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村上春樹最新作『街とその不確かな壁』をネタバレもなく解釈もなく漂うように読む。

ぼくがそれをはじめて読んだのはたしか大学1年生のときだった。

ぼくとそれを書いた人はたまたま同じ大学だった。それがはじめて手に取った理由だったのか。なんで読んだのか、そんなに覚えていない。「なんとなく」と「ひまだから」という理由の間に常に小説が読まれる理由が寝そべっている。とにかく『風を歌を聴け』をはじめて読んだのは19歳のときだった。その作者、村上春樹の最新作『街とその不確かな壁』を読んだぼくは38歳。ちょうど村上春樹を読みはじめてから倍の年月がたったことになる。

村上春樹の名前を知ったのは大学よりもずっと前で福田和也の『作家の値打ち』という本だった。福田和也は評論家でよく聞いていた夕方のラジオのレギュラー出演者だった。いろいろな作家の小説にひとつづつ点数と厳しい批評がつくというひどく独善的な代物だったけど村上春樹のそれはほぼ全てが最高得点だった。村上春樹が存在することで日本文学にようやく希望がもてる、そんな存在であると書いてあった気がする。

ここではないどこかの森の物語。

村上春樹の小説はいつもぼくに同じような匂いと手触りを残していく。わかったようなわからないような、それでいて読む手がとまらないという。焦点のぼんやりした、それでもなお美しいモザイクアート。小説の中の人物ですら自分が何者で何をしたいのかわからないような。そして世界の有り様も曖昧だ。この小説に出てくるありとあらゆる事象に意味があるかもしれない。意味がないかもしれない。それは読んでいる僕にもわからないし、そもそも書いた村上春樹本人すらわかっていないのかもしれない。それは風がどこで生まれてどこで終わるのか誰にもわからないのと同じようなものだ。風と同じように登場人物は儚く軽やかに漂っていく。

だからなのか、村上春樹の小説はあれやこれや解釈や批評される。読者の経験や環境、そして精神状態によっても感じ方が違うからだろう。暗喩だメタファーだ、フロイトだ、モザイクアートの皆目躍如。そのどれもに村上春樹は沈黙する。何も言い返さない。一流の料理人が出した料理にあれこれ蘊蓄を語らないように。彼が語るのは音楽でありTシャツでありランニングだ。そして忘れた頃に新しい作品がまた読者に問いかけてくる。

ここではないどこかの街の物語。

『街とその不確かな壁』を読んだ。どこまでも村上春樹っぽい小説だった。村上春樹が書いた村上春樹っぽくない小説なんてどこにも存在していないのだが。いつものように猫も酒も本も影もでてくる。いつもの音色。いつもの終末。明確なオチもないし、カタルシスもない。どこまでも続く「ぼく」と「私」の物語。ここでネタバレは書かない。というより、村上春樹の物語にネタバレなんてどこまで意味があるのだろうか。たぶん意味がない。物語の解釈を披露することも意味がない。披露した当の本人だけにしか、その解釈は通用しないし理解できないから。100人いれば100通りの読み方がある。ぼくのようによくわからないまま読むのも良し、書いていないことまで考え抜いて読むのも良し。だから、ここまで多くの読者を世界中で獲得しているのかもしれない。

ぼくは家で、喫茶店で、二日間かけて読んだ。昼に読むのと、夜に読むのでは文章の表情が違う小説をはじめて知った。昼に読むと他人行儀な登場人物が、夜に読むとまるで自分のことのように思う瞬間がある。深夜、子どもにミルクをあげたあとに眠れなくて最後の100ページを読み切った。終わったのか、始まったのかよくわからない最後の一文を読んでぼくは眠りについた。すぐに暗闇が降りた。それはなにより深く、どこまでも柔らかな暗闇だった。