見出し画像

『道草』(夏目漱石、新潮文庫)の感想

 『道草』はいやな話である。「彼は子供が母に強請(せび)って買って貰った草花の鉢などを、無意味に縁側から下へ蹴飛ばして見たりした。赤ちゃけた素焼の鉢が彼の思い通りにがらがらと破(われ)るのさえ彼には多少の満足になった。」(p182)という健三の物語。この「誰も何もしないのに、自分一人で苦しんでいらっしゃる」(P67)男が、養父・養母・義父・姉などから金の無心を受け続けるというのが全体のストーリー。主人公の性格が悪いところに、話の中心が金である。時に「魂と直接(じか)に繋(つな)がっていないような眼を一杯に開け」(p159)て心因性の発作を起こす妊娠中の妻、そして二人の子供を抱えているのである。さらにこれがほとんど実話小説である点に、いや~な読み応えは増す。それはなぜかというと、漱石の心中はかくばかりに殺伐としていたのかと思わされる迫力を感じるからである。
 この健三は改心するのか、という点はすごく気になる。健三の「非」は余すところなく描写されている。この健三の「非」は同時に漱石の「非」であるならば、それをいかに克服する(させる)のか、という点は物語の上でも実生活の上でも大切な展開だと思える。しかし、健三は正面から受けとめない。「己(おれ)の責任じゃない。必竟(ひっきょう)こんな気違じみた真似を己にさせるものは誰だ。其奴(そいつ)が悪いんだ」(p182)とのたまう。これが単なる責任放棄とばかりに読めないのは、彼の子供時代のエピソードを併せて読むからである。「実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。寧(むし)ろ物品であった。ただ実父が我楽多(がらくた)として彼を取り扱ったのに対して、養父には今に何かの役に立てて遣(や)ろうという目筭(もくさん)があるだけであった」(p295)。(三八~四四章の回想の寂しさは本作の最大の読みどころかと思う)。
 エゴをもてあます健三が、自分のすべき道を「分かっていても、其所へ行けない」(p314)まま、「逃げるように」(同)過ごすのがタイトルの「道草」の所以(ゆえん)となるだろう。このエゴは次作の『明暗』の主題ともなるが、これは未完の遺作となり、結局漱石はエゴばかりで改心を描かなかった。しかしこの二作には『こころ』の「先生」のように孤高に死んでゆくような(ある意味での)ずるさはない。つまり、そういうところに踏み出してきたというすごみがある。

この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?