rather than after it. Like hunters they had to learn to learn, to follow the movements of beings and things, and in turn to respond to them with judgement and precision.

「Making : Anthropology, Archaeology, Art and Architecture」Tim Ingold p11

「観察能力」を研ぎ、そして観察の後に客観的に記述するのではなく、観察を「通して」、いや、「参与観察」を実践していくことで、「art of inquiry」を深めていく。これがアバディーン大学の4A授業である。ゆえにこの本には授業で行った「実践」の例が数々紹介されている。海岸で籠をあむ、椰子の繊維から紐を作る、額縁を持って丘を登る、生徒に観察物の周りにあるモノを持ってきてもらう等々、本書は「人類学とは何か」よりもインゴルドの経験、さらに言えばインゴルドの「教育実践」をベースに記述されている。まさに「人類学(ここではもちろんインゴルド定義の)」の実践なのである。

ところでこのart of inquiryとは何なのだろうか?インゴルドはこのように解説する。

The way of the craftsman, by contrast, is to allow knowledge to grow from the crucible of our practical and observational engagements with the beings and things around us (Dormer 1994; Adamson 2007). This is to practise what I would like to call an art of inquiry.

「Making : Anthropology, Archaeology, Art and Architecture」Tim Ingold p6

そう、art of inquiryとはまさに周囲の「存在」や「モノ」と、参与観察を通して絡まり合い、そのるつぼの中から「知恵」を生成していくことである(「知恵」と「知識」の違いについては前回noteを参照。簡潔にまとめれば「知恵」はanimatedで「知識」はdeanimatedである)。それはそうした関わり合いに「参加」すること、そしてそれらを「観察」する実践の中で発生するのである。まさにこの「参与観察」という実践こそが4Aの根底にあるのだが、何もそれは人類学だけに許された特権ではない。そう、「芸術」もまた、この「参与観察」的実践を共有するのだ。

人類学と芸術

そもそもなぜ参与観察に則ったインゴルド的人類学はart of inquiryなのだろうか?そのためにはまず、参与観察がモノと存在と我々と世界…などなどの間に、どのような「関係性」をもたらすかを理解する必要がある。

That is to say, it is to set up a relation with the world that I shall henceforth call correspondence . Anthropology, I believe, can be an art of inquiry in this sense. We need it in order not to accumulate more and more information about the world, but to better correspond with it.

「Making : Anthropology, Archaeology, Art and Architecture」Tim Ingold p7

Correspondenceという言葉にはさまざまな意味があるが、ここでは「調和」と訳すよりもハラウェイ的に「共-生成(becoming-with)」の方がいいようにも思われる。兎にも角にも参与観察は世界と共に「一体化していく」、「調和していく」という運動なのである。ここでは重要なのはof the worldではなくwith the worldである、ということである。of the worldは世界「について」、つまり世界を一歩引いた視点から客観的にみた場合に使われる言葉である。逆にwith the worldは世界「と共に」、言い換えれば世界の中に主体的に入っていくことである。インゴルドにとって、参与観察とはof ではなくwithの運動である。ゆえに客観的視点から物事を精査しようとしてinformation(情報)を積み重ねていくことが必要なのではなく、世界に入り、世界と共に動的に「生成」していくことが必要なのである。なるほど、どうやら「共-生成(becoming-with)」とcorrespondcenは親和性があるらしい。そしてこのart of inquiry はある種技法なのである。それは客観的視点から何かを記述する方法論ではなく、「共に生成していく」技である。

そしてインゴルドは、同じことが芸術(Art)にも当てはまると考える。

By and large, however, practitioners of the art of inquiry are to be found not among anthropologists but from among the ranks of practising artists. And this prompts a reassessment of the relation between art and anthropology.

「Making : Anthropology, Archaeology, Art and Architecture」Tim Ingold p7

まさにart of inquiry こそが、人類学と芸術(Art)の共通点である。インゴルドはさらに続ける。

What is lost, in both fields of study, is the creativity of the productive processes that bring the artefacts themselves into being: on the one hand in the generative currents of the materials of which they are made; on the other in the sensory awareness of practitioners.

「Making : Anthropology, Archaeology, Art and Architecture」Tim Ingold p7

直訳すると、芸術が無くしてしまったものは「材料の生成的流れ」、そして生成者の「感覚的認識」である。大まかにこの二つをまとめてしまえば、「創造のプロセス」を失ったということである。しかし「芸術」という大きな領域がその全ての問題を共有しているわけではない。逆に言えば、「人類学」と「民族誌」の分断が、「実践としての芸術」と「学問としての芸術」という形でアートの中でも起こっているということなのだ。民族誌が対象とする民族や社会を「deanimte」し、研究できる「静的」なオブジェクトとして捉えてしまっているのと同様に、芸術研究も芸術作品を「静的」なオブジェクトとして捉えてしまっている。しかし参与観察のように、制作者は「創造のプロセス」に材料とともに巻き込まれていかなければならない。ゆえにインゴルドは「process of making appears swallowed up in the object matter」(Ingold p7)と形容する。創造のプロセス無くしてモノは存在し得ないのに、アカデミックな芸術研究家たちは、それを忘れてしまい、まるで完成した「モノ」だけを研究すれば、それらの文化的・歴史的コンテクストがわかるかのように扱う。

Yet while we might learn much about art from the analysis of its objects, we learn nothing from it.

「Making : Anthropology, Archaeology, Art and Architecture」Tim Ingold p8

だからこそ、我々は分析を通じてモノ「について」何かを学ぶかもしれないが、我々はモノ「から」何も学ぶことはないのである。主体と客体という二元論を前提とした西洋的思想では我々が日常的に「モノ」との関わり合いの中で生きていることを忘れてしまっているかのようである。人類学の参与観察のように、芸術とは本来我々とモノが「共-生成(becoming-with)」していくモノである。そこには始まりもなければ明確な終わりもない。本当に研究者たちが着目しなくてはならないのは「作品」ではなくその「過程」、それも客観的視点からの観察ではなく自らがその「過程」の中に巻き込まれていく運動である。巻き込まれていく。モノと、人と、他者と「共-生成」する運動、これこそが人類学が芸術が「共鳴」する所以である。

人類学と建築

人類学と芸術が共鳴するように、建築もまた、これらの領域と共鳴する。何故か。それは上記問題が現代の建築学にも当てはまるからである。

In any case, of the few studies that do exist, most adopt the same general stance as studies of art, visual and material culture in equating ‘architecture’ with built structures that are then treated as objects of ethnographic analysis.

「Making : Anthropology, Archaeology, Art and Architecture」Tim Ingold p10

建築もまた、完成された「建物」を静的なオブジェクトとして捉え、解体したりカテゴリーに沿って分析することによって、創造の「プロセス」を隠匿してしまう。そしてその問題の本質は、「建築」と「建物」と同義であると捉える認識に由来する。

I propose instead to think of architecture as a discipline that shares with art and anthropology a concern to explore the creative processes that give rise to the environments we inhabit, and the ways we perceive them. Taken as the practice of such a discipline, architecture is not so much about as by means of buildings. It is, in short, an architecture of inquiry.

「Making : Anthropology, Archaeology, Art and Architecture」Tim Ingold p10

芸術が「制作者」または「人」と「モノ」のcorrespondenceを解き明かす鍵となるなら、「建築」は「人」と「モノ」にさらに「環境」をプラスする。ある特定の環境でどのように建築物が形造られるか、どのような流動的な力学が発生するのか、どのように「場所」となるのか、そうした疑問が次々と生まれてくる。「architecture of inquiry」である。我々は建築という人とモノと環境とのcorrespondenceの中で「共-生成」していく。そうしてその生成の中で、私たちはさまざまな疑問にぶつかっていく。そしてその疑問に「答え」を提示するには、我々は「内側から」、そう、過程の中に巻き込まれながら生成しつつ見出していくほかないのである。こうして人類学と芸術に、建築もまた「巻き込まれていく」こととなるのである。

人類学と考古学

では考古学はどうだろう。前回の「人類学とは何か」で人類学の歴史を振り返るとき、インゴルドは初期人類学を構成する三つの分野として、社会・文化人類学、形質人類学、そして考古学を上げた。それを踏まえると、考古学と人類学が再統合されることは自然なことにように一見思われる。だが、インゴルドは人類学と考古学が共鳴し合うと思う理由はそれだけではない。

Firstly, just as we have been compelled to distinguish anthropology from ethnography, so, likewise, archaeology must be distinguished from the kind of pre or proto-historiography that has as its objective to arrive at descriptively plausible reconstructions of everyday life in the past.

「Making : Anthropology, Archaeology, Art and Architecture」Tim Ingold p10-11

考古学もまた、人類学、芸術、そして建築が抱えている問題と同一の問題を抱えている。ゆえに考古学を「過去を再現するための客観的研究は記述」とイコールで結ぶわけにはゆかないのである。何故ならそれはdeanimatedされた「生」を研究する学問であり、「生」そのものと向き合う試みではないから。では考古学とはどうあるべきなのか。インゴルドは次のように述べる。

Just like participant observation, excavation is a way of participant observation in anthropology. Just like participant observation, excavation is a way of knowing from the inside: a correspondence between mindful attention and lively materials conducted by skilled hands ‘at the trowel’s edge’. It is from this correspondence, and not from the analysis of ‘data’ within frameworks of ‘theory’, that archaeological knowledge grows.

「Making : Anthropology, Archaeology, Art and Architecture」Tim Ingold p11

発掘とは、参与観察と同じように、「生」の中に降り立ち、動的なプロセスや絡まり合いに巻き込まれながら、「内側」から観察していく試みである。さらに言えば、ここで大切なのは発掘した「対象」ではなく「発掘」という運動それ自体にある。コテなでの道具を(手で)使うことにより、発掘物と関わっていく、その運動。ここで大切なのは、その運動が100パーセント主体的な運動ではないということである。それは狩人と同じように、発掘物の「軌跡」を辿っていくことである。わたしたちが能動的に動くのではなく、モノに受動的に動かされるわけでもなく、「跡を辿る」という、主体性と客体生では割り切れないこの行動こそが発掘の本質なのだ。何故なら「跡を辿る」ことは対象物とのcorrespondeceの中で生まれるのだから。

つまり、人類学が芸術、建築、そして考古学と繋がっていくのは、彼らが同じ問題を抱えているからであり、裏を返せば彼らが本質的に人類学の「参与観察」と共鳴するからである。西洋的な分断でも、絶対的な客観的な視点でも、因果関係によるプロセスのブラックボックス化でもなく、「生」の中に自らが降り立つこと。降り立ち、動的なプロセスと絡まり合いの中で「生きる」ことを「他者(人間/非人間関係なく)」と「共に学び」、「共に生成していく」こと。これこそがインゴルドの考えるart of inquiryであり、そしてそのためにはこの4Aの一体的な実践が必要なのである。

Makingとは

また長くなってしまったので、この本が何を目指すのか、そして「Making」という言葉が何を意味するのかを記述し、第三回を終わりにしたいと思う。

この本はいわば「指南書」である。インゴルド自身の経歴や体験を踏まえて、彼がどのように生徒たちに教え、そうして思想を深めていったかを「辿る」一冊である。ところで「教える」という言葉について、インゴルドは次のように捉える。

In short, teaching (and not ethnographic writing) is the other side of participant observation: there cannot be one without the other, and both are indispensable to the practice of anthropology as an art of inquiry. To teach anthropology is to practise anthropology; to practise anthropology is to teach it

「Making : Anthropology, Archaeology, Art and Architecture」Tim Ingold p13

インゴルド曰く、教えるということは参与観察と同義である。教えるということは情報の伝達ではなく、「学び」という生の中に降り立ち、「他者」と共に「学んで」いく。そこには習慣や自らの経験を教えることはあっても、自らの思想を「押し付ける」ことはない。何故ならその「学び」に明確な目的もなければ「何が」学べるのかという計画もないから。学びは他者との絡まり合いの中で行われる動的な運動であり、それ自体がもはや既に「生」の実践なのである。

本書自体はインゴルドはアバディーン大学で教鞭をとっていたときに、4Aの授業を通してmaking、上妻世海氏のアイディアを借りるならば「制作する」とはどういうことかというを示していく。しかしそれは上から下へと情報を伝達するのではなく、「私はこういうことを発見した、君はどんな発見ができるだろうか?」と優しく諭すような内容である。ゆえにインゴルドは導入である第1章の終わりを次のように締める。

Do not try to read it, as it will not inform you of what you need to know. You’ll have to find that out for yourself. But do read with it. I hope, then, that it will guide you on your way.

「Making : Anthropology, Archaeology, Art and Architecture」Tim Ingold p15

この本は「教科書」ではなく「ハウツー本」でもない。これは読者を「学び」という絡まり合いの中に巻き込んでいく書物である。もちろん一人一人が持つ「学び」のイメージやその対象は異なる。だからこそ我々は「他者と共に」学ばなければならないのだ。それは教えたり教えあったりするだけでなく、何かを「共に生成」していく必要があるのだ。もちろん「他者」とは人間だけに限定されない。数々の存在との絡まり合い、いや、correspondenceの中で、我々は当てのない学びという旅に出る。そう、歩くこと、身体を使って学ぶこと。ここに「人類学の道」へとつながる道ができるのである。

ではmaking、または「制作」とは、なんなのだろうか、どのように人類学、いや、4Aと関わるのだろうか。次回からこの「制作」へと迫っていこうと思う。ではでは〜

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