あらゆる差別化された商品は、普通への旅にでる。普通という名の贅沢。普通という名の特別。
先日、(ふつうの)ケチャップというものをいただいた。<SIO>の鳥羽周作さんという有名なシェフの方が監修したようだ。普通って何だろう?まがりなりにも商品を売っている身からすると普通ほど売りにくいものはなさそうに思える。商品やサービスに普通がつくとき、乱暴に言えば以下のような定義ができる。「毎日使える定番なもの(毎日食べられるもの)」そして「流行り廃りのない」「個性が使用している人を上回らないもの」・・・本当に普通なものをマーケティングして売り出すのは相当難しいに違いない。
普通を標榜しているファッションのメディアに「AH.H」がある。僕はこのメディアが好きで毎週金曜の更新をいつも心待ちにしている。でも、ここに載っているファッションは何一つとして普通なものはない。普通ではないイケメンが、普通ではない価格の普通ではない洋服をおしゃれに着こなしている。上記の定義をそのまま信じるなら、このメディアに出るのはユニクロ以外ないのだが(毎日使えるものに価格という意味合いも載せるのであれば尚更)、ユニクロの服は別に出てこない。
普通をユニークポイントにして世に出した瞬間に普通は普通でなくなる。やっぱり難しい。では、使っている人から見たときに「普通」とは何だろうか。普通を極めると、その人の好みや属性、ライフスタイルにぴったり寄り添ったものになる。その人にとって定番となって、普通になっているもの。普通なものは使用している人と≒な関係になるはず。だから、その人にとって普通なものを見つかったら相当、幸せだし、相当贅沢だ。何せ世の中に星の数ほどある商品の中から自分にぴったりなものを見つけるのは至難の技だから。だからあらゆる商品やサービスにとって、究極の目標は万人にとって普通になることなのかもしれない。定番になって繰り返し使ってもらう(買ってもらう)ことは企業にとって利益最大化になるのだから。他の既存商品との差別化をはかって市場に出したものが最終的には普通を目指すというのも興味深い。
例えば、僕にとって「UNIQLO U」の無地半袖Tはどこまでも普通だ。厚手のゴワゴワした生地も白の色味も自分の好みに合っている。定番でもう何十枚買ったかわからない。興奮も感動もないけど春夏秋冬、毎日着ている。
僕にとってZEBRA社のSARASAというボールペンはとことん普通だ。家には常時10本以上ある。書きやすいと思わない代わりに、これ以外のペンで書くととても書きづらいなと思う。こうやって考えると普通の尊さや凄さがよくわかる。普通を普通たらしめるものは決して普通ではない。贅沢で特別なことだ。
自社で売っているスキンケア商品「BespokeWash-ビスポークウォッシュ」も男性ひとりひとりにとって特別なものであって普通なものであって欲しい。自分の肌質や肌悩みに合ったオーダーメイドなものという意味では「特別」だけど、自分の生活に寄りそって毎日使う定番なものという意味では「普通」なもの。数多くのスキンケア商品がある中で、針の穴を通すほど難しいことはわかっているけど商品の良さには自信がある。頑張って広めていきたい。
(ふつうの)ケチャップは良い意味でも悪い意味でもとてもフルーティーだった。酸味の強いカゴメのケチャップを愛用し続けた僕にとって(ふつうの)ケチャップは普通ではなかった。