人類学の道第二回「人類学とは何か?(2)」


前回のあらすじ

ティム・インゴルド主観の「人類学の歴史」を、ダーウィンの進化論から出発して人類学を進化主義→機能主義→構造主義→構造主義的マルクス主義という順番で振り返ったら10000字超えたので一時中断した。今回はインゴルドの考える過去の人類学の問題点、そしてインゴルドにとって人類学とは何か、を探求していく。今回の文章は一応第二回だが、前回からの地続き的な感じで書くのでお急ぎではない方は第一回から読むと歴史が学べて良きかな。

ポスト・モダンと人類学


ポストモダンという言葉は、哲学や文学などでもその定義が異なるが、人類学の場合は、モダンを「西洋権威つよつよ時代」と考えると、ポストモダンというのは、そうした西洋的伝統から抜け出そうとする試みだと思われる。

今や私たちはポストモダニズムの新しい時代へと足を踏み入れてしまった。すべての人間生活と歴史は、転換期を迎えているようだった。人類学にとってこのことは、社会進化の大きな概観から現代の転換期へと、時間軸をせばめることを意味した。同時にそれは、西洋の学者が思考の権威をあたりまえと見る伝統的な研究方法に疑義を突き付ける、強い内省の時代を予告していた。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p109

ポストモダン、それは西洋思想に基づいた西洋至上主義の終わりを告げる福音である。「じゃあ進化論から出発した人類学それ自体が無効な学問となるではない!」などという声が聞こえてきそうだが、西洋思想から離れるということは、「起源」の物語からも離れるということだ。なぜなら新しい人類学は、ハラウェイの「サイボーグ宣言」から流用するならば、「起源の物語」は不必要なのだから。そして何より、この「オリジン」それ自体を疑うことが、今日の「人類学」にとっては急務なのである。何故なのか。インゴルドは自らの悩みが、この前提とされてきたモダンな考え方により起こった「分裂」にあると告白している。

私は、このように人間的なるものを人格と有機体という二つの構成要素に分け、それぞれを社会と自然という別々の領域に区分することに、次第に悩まされるようになっていった。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p110

思い出してほしい。機能主義が進化主義からを批判した時、同時にそれは「人種」と「文化」が全く異なるものであると主張していた。そしてその後に続く文化・社会人類学は、形質人類学や生物人類学に「身体」や「有機体」のことを任せ、自らは「文化」や「社会」の研究に専念することを宣言として。故にインゴルドは、この二つがいかに相互作用的に絡まり合うかを、初期の段階で構想していた。

すべての人間存在ー「生の網目」と生態学者が呼ぶような他の有機体と関わるいのちある有機体であると同時に、社会関係の網目の中で他者と関わる人間でもなるーは、生態系システムと社会システムの二つに、どのように同時に参与しているのかを示そうとした。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p109

だがどうも、インゴルド的にはこの西洋的思想、つまり物事を二つの事柄で区切ろうとする「二元論」をベースに考えること自体が、そもそも誤りだと思われたらしい。悩んだ末にインゴルドがたどり着いた結論は、両者を「二元論」的に考えることではなく、「同じものである」と考えることであった。

インゴルド的人類学の生い立ち

ではどのようにしてインゴルドはこのような結論に至ったのか。彼は自らの体験を踏まえ、第四章でそれについて詳細に記述している。まず、インゴルドが直面したのが、「集団選択」というこれまたダーウィンによって提唱された概念である。

集団選択の考えとは、自然選択が固体レベルにおいて同様、集団のレベルにおいても働くというものだった。選択が固体に働く時には、最も多産な個体が有している特徴を自動的に選好する。しかし、集団のレベルになると、再生産を制限し個体の数を持続可能な範囲内で維持しようと働く仕組みへと向かう、選択の偏りが必ず生じる。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p111

集団内の個数を「維持」するシステムを持つものが生き延び、システムを持たず人口増加と資源の枯渇を促す集団が自然に自滅する。故に集団選択は発生する、という理屈である。ところでこの「集団選択」の一体何が問題なのか。それは人間という動物が、なぜ利己的ではなく「利他的」であるのかを説明するからだ。人類学的な「利他」は、言い換えれば社会の「福祉」である。なぜ人間が「福祉」を個人の利益よりも優先するのだろうか。その究極の問いに究極の答えを提示することができれば、自ずと「社会」、つまり個人が集まった集団、について説明できるであろうと人類学者たちは考えていたのである。しかし徐々に、集団選択の概念は新しい、しかし西洋科学的な概念に取って代わられるようになった。「遺伝子」である。つまりこういうことである。選択は「集団」によって起きているのではなく、遺伝子に刻み込まれた情報をもとに、機械のように作動しているに過ぎない。故に血のつながりの低いものよりも血のつながりの濃いものを助けるのは同じ血を引いているからであり、遺伝子にその「血」を守るようにプログラムされているからに過ぎないのだ、というわけである。結果として「福祉」は「社会的仕組み」ではなく「遺伝的な生物としての性質」として認識されるようになった。

さまざまな論争を呼び起こしたこの「社会的な選択」と「生物的な選択」の争いを調停したのが、、インゴルドが「相補理論」と呼ぶ、二つの意見を統合した理論であった

人間存在は、遺伝的なつながりのある人々に向かって生まれながら好ましく振る舞うようにできている。そしてそう、その彼らの振る舞いには意味が与えられており、その振る舞いが向けられる相手は、諸関係の全体の秩序をにおいてはカテゴリー化される。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p114

しかしこれだけでは問題を解決することはできないらしい。「One is too few, but two are too many」とハラウェイは「A Cyborg Manifesto」で言っていたが、(文脈は違えど)同じことがここにも当てはまるだろう。「二項対立」に縛られたままでは、いくら相互作用的な概要を作り出したところで、「モダン」を乗り越えることはできないように思われる。この二項対立を乗り越えるには、「二つ」ではなく、新しい「何か」を生み出す他ないようである。インゴルドが考えついたのは、そうした二項対立を超える、新しい試みであった。

一九八八年のあの運命的な日に私が気づいたことは、片足を自然に、もう片方を社会に突っ込んで、二つに分かれている人間的なるものの概念を捨てなければならないということであった。というのも、遺伝的つながりと社会的なカテゴリー化の間には、生の居場所はないからである。生は、亀裂に落ち込んでしまう。生において、諸関係があらかじめ与えられるのではなく、絶えず作り出されなければならないのだ。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p115

「カテゴリー化」とは、ラトゥールの言葉を借りればモノの「deanimation」である。animateは「生き生き」などという意味だから否定形de-がつくdeanimationは匙詰め「生き生きさせない」ということだろうか。「静的」な体系へと生き生きとしている「生」を組み込むということは、大空を羽ばたく大鷲を撃ち殺して、剥製にして「鳥コーナー」に飾ることに等しい。同じように、我々が探究しようとしている人間という「生」は、人間を剥製にして静的な体系に組み込んだところで分かりはしないのだ。インゴルドは次のような例を提示する。

例えば、子どもに対する親の愛情は、家庭での長期にわたる生の親密さから生じてくるものであり、それは蓋然的な遺伝的関係性の結果ではない。だからと言ってそれは、「生物学的」でないというわけではない。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p116

よってインゴルドは、わたしたちを次のように形容する。

要するに、人間は生物社会的な存在(バイオソーシャル・ビーイングズ)
なのである。それは人間が遺伝子と社会の産物であるからではなく、生きていて息をする生きものとして、自らや互いをつくるからである。彼らは二つのものではなく、一つなのである。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p116

人間がバイオソーシャルビーイングなのは、彼らが「社会」と「自然」という異なる領域から生まれた産物だからではない。カテゴリーの前に人間存在が先立つ。事物、もしくはここでは「人間存在」そのものに立ちかえることが求められているのだ。そしてその人間存在とは、環境や自然、他者や科学から切り離して説明できるdeanimatedな個ではなく、さまざまな相関関係によって生起している。インゴルドは「実在そのものが、どこまでも相関的であると強く主張」(インゴルド p117)しているのだ。そしてそれによってインゴルドは何を言わんとしているのか。三つの考えうる答えの中でインゴルドが「正しい」と認識しているのは、次のような説明である。

三つ目の答えは、関係とは、いのちある存在が一緒にやっていくことについて経験するあり方であり、実際にそうしているように、それぞれの存在をつくり上げていくあり方である。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p118

存在とは、関係性の結集である。それだけではない、その関係性は動的で、新しい存在や関係が絶えず「生まれてくる」。これがインゴルドの考える「生」である。例えばアメリカ至上主義的意識高い系を見てみよう。彼らは自分達の努力こそが自分達の成果であると考え、「感謝」することは次なる成果へとつながるいわば儀礼的「行為」であると捉える。だがそんな彼らを産んだのは父と母という有機体ではなかっただろうか?彼らの喋る英語は、「アメリカ」という国の影響ではないだろうか?彼らが血の滲む努力をしたという時、家事を全部してくれたのは奥さんではないだろうか?その奥さんが丹精込めて作った手料理には、さまざま「命」が含まれていたのではないか?そもそも彼の思想はぽっとどこからともなく現れたのではなく、さまざまな人物や本に由来するものではないのか?こう考えると「私」という存在はどうやら複数の「他者」の支え、そして「他者」との関係性によって「私」という存在を作っているように思われる。それは逆もまた然りである。「私」という存在が「他者」をつくる。そうして我々が絶えず「作り続けるのだ」。そう、我々は相互作用をしているのではない、既に「内側」から互いに働きかけているのである。

こうした考えをもとに、インゴルドは自らの「人類学」というアイディアを「作って」いく。次章では、いよいよお待ちね、インゴルドの考える「人類学」を紐解いていこう。

インゴルド的人類学概要


進化主義人類学が人間の「起源」に、機能主義人類学が社会の「機能」に、そして構造主義が社会の「構造」に、構造主義的マルクス主義が社会と環境の「相互作用」に注目するとき、インゴルド的人類学は「生」に着目する。

いくつもの生は、伸びては結ばれる交互のサイクルをともに繰り返しながら、互いに応じ合う。撚り糸は、決して永遠に続くようなことはない。なくなってしまうものもあれば、新たに加わるものもある。かくして、人間の生とは社会的なものである。それはどのように生きるのかを理解することについての、決して終わることのない、集合的なプロセスなのである。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p6-7

生とは動的なものであり、他者との関係の中から生起するものである。社会的なものや自然的なものも、そうした人間の「カテゴリー」からすり抜け、認識論ではなく存在論的に関係性を結んでその姿を変化させていく。ここでは絶対的「個」や絶対的「構造」などというものは存在しない。それは存在の「内側」から触手を伸ばし、そうして互いに「絡まり合って」生きていく。この絶えず絡まり合い、時にはほつれ、そうして切れていく「動的」な「関係性」のプロセスこそがここでは「生」と呼ばれるものである。そうすると必然的に、「生」について問うことは、「生」の真理的「答え」に辿り着くことが目的ではないように思われる。臨済宗的な言葉を流用するならば、坐禅を組むことがそのまま「禅」であるように、「生」を問うその姿勢こそがそのまま「生」なのである。

もちろん、「禅」が坐禅以外に茶道や武道、香道などの異なるアプローチからも「わかる」ことができるように、生へのアプローチはさまざまである。そうしたさまざまな生へのアプローチを行う人々から幅広く学ぼうではないか、それがインゴルドの考える「人類学」である。

できる限り幅広いアプローチから学ぼうとする学にご登場願おう。それは、背景や暮らしや環境や住む場所がどのようなものであるかを問わず、世界中に住まうすべての人の知恵と経験を、どのように生きるのかというこの問いに注ぎ込む。これが私がこの本の中で唱える研究分野である。それを人類学と呼ぼう。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p7

人類学、それは普遍的人間の原初の姿を研究していくことでも、「制度や社会」を研究することにより「社会」とは何かを「静的」な定義に落とし込むことでも、ましてや「社会」という構造を自然との関わりから探ろうとする学問でもない。それは我々が日常で生きることであり、「社会」を生きることであり、そしてその撚り糸をからなる絡まり合いを、未来へと「紡いでいく」、答えのない、しかしそもそも答えなど必要のない、動的な関係性の中で生まれるプロセスなのである。ここで今まで紹介してきた「伝統的」な人類学と決定的に異なることは、人類学が「実践」の学問である、ということである。

私たちは人々についての研究を生み出すということよりも、むしろ人々とともに研究する。このやり方を「参与観察」と呼ぶ。それがこの学の礎なのだである。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p16-17

研究の対象を客観的に観察し記述することではなく、研究そのものに自らも参入し、その研究の関係性の中に没入する。ブルーノ・ラトゥールらが提唱した「アクターネットワーク理論」は対象(アクター)を記述する観察者に特権的地位を与えず、自らを既にアクターとの関係性を結ぶものとして扱うように促すが、ここでも同じことが言えるだろう。つまりここに絶対的な「客観性」というものは存在しない。しかしインゴルド曰く、それこそがまさに彼の唱える「人類学」の強みである。

ところが私たちに言わせれば、これこそ(客観性の欠如)こそが、人類学の強さの源なのである。私たちは客観的な知識を求めているのではないからである。私たちが探し求め、得ることを望んでいるのは知恵である。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p14

知識が「deanimated」、つまりはモノを固定して説明する静的なものだとしたら、知恵は「animated」、つまりは生き生きとして動的なものということができる。故に知識は人々に安心感を与える代わりに、その探究心を削ぎ、知恵は人々に不安を与える代わりに、好奇心や探究心を活性化させる。そして生きるということが「動的」である以上、我々は知識だけでなく、この「知恵」をも身につけていかなくてはならないのである。知識が実験室やアカデミックな場で「生成」されるのとは異なり、知恵はこの世界を「生きる」さまざまな人々によって「生成される」。そして大抵の場合、そうした人々とは「教育のない、文盲、それどころか無知と簡単に決めつけられてしまう人々」(インゴルド 15p)を指す。インゴルド流人類学は、こうした西洋科学権威主義から見放され、隠匿されてしまった人々ともう一度手を取り合い、彼らから「知恵」を進んで学ぼうとする。そこから学び取るとき、何一つ仮定したり決めつけたりせず、逆に彼らの話を「真剣に」聞き取る。これこそが、インゴルドの提唱する人類学である。ところでインゴルドの人類学は、従来の「民族誌」ともその性質が異なる。

参与観察とは、はたして民族誌という目的に至るための手段なのか?ほとんどの人類学者はそうだというだろう。(中略)でも私の意見は違う。繰り返せば、参与観察は人々と共に学ぶ方法である。それは、他者の生を書くことに関するものではなく、生きる方法を見つけるという共通の任務に他者と共に加わることに関するものである。ここに民族誌と人類学の違いがある、と私は主張する。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p19

従来の人類学が「民族誌(対象民族や社会に関するレポート)」を書くことを目標とする場合、インゴルドの人類学は「学ぶ」ことを最優先する。他者と共に「学ぶこと」が先決であり、「書くこと」は二の次なのだ。「世界」の中で生きるために、他者と共に学ぶ。それこそがインゴルドの真髄なのである。

よって、私たちが生きる「世界」それ自体も、我々の「生」のように、絶えず生成されていると考えることに、なんら不自然な点はないように思える。世界もまた、固定された青い球体ではなく、絶えず自らを「生成」し続ける存在なのである。我々が特権的な地位を他民族に対して持たないが、同じように特権的地位を「非人間」に対しても持たない。世界が生成される以上、人間と同じように「非人間」も生成され続けるのだから。この「非人間」は動物だけでなく、石や精霊、神や風、山や大地などの、ここでは書き切ることのできない無数の存在を指す。そして我々の「生」が動的な関係の「絡まり合い」である以上、我々が非人間との絡まり合いの中から「学ぶこと」は、ひどく当たり前なことなのである。


賽がすでに投げられた世界の後から出くわすどころか、世界は、そのかたちが現れるまさにその刹那、目の前にいきなり現れる。その瞬間に経験と想像力は溶け合い、そして世界が生成する。世界生成の流れに私たちの知識を結えつけることによって、私たちはべレンズのように、石やそれ以外のものも含め、モノが生きていること(ライヴリネス・オブ・シングス)を目の当たりにすることができる。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳)p30

他者から、それは先住民族のみならず動物や石や精霊などを指す言葉だが、彼女ら彼らから学ぶことは、「アニミズム」の再興を意味する。いや、もっと進んで物事を捉えると、どうやらこの動的な絡まり合い、「世界を貫いて流れる物質の循環とエネルギーの流れの見えない力としていのちを考えなくてならない」(インゴルド p30)ようである。我々は万物から独立し、個々の独立した存在と相互作用的に生きているのではない、我々はそうしたカテゴライズに先立って「いのち」の中で生きている存在なの。よって、インゴルド的人類学は、学ぶこと、つまり「生きること」に身を投じることを我々に促す。それは他者と共に「生きること」であり、そして学ぶことにより、新たな「生」を生成するということである。それは絶えず行われる運動であり、ゴールなどない。いや、そもそもその行為自体が「ゴール」なのかもしれない。兎にも角にも「生きる」ということは「他者と共に生きる」ことであり、「他者の生」に参入し共に学ぶということは、生の絶え間ない「生成」プロセスに参入するということである。これこそが、ティム・インゴルドの考える「人類学」である。

ところで、もし「他者」や「非人間」と共に生きているのだとしたら、そもそも「人間」とはそうした「非人間」との絡まり合いから一時的に生起した存在に過ぎないのではないのだろうか?インゴルドはこの点を指摘し、人類学の任務を次のように示す。

人類学の任務とは、このような(人間と非人間の二元論的構図を打開するという)心構えのもと、人間という概念を超えていくこと、あるいは少なくとも別のやり方で人間という概念を捉えなすことだと私は確信している。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳) p40

近代西洋的思想が打ち出したもっとも影響力のある思想である二元論を乗り越えていくこと。それは人間/非人間だけでなく、文化/自然、精神/身体などを「乗り越えていく」ことでもある。これらのカテゴリゼーションもまた、世界の絶え間ない生成をdeanimateしているに過ぎないのだ。だから西洋的二元論は、この世界の「生」からたくさんのことを見逃してしまう。同じように、我々が「人間」というdeanimatedされたカテゴリーから出発してしまうと、我々がさまざまな関係性の絡まり合いであるという事実を見落としてしまう。故に、我々は「生」を客観的に捉えるのではなく、主観的に参入することによって、「人間」という定義を今一度吟味しなくてはいけないように思われる。それこそがインゴルドの考える、人類学の任務である。

さらに一歩引いてこの人類学を検証してみよう。私は「他者」との絡まり合いによって存在している、そして「他者」もたま、私を含めた多数の絡まり合いから「生起」している。そんな一時的に身体を持ってこの世界に産み落とされた我々が、いかにして「共に学ぶのだろう」。ここでインゴルドは「差異」を強調する。

ゆりかごから墓場までの道行きを通じて、人々は共に進んでいくまさにその過程の中で、自分自身と互いとを区別していく。例えば、かつては一家団欒の親しみを分かち合っていた兄弟姉妹の生は散り散りになり、最終的な、他の生と結びついて自分達自身の家族を打ち立てる。彼らの同一性こそが分割する。逆に、差異は私たちをすベて結び付ける接着剤である。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳) p56

単純に考えてみれば、我々が皆普遍的で「同じ」であるならば、分け与えるものは何もない。逆に我々は皆違うから分け与えたり知恵を交換することができるのだ。違うということは罪はことではなく、共同体に住まう個人が持つ「当たり前」の条件なのである。インゴルド曰く「私たちが共同体に属しているということは、私たちがそれぞれ違っていて、与えるものを持っているから」(インゴルド p59)である。「差異」があるからこそ我々は「共に生きる」ことができるし、お互いから「学ぶ」ことができるのだ。そう、「差異」こそがインゴルドの人類学において皆が出発するべきスタートポイントなのである。

故に、「私」ではなく「私たち」が人類学を学ぶとはどういうことなのか。第二章の最後で、インゴルドはこのようにまとめる。

そのアプローチは包含も排除もせず、広がっていく。それは共通の基盤を探すことであって、既存の遺産を守ることではない。それは他者との接触に免疫を授けるというよりもむしろ、私たちを他者へとさらけ出すことなのだ。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(奥野克己/宮崎幸子 訳) p62

「差異」だけが大切なのではない、「差異」があるからこそ、我々は「共通の基盤」を共に探そうとする。そしてその中で他者と関わるということは、自らや他者を独立した「個」として見做して交流をすることではなく、絶えず「開いていく」ということである。そうしてこの交わり、または「生」の中で共に「学んでいく」、これこそがインゴルドの人類学の本質である。One is too few, but two is too many. 「私」だけでは少ない、しかし「私」と「あなた」は多すぎる。ならばそれは「私たち」の学問なのだ。一人ではなく、かといって全く異なる独立した「大勢」でもない、お互いに差異がありつつも、共通しつつ、そうして「生」を、その関係性の中で絶えず生成し続ける、その動的なプロセス。これこそがまさにインゴルド考える人類学なのである。そしてそれは従来の西洋権威つよつよ科学至上主義から出発した、あの人類学とは全く異なる、しかしよほど「人類学」らしい学問の姿なのである。

感想

もう一万字きちゃったので手短に。実は説明を省いてしまったのだが、割とここでは「私の身体」を通して人類学を学ぶことが重要視されている。そう、メルロ=ポンティの現象学と、似たようなことを言っているのだ。絶対的客観性ではなく、身体を通じた「私の体験」。どこまでインゴルド本人がメルロ=ポンティに精通しているのか不明だが、せっかくなので来週会ったら聞いてみようと思う。あとは今まで個人的に学んできたことにたくさんのことが精通すると思う。ラトゥールやカロンのANT、ハラウェイの伴侶種宣言、マルチスピーシーズ民族誌、カレンバラッドの新物質主義、上妻世海氏の制作論、西田哲学、臨済宗的思想などなど。ただし書いたら止まらないし、個人の感想なので、それはまたどこかで書こうと思う。それでは眠くなってきたのでまた次回。次回はティム・インゴルドの「メイキング」を英語ではあるが取り上げたく思う。それでは

ば〜い。



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