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自分と向き合えば、思い込みが見えてくる。

自分で自分を癒そうと決めてからは、1日の中で自分に酷い言葉を浴びせる回数がぐっと減った。
体感として、言わない方が良いと知ったから。
嫌な言葉は、一瞬で自分の心を暗い所へ閉じ込めるということに気付かないとはまったままなかなか抜けられなくなる。

いつからだろう。
自分を責めるようになったのは。
と、自分に問いかけてきた。
自分に向き合ってきた。
これは過去を思い出して癒していくためではなくて、自分の思考グセに気付いて、向く方向を変えるためだった。

最初は怖かった。
自分は何一つ悪い事なんてしていないって思っていたから。
思っていたというか、思うようにしていたから。
思い切って扉を開けてみた。
案の定、少し覗いてみただけで気分がわるくなった。
そう。
そこにいた私は暗い洞窟の中でブツブツと誰かを自分を痛めつけるような呪文を唱え続けていた。
おどろおどろしいぐつぐつと煮えたぎったスープをかき混ぜながら、あいつのせいだ、親のせいだ、あの男のせいだ、私なんて!!とブツブツと唱え続けていた。
※便宜上の表現です

わかっていたけれど、これを20年以上もやり続けていたことに驚く半面、執念深いなと思った。
1日も欠かさず続けるなんて、努力家だわ私!

前にもnoteに少し書いたけれど、生まれた時からある宗教に入っていた過去があり、そこでの教えによって
【○○しないと幸せになれない=私はそれをしたくないから幸せにはどうあがいてもなれない】
という公式が潜在的にべったりとはりついていた。
おそらくこれが原因で、私はもうこの人生で幸せになることはないと思い込んでいた。

実際、もう嫌!というような事が断続的に起きていたし、外から見れば幸せだろうなということも自分にはずっと「私にはふさわしくないもの」だった。
もう1度引用するけれど、【○○しないと幸せになれない】と思い込んでいたから、普通の幸せな日々をもっても【幸せではない】【幸せになれないしなってはいけない】と思っていた。
○○をすることで過去の云々が解消されて生まれ変わった後に素晴らしい人生が、、、って、生まれた時から言われ続けていれば辛くなっちゃうよな、と認めた時、やっとそのドロドロとした呪文まみれの自分から解放された。

それすら認められなかった頃を考えると、本当に私はたくさんの経験をして学んできて良かったと心から思う。
起きるべくして、起きているとはこういうことなのかもしれない。

今の私は、もう、何かをしなければ幸せになれないなんて思っていない。
ここで時折り入ってくる風を感じるだけでも心地よいな、と小さな幸せを感じるから。
幸せの定義を重く考えていた頃は、こんな些細な日々の事にも気付かず、イライラしてうまくいかない事を嘆き、毒入りスープばかり創っていたのだけれど!

もちろん○○しなければ幸せになれないを採用して、幸せな人生を送る人もたくさんいると思う。
何を選んだって良い。
何を正解にしたって良い。
誰かを非難することもしなくて良い。
ただ、私は自分がされて嫌な事はしない、自分にもしない、と決めている。

外を見て一喜一憂するのではなく、常に自分と向き合えば、必要なものは必ず自分の目の前に現れて、自然と癒されていく。

私が幸せでありますように、を呪文のように唱えている私の独り言でした。

LIVE your LIFE ♡♡♡



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