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あなたは科学をシンジマスカ?

 最近日中眠いのでついにカフェイン錠(100mg)に手を出しはじめました。結構効いてくれます。でも夜に反動でグーっと眠くなります。ぐーぐーしたい!それでちょっと仮眠してぬくりと起きて、仕事の続き…の前に、頭ボーっとしてるリハビリで書いてみようと思います。(カフェインの摂りすぎは中毒になる危険があるので要注意)

 ヒュイッターに、脳科学の先生のこういうのがあったのね。

 自分の科学および自然哲学の主義がどれにあたるか…?面白そう、これを和訳してみるね。

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 以下、ベタ訳(頑張った。)

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 科学についてのスタンスを哲学の分野で分類したという図です。

…解説する前におこごとを一つ。

その前にちょっと言いたい💢

 よくヒュイッターで、ノーテで、昼のTV番組ワイドショー(含む報道ステ…おっとやめておこう)で、政治や、社会や、人の主義信条や、不倫や道徳や何かを語るとき、「これはこうだからこうだと思うんですよね。」と、つまり論理的説明をし始めることがあります。ここでいう論理的説明とは、「議論対象を、原因や仕組みを特定した上で、結論を導き出す」行為です。「AはBだからCなんですよね。」原因が若干曖昧でも、結論が若干自信がない、「だと思う」「かもしれない」だとしても。普段から皆さんも使ってますよね。

 逆に論理的説明でないものは、原因やしくみなしに、結論を気分で特定する行為。「AはCだと思うんです。知らんけど」ところで私、「知らんけど」という言葉大嫌い。無責任すぎる。ギャグか何かですか?知らんけど。いや、本当に嫌いだな。品がない言葉だと思います。

 どちらにせよ「…そのお話し、こういう場合はどうなるんですか」「その根拠はなんですか」などと追求すると、信念だから。経験的にそう思うから。実際私はそれで生きてきてうまく言ってると思うからそう思っただけ、とか言い返されます。さらに追求し続けると、「あなたは若いから知らないだろうけど、世界はそれでできてるんですよ!」とまで逆ギレされて言われることある。うわぁ、あなたは全科学者哲学者よりえらいのデスカ?

基本。科学は絶対じゃない。

 言ってることが科学的・論理的かどうかを見極める簡単な方法があります。それは「反証可能性」その論説が、反論の余地があるなら、科学なのです。「えっ?(すでに確立されたような)科学って絶対じゃないの??」違います!科学は、観察・実験・仮説によって、「今の時点ではそうらしい」というのが、科学なのです。

 たとえば「地球表面上は約9.807 m/s²の重力がある」という科学がありますよね。地球の地表地下および上空一定距離までは、この重力が作用して地球の中心(あるいは地面)に向かって全てのものは落下しています。「約」というのは、重力のその強さは場所によってほんの少し誤差があります。また、浮かぶ風船は、空気よりも軽いので空気にじゃまされて落ちません。しかし、科学はこれを絶対とは言いません(と、そんなこと理科のテストの回答にいちいち書いたら、バツとなるでしょうが)。「もしかしたら地球の表面なのに、この重力が全くないか、かなり違う値の場所があるかもしれない」それが反証可能性、科学のスタンスです。南極か北極の近くか、あるいはエベレストなど高い山の頂付近に実はそういうスポットがあるかもしれない。あるいは未発見だけど「飛行石」なる鉱石が発見されて、それを持っていたら浮くとか、科学はそういうものを否定しないのです。なぜなら科学は「だいぶ広く調査して実験して、どうやらどの地球表面上も約9.807 m/s²の重力があるみたいだから、とりあえず定義しよう」としているのが、正しい科学なのです。実は曖昧なのです。

反証可能性がない場合 

 逆に反証可能性がない言説に出くわすことがあります。「神様はいる」「私は精霊によって護られている」「人間には無限の可能性がある」「愛は地球を救う」これらは本人がそう信じてる限り、反論を見つけようがなく、科学的とは言えません。多いですよね、非常に。これらは信仰であり、宗教である、とされます。決して科学的でもなく論理的でもありません(ダメとは言いません)

論理的な話しをしようとするのに、いや言葉を使ってる時点で論理の理解前提なはずなのに、論理を途中で放棄する残念さ

 よくヒュイッターで、ノーテで、昼のTV番組ワイドショーで、政治や、社会や、人の主義信条や、不倫や道徳や何かを語るとき、「これはこうだからこうだと思うんですよね。」と、つまり論理的説明をし始めることがあります。さらに、「こうすべき」とも。例えば…、

「567や地震はある国の陰謀だ」
「政府はもっと給付金を出せ、出せるんじゃないの?」
「軍事費を削減しても戦争にならないから削減しよう!」
「自然環境を保護しないとエコじゃないし最悪の事態に」
「いじめがなくならないのは教育のせい」
「なんでもかでも国のせい」

 …とか。こういう類のこと主張すると、ヒーローになれるし、賛同者がうじゃうじゃ湧きますよね。なんで?楽しいのかな?私はぜんぜん楽しくないです。

 そういった課題提議に始まり、それを論理的に説明しようとしつつ、途中でそれを省略。「詳しくは専門家じゃないから分からんが」「どうやるかは知らんけど」「埋蔵金あるはずだし」そして〆シメに「政府は無能だけどこれだけは即実行すべき!」などと強い語調で締めくくります。

 まず、課題を提示する。それは良いでしょう。次に、原因を根拠なく、あるいは精度の低いデータを提示して、特定した気分で主張し、さらに、要求・希望を(多くは無条件で)主張する。そういった気持ち良さげなカタリの多くが、それを詳しく説明すべき段で、あるいはつっこみを入れられたらなんと…

「詳しくは専門家じゃないから分からんが」
「気分じゃないので詳しく説明する気はないが」(なんやねん💢)
「そこは専門家が責任持って解決すべきなのでバトンを渡すが」
「知らんけど」
「絶対埋蔵金はあるはずだから」

…さらにつっこみを入れ続けたら
「あなたとは話にならないから」
「そう信じてるから」
「それが正しいから」
「表現の自由、何を言っても個人の自由でしょ」
「理解できないのはあなたが馬鹿だから。ブロックブロック!」

…などと逆ギレされます。

 論理的に語ろうとし始めたのに、論理的に説明することを自ら放棄するんです。

 こうなると、もう反証可能性がない、ただの浅薄な「信念」でありわがまままで無知な「願望」であり「宗教」でしかないので…、ならさあ…、

「給付金ほちいなー。わくわく」

 …とだけ言ってろっての💢


 話がだいぶそれました。では表の解読にまいりましょう。アプリでは拡大しにくいので、画像を小分けにして貼りますね。

①観念論、相対主義、カント哲学

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 実在(すべての物質)は私たちが考えるから存在するのか。私がいるから存在するのか。いや、観念の上でのみ存在しているのだ。すべては思考上の産物だ、というのが観念論です。そう言われたら、これにはなかなか反論できない(でも反論の余地はある)。この世は夢幻(ゆめまぼろし)かもしれない。なんて映画マトリックスみたいな話しは、デカルトの「我思う、故に我あり」で一旦決着を見た気でいましたが、その後それを覆す論理などが出現し、実はいまだに形を変え大真面目に議論されています。

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 実在は我々と独立して構造的に理解できるのか?言い換えれば、実在はあるが、それの感じ方は人間だから、人による、あるいは限界がある、という、ちょっと飛躍した展開です。相対主義とは、何事も相対的、立場や状況による、人による、人によって真実も異なる、見えているものも異なる(ことならないって前回私描きました。相対主義はしね!と思ってるので↓↓)、というものです。こういう人いる。やっかいなタイプ。

 カント主義とはドイツの哲学者「純粋理性批判」などを書いたイマヌエル・カントの主張で、「宇宙に果てはあるか」などの疑問はその疑問文に矛盾がある(宇宙、と行った時点でこの世の全て、無限の広さな定義なはずでしょと)、でもそう疑問に思ってしまうのは人間の思考の悪い癖である、だから限界があるから、(ここで飛躍して)人間は神の無条件な理性(善行)に従うべき、とする主張です。

②道具主義、規約主義、プラグマティズム、還元経験主義

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 科学を信じられると思っているか。神の存在と両立するのか。的な段階です。科学なんて所詮、道具として使えるところだけを使うのみ、とするのが道具主義。規約主義は、真理というのものがあるかどうかは知らないが、まあ分かっている事実(規約)がとりあえず正しい、としておくぐらいでいいんじゃない?と、今の科学の裏付けとして上記で述べた「反証可能性」を声高に叫んだような主義。ある意味、現代の科学そのもの。でもちょっと諦めを感じます…💧

 プラグマティズム、還元経験主義

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 我々は自らの認識・経験以外から知識を得ることができるかーNo、から始まり、さまざまなデータが自然から得られていることを肯定する(科学の発展を肯定する)が、しかし、「それを考えるのも人間なので、分かる範囲でしか答えられない。分かっていくものは利用していこう。だから、神はいないとは言えない」とするのがプラグマティズムです。逆に、「我々が」調べられる(経験できる)全てによって、いずれ全ての謎は解き明かされる、とするのが還元経験主義、です。

 ざっくりいうとそれだけな感じですが、このあたりの入門書を読むと、「すべての知見は経験から生じる」?、では「経験から生じないものは認識可能か」「してるじゃないか」「やっぱり、認識してると言いながら、経験として感じてるだけじゃないのか(観念論じゃねーの?)」とか、コントみたいでめちゃ面白いです←

③構成的経験主義、実存主義、構造主義、写実主義

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 科学の目的はどこまで可能か、的なスタンスの段階です。構成的経験主義は、見えない世界(我々の世界も、果てまでは見えないので含む)について語るのをとても嫌い、周囲の実際に知覚できる経験からなるセオリーや規範のみを信奉します。進歩的実存主義は、リアリティのある、実用的な科学の発展を信奉し、人間のために思考し、科学によって全てをコントロールできると信じている、代表者はサルトルでしょう。それを限定し、あるがままを見るのが選択的写実主義です。有り体に言えば、表面しか見ない。所詮それしか見えないのだから、と。そういう人、いるよね。

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存在論的構造主義、認識的構造主義

 もうぶっ飛んでる。構造主義、モダニズムについて「物事を・社会風俗をも徹底的に構造的に(機械の歯車のように・数学のように)考える」として人気の学問なので知ってる人は多いと思いますが、存在論的構造主義はもはや、物理対象は存在していなくともよく、この世は数学的理論のみでできている(それでいーじゃんと)、とする主張、認識論的構造主義は科学の発展により顕微鏡がいくら発展しても(原子が発見され、それがクォークなどの粒子でできていると判明し、されにそれも内部構造があるはずと)さらに微小構造があわられるのだから、我々は物理的対象を永遠に知ることができない、ただ構造が判明していくだけである、とする主張です(ちなみに現代の科学では、クォークは内部構造を持たない、です)。

 こういう「世界は分からない…数学だけでできてるんじゃないか」とか、「原子はクォークでできている、じゃあそのクォークも、何かでできてるっていずれ発見されるんじゃないの?それが永遠に繰り返されて、科学が神に近づくことはやはり無理なんじゃね?」とか考えてみたことある人、多いと思います。

④科学的実存主義

 世界は存在しているし、科学は進歩していきいずれ世界の謎は全て解き明かせる、そして「世界の謎は解ける」と信じている主張です。建設的ですね。

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自分の主義を明確にしてみましょう

 自分の科学(および哲学)の主義がどれにあたるか?そのその主義が根本的に違うと気づかなければ、いつまでも分かり合えないんじゃないかと思います。いちど、自分は科学および自然哲学について上記の表で、どういうスタンスなのかなって考えてみて、それについて入門書一冊でも読んでみると面白いと思います。
 私は、世界の構造はフラクタル構造(らせん状の繰り返し)でできている気がしているので、けっこう認識論的構造主義かなぁ。将来時間があったら大学に行って研究して論文書きたいな、というのが、私の(本当の)夢だったりします。

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おすすめ図書

 このあたりがとみに面白いです。

 目の前のコップの水は本当に実在するか、で100ページ語ってるw(感じな)

 もう、主張は可能か、レベルw

 超おすすめ。難しくない(かっこが9個ついた算数が解けるなら)。世界の物の見方が変わります。いや世界って存在してたんでしたっけ?パラダイムシフト。


5180文字



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